闇底で消えゆく雷嵐
人は生まれてから死ぬまで、八つの苦しみを背負うという。
冥境に落とされた龍の眼には、それらの業が異能として刻まれていた。
思うままに動けぬ苦しみ――縛眼。
一番下の眼が、二丁の斧を腰帯に戻したキキリリを捉える。
次いでその上の眼も瞳孔を取り戻し、姉の隣で空になった魔力回復薬の水筒を投げ捨てるネネミミへ向けられた。
追い求める渇望を抱える苦しみ――飢眼。
この視線を一秒以上浴びた者は、体力を根こそぎ奪い取られてしまう。
だが、眼球の焦点が合う前に、二人の姿は掻き消えた。
視線を回避しようと高速で動き出した双子に、新たに瞳孔を取り戻した二つの眼球が向けられる。
他者を憎み恨んでしまう苦しみ――怨眼。
愛する存在との別れの苦しみ――離眼。
恨みがましい視線の効果は、激しい憤りを伴う精神の異常だ。
平常心を失ってしまうので、まともな思考ができず非常に危険となる。
そして別離の眼差しがもたらすものは、愛しい己が肉体の別れだ。
屍の龍の視線が体のどこかにわずかでも定まると、その部分がちぎれ飛んでしまう。
当然、頭部を見つめられると、一秒後には首から上と胴体がさようならとなる。
四つの眼球から放たれる眼差しを、双子たちは自在に駆け回り躱していく。
まさに目に留まらぬ速さである。
だがいかに速く動こうとも、今度は四倍の視界だ。
その範囲外へ逃れるのは不可能に近い。
むろん、柱の陰を使えば少しはマシではあるだろう。
しかしキキリリたちには、確実に龍の視線を引きつけておかねばならない理由があった。
全力で動き回る双子へ止めを刺すように、続けざまに龍の残り三つの眼球に瞳孔が宿る。
終焉の時を告げられる苦しみ――屍眼。
あらゆる病に冒される苦しみ――疾眼。
無残に老いさらばえる苦しみ――衰眼。
死苦と老苦の二つの視線が当たると、肉体の壊死と細胞の急激な老化が引き起こされる。
そしてもっとも厄介な疾眼は、その視線が走った場所を通り過ぎるだけで全身が痙攣する病に感染してしまう。
この七つの眼球の範囲外へ逃れるのは、人の身では不可能である。
ならば双子が取る道は一つ。
人の限界を超えるまでだ。
「今よ、ミミ!」
姉の叫びに先んじて、ネネミミはありったけの魔力を解き放つ。
瞬時に二人の体は、青い雷に覆われる。
同時に紫色の電が、周囲の空間を一気に覆い尽くす。
反発する青と紫。
次の瞬間、双子の姿は完全に消え去った。
残ったのは風を切る音のみ。
いや、もう一つ。
地面や壁、さらに中空にまでも二人が疾走った足跡のみが、鮮やかに浮かび上がる。
それは高速で移動するため蹴りつけた衝撃が形となって残されたものだが、電気の火花が飛び散る様はまるで紫と青の華がいっせいに開花したような美しさであった。
――<電光切華>。
<迅雷速>と<電滞陣>をともに最大限に高めたことで会得する上枝魔技である。
そして一定の空間内を超高速で自在に動き回ることができるこの魔技は、奇しくもトールが無数の亡霊の通路を抜け出るために思いついた方法の発展型であった。
宙を舞う切り華の群れを前に、龍の眼たちはギョロギョロと動き回る。
だが、もはや双子の姿を捉えることは不可能である。
もっともキキリリたちも視線を避けることのみに費やし、何一つ反撃はできていなかったが。
膨大な魔力を消耗する上枝魔技は、あまり長くは持たない。
そうしばらくしないうちに、二人の動きはもとの速さに戻るであろう。
だが分かりきった結果を前に、双子は甘んじて逃げ回っていた。
そして待ちに待ったその瞬間が訪れる。
七つの瞳孔を光らせる龍に、さらなる変化が生じたのだ。
虚ろであった右の眼窩に、急速に新たな眼球が再生していく。
真っ白な硬膜が持ち上がると同時に、八個目の瞳孔が姿を現す。
生まれでた苦しみ――命眼。
とたんに龍の肉体は、劇的な変容を遂げた。
