翼の向かった先
「おはよ~。待ってたよ~」
宴が終わった翌日の朝。
出発しようと砦を出たトールたちに気の抜けた挨拶をしてきたのは、飛竜に寄り添う翠羽族の女性であった。
やや厚ぼったい上着に、緑色の羽だけ出した蛇革のピッタリした帽子。
まさに今から空の旅に出かけようといった格好である。
「アイサツだな。おはよー、はねのねーちゃん」
「おはようです。チタさん」
「おはようございます。今日はよい飛行日和ですね」
「おはよう。朝っぱらからどうした?」
待っていたという言葉にトールが眉を持ち上げると、チタは薄っすらと笑みを湛えたまま言葉を返した。
「ひとっ飛び行くんだけど、どうかな~って思って」
「りゅーのっていいのか!? それはだいかんげーだな」
「そうですね。時間もありますし、せっかくのご厚意をむげにお断りするのも失礼ですしね」
飛竜大好きな二人が即座に返事をしてしまったので、付き合うのは決定となってしまったようだ。
ソラと目を合わせて顎の下を掻いたトールは、さっそくムーを持ち上げて飛竜の腹にある小舟に押し込んだ。
首の付根の操縦席に座りたいと駄々をこねられるのを防ぐためだ。
続いてユーリルとソラが乗り込んだのを見届けたトールは、鱗の突起に足を掛けよじ登ろうとしている操縦士に尋ねた。
「で、今日は何を見せてくれるつもりなんだ?」
「えーと、ほらナイショにしてたヤツだよ~」
聞き覚えのあるその言葉に、トールはかつてチタに誘われて沼の奥で魔女を見せられた時のことを思い出す。
兄のやり方に反発しての行動だと言っていたが、それ以外にもまだ目的があったとの話だった。
「俺たちに魔女の存在を教えたもう一つの理由か?」
「うん。おかげさまでようやく念願が果たせるよ~」
悪戯っ子のような笑みに切り替えたチタは、軽やかに飛竜の背を駆け上がりながら手を振ってみせた。
「ほ~ら、出発するよ~。乗って乗って~」
「もう、トーちゃん、なにしてるの? だんたいこーどうをみだしちゃダメでしょ!」
「トールさん、早くしないと置いていきますよ」
急かす二人に苦笑しながら、トールもすぐに小舟に乗り込んだ。
魔力によって集められた風が翼を押し上げ、竜の巨体がゆっくりと宙に浮かび上がる。
馴染みのある浮遊感を味わいつつ視線を外へ向けると、そこはもう空の中であった。
はしゃいだ声を上げるムーと、そばに寄り添うユーリルが仲良く小舟の縁から顔を出す。
城壁に立っていた歩哨の青年が二人に気づいたのか、大きく手を振ってくれた。
ムーたちも、息を合わせたように手を振り返す。
砦の上を三度ほど旋回した飛竜は、その鼻先を陽が昇る方角へと向け、大きく翼をはためかせた。
たちまち耳元を風が覆い、後方へ押し流されるように景色が入れ替わっていく。
朝もやが沼のあちこちを漂い、鮮やかな白と黒の対比を描いている。
昨日までそこで泥まみれになっていた事実を思い出して、トールは感慨深く長い息を吐いた。
隣に座っていたソラが、労るように手を伸ばしてくる。
二人は手を重ねたまま、移りゆく眼下の風景を見送った。
そんなトールたちの思惑など歯牙にもかけず、軽々と泥の上を飛び越えた飛竜は程なくして廃棄された監獄へと行き着いた。
だが翼を休める素振りもなく、あっさりと角張った建物の屋根を置き去りにしていく。
主を失った沼の奥は、ぽっかりと大きな空白が生じたようだった。
あれほど居た泥毒の巨人たちも姿を消し、ただひたすら泥の海が広がるのみである。
その上を飛竜は悠々と飛び続ける。
どうやらチタの目的地はまだ先のようだ。
そのまま三十分ほど代わり映えのない景色が続いた。