白い鱗に色が宿り、鮮やかな新緑の色へと変わっていく。
頭骨が剥き出しであった顔の半分もみるみる間に肉に覆われ、同時に醜い7つの眼球が肉に埋もれて消え去ったかと思うと新たな左目が眼窩に宿る。
さらに左の肩が急速に盛り上がり、次の瞬間、飛び出してきた肉と骨が翼を形成する。
最後に失った足までも再生してのけた翠龍は、頭部を高く掲げて嵐のような咆哮を放った。
この時を。
この瞬間を待ちわびていたのは、双子だけではなかった。
ゆっくりと息を吸い込んだチタは、龍の最後の眼差しを見つめながら静かに帽子を脱ぐ。
それは永く生き延びて龍へと变化した存在への敬意。
そしてこんな場所に無理やり繋ぎ止められた魂の救済。
チタの行為には二つの意味が込められていた。
翠羽族の女性の頭頂部には、当然ながら羽状の緑色の髪が二つ並んで天を向いている。
だがチタの頭部にはもう一つ、帽子の下に隠されていたものがあった。
二つの羽に挟まれるように立ち上がったのは、緑色の花弁を持つ草花だ。
その宙に浮かぶ花びらは独特の形をしており、まるで風車のようにくるくると回っていた。
風が全くないはずの闇の底でである。
チタの頭部に生えた不思議な草を、兄であるチルは強い痛みに耐えるような眼差しで見つめた。
花の名前は勿憶草。
風神ロヘを信奉する交易神殿が有する聖遺物だ。
本来ならもう使う予定のない代物であった。
今ごろなら優秀なチタは故郷へ戻って後進の育成に尽力しつつ、子を成しながら、のんびりと飛竜を乗り回していたはずである。
だが直前で、事情が変わった。
チルたちの属する常盤家の家長が、いきなり代替わりしたのだ。
新しく長になった末っ子は、疑り深く兄姉を信用しない男だった。
当然、金剛級であり英傑に近いチルとチタを疎ましく考える。
特に不味かったのは伝承の怪物である沼地の魔女討伐で、大いに活躍してしまった点だ。
これにより兄妹の名は、交易神殿を通して一気に各地に広まってしまう。
そんな英雄たる二人に、万が一にも大瘴穴を塞ぐような手柄を立てられてしまえば、自らの地位が危ういと。
そこでチルとチタに与えられた使命は、おぞましい忌み名を冠せられた龍の解放であった。
大量の飛竜を有し空路を自在に行き来する常盤家にとって、その象徴たる翠龍が無残な怪物と化したままである状況は捨て置けないというのが建前だ。
もっともな理屈だが、これは秀でた冒険者のあまりにも無駄な使い潰しである。
それでもチタは、何も言わずに了承した。
命令に反発すれば、家が割れることに繋がりかねない。
それは祖国リージニアリアの危うい現状を考えて、取るべき道ではないと。
ゆっくりと回り始めた風車状の花びらから、清浄なる風が生じる。
心地よい空気の揺らぎは、猛り狂う龍を静かに包み込んだ。
風車が回るたびに風がどんどん強まり、対比するように龍は穏やかな唸り声を発する。
そして同時にチタの表情からも、少しずつ精彩が欠けていく。
やがて浄化が始まった。
龍の肉体が空中に溶け出すように、端々から音もなく消え失せ出す。
それはじょじょに足や翼を消し去り、翠色に輝く鱗に包まれた胴体へと及ぶ。
最後に安らかに目をつむった龍の頭部が消え去り、後に残されたのは床に転がる禍々しい鎖環のみとなった。
その呪縛の鎖も奥の壁の黒い穴に吸い込まれると同時に、穴ごと消え去ってしまう。
後には肩で懸命に息をする双子と、冷静な顔の水使い。
そして聖遺物の力を使い切ったチタと、哀れな龍の最期を見届けたチルだけとなる。
こうして永きに亘り迷宮に縛られていた腐屍の龍ゾルダマーグは、ようやくその忌まわしき名を忘れ去ることができた。
頭部の花がしおれ力なく倒れ込む妹を、チルは優しく受け止めてその瞳を覗き込む。
その両の目からは、柔らかな光はすでに消え去ってしまっていた。