もっともムーとユーリルには十分に刺激的だったようで、ずっと舳先に陣取って飽きることなく眺めていたが。
そして唐突に景色が黒から褐色へと変わる。
沼が終わりを告げた先に広がっていたのは、一転して乾ききった荒野だった。
ところどころに見える黒々とした塊は、荒れ地茨の茂みだろう。
血管のごとく縦横に走る筋は道ではなく、うねり具合からして蒸発してしまった川の名残りのようだ。
牛ほどの大きさで、捻じくれた四肢を持つ黒い獣の群れも見えた。
さらに視線を奥へ向けると、波打つように奇妙に歪んだ山々が遠くに連なっている。
新しい景色を前に、トールは合点がいったように呟いた。
「……なるほど。今までは瘴霧が邪魔で来られなかったのか」
トールたちと魔女を打ち倒したおかげで空を塞いでいた厄介な霧が消え、ようやく瘴地のさらに奥まで行けるようになったというわけだ。
眼下の荒れ果てた地に目もくれずに、飛竜はさらに速度を増していく。
通り過ぎていく地上の様子を、トールたちは興味深く眺め続けた。
そのまま一時間ほど進んだ頃合いだろうか、不意に真上から声が降ってくる。
「ちょっと傾くから気をつけてね~。あと少しのハズだから~」
気がつくと、あれほど離れていたはずの山々がすぐ間近へと迫っていた。
ゴツゴツとした岩だらけの不毛の山肌が、ハッキリと目に映るほどだ。
その連なる山と山との狭間。
両側が切り立った谷に、飛竜の体は吸い込まれるように入っていく。
とたんに轟々と耳を叩く音が響き、急速に尻の下が持ち上がる感触が襲ってきた。
真下から吹き付ける突風を受け、飛竜は天頂を目指し一気に加速する。
巨体が急激に上向きになり、斜めになった小舟の中でムーが楽しげな悲鳴を発した。
そのまま船首に居た二人がずり落ちてきて、ソラにぶつかる。
そして三人がくっついたまま、今度はトールに伸し掛かってきた。
船縁を掴んで食い止めると、少女と子どもが目を合わせて大きく笑い出した。
珍しくユーリルも、弾んだ笑い声を上げている。
左右の風景が矢のように後方へ飛び退っていく。
渦巻く風が髪を派手に揺らし、頬が後ろに引っ張られる感触が伝わる。
気がつくと、トールも知らず知らずのうちに笑っていた。
数秒、数十秒後だろうか。
不意に山陰から抜け出たトールたちに、いきなり日の光が差し込んでくる。
同時にふわりと内臓を揺らす独特の感触とともに、小舟が水平を取り戻した。
眩しさにまばたきしながら、皆の視線が自然と前へ向き――。
笑い声が一度に止まった。
山を越えた先には、広大な光景がトールたちを待ち受けていた。
波のようにうねりながら続く灰色の丘陵地。
赤茶けた奇岩が立ち並ぶ平野。
青々とした木々が森のように密生したまま、砂埃を巻き上げて地面を移動していく様も見える。
その合間を蛇行する太い川は、血のように赤い。
だがトールたちの視線を釘付けにしたのは、それらではなかった。
それらの向こう。
地平線へと連なる部分を覆っていた真っ黒な何かだ。
なにもない。
見渡す限りの地を覆っていたのは、広大な空虚としか言い表しようのない存在だった。
だが一目で、その正体が何かはハッキリと理解できる。
それは、とてつもなく巨大な穴であった。
身じろぎもできずに、トールたちは真っ黒な口を開く深淵を無言で見入る。
いや目が離せないのだ。
どう足掻こうとも、吸い込まれるように視線がそこへ向いてしまう。
黙ったままの四人は、呆けたように巨大な空洞を見つめ続けた。
このまま魂までも吸い込まれるかと思えたその時――。
今度は小舟が横へ大きく傾いだ。
一拍子遅れて、飛竜が強引に旋回したのだとトールは気づく。
意識を戻して確認すると、船の向きは今来たばかりの方角へと変えられていた。
肺の底から息を吐いたトールは、先ほど見たばかりの光景に小さく呟きを漏らす。
「…………本当にあったんだな」
「ふぁぁぁあああ、ビックリしたー。すごかったねー」
「うん、おおきかったなー。あれ、なんだ!? トーちゃん」
「今のが、かの"昏き大穴"ですよ。ムムさん」
"昏き大穴"。
滅世の神々が、この世界に穿ったといわれる穴だ。
すべての瘴気の根源であるとも言われている。
幼いころ、寝聞かせに散々聞かされたものだ。
だがトールが育った村では、それを直に見たという人間は居なかった。
ダダンの境界街に移り住んでからも、目撃したという話は皆無であった。
あまりにも危険すぎて、わざわざ見に行ける代物ではないからだろう。
念願と言ったチタの言葉が、トールの胸に改めて響いてくる。
彼女もまた先を見たいと願う冒険者の一人であったようだ。
「まっくろだったなー。ムー、おっこちるかとおもったぞ」
「危機一髪だったね、ムーちゃん」
ソラの受け答えに顔を上げた子どもは、少しだけ黙り込んだ後、少女の体を小さい手で押し退けた。
そして無理やり作った隙間をくぐり抜けると、その後ろに座っていたトールの足によじ登る。
そのまま体の向きを変えたムーは、すっぽりとお尻をあぐらの真ん中に落ち着ける。
首を反らしてトールを見上げた子どもは、嬉しそうに言葉を続けた。
「やっぱりおっこちるなら、トーちゃんあなだな」
「あー、ズルい。わたしもそれがいい」
「うーん、ソラねーちゃんのおしりじゃつっかえるかも。ここはムーせんよーなー」
「えー、そんなことないよー」
「ソラさん、良かったら私の膝はいかがですか?」
ユーリルの言葉に振り向いたソラは、嬉しそうに笑いながら倒れ込んだ。
膝枕に頭を乗せて、驚いたように声を上げる。
「やわらか! ふわふわだよ、トールちゃん! ユーリルさんの太もも、すごいよ!」
その感触をすでに知っていたトールは、黙ったまま顎の下を掻いた。
急いでいた往路とは違い、復路は比較的緩やかな速度だった。
奥地の瘴気の濃さなども、関係しているのかもしれない。
三時間後、何事もなくトールたちは、沼岸の砦へと戻ってくる。
小舟から降り立った一行は、悪臭混じりの沼の空気を嗅いで安堵の表情を浮かべた。
「おつかれ~。今日はこれでおしまいだよ~」
「あれが見たかったのか?」
「うん、やっぱり一度くらいは見ておかないとね~」
「……そうか。もしかして?」
思い残しが綺麗に失せたように、チタの表情は晴れ晴れとしていた。
だがその問いかけに、翠羽族の乙女は小さく首を横に振ってみせた。
「うん、これでスッキリしたら、近いうちに国に帰るつもりだったんだけどね~」
「えっ! チタさん引退するんですか?」
「いんたいってなんだ? ユーばあちゃん」
「冒険者を辞めるということですよ、ムムさん」
紫色の瞳を大きく見開いたムーは、チタとその隣の飛竜をキョロキョロと急いで見比べる。
そして朗らかに言い放った。
「そっかー。じゃあコイツはムーがひきとるしかないか。よろしくな、りゅーすけ!」
「勝手な名前付けないで~。あと引退もしないから~」
「そうなのか?」
「うん。ちょっとした事情があってね~。もうちょっと続けるつもりだから、よろしくね~」
兄との確執が、まだ解決していないのだろうか。
差し出されたチタの手を、トールは静かに握り返した。
その手は思っていた以上に力強く、そして温かった。




