歌い継がれる勲し その一
その朽ちかけた建物は、闇に染まったような黒ずんだ石でできていた。
ところどころで壁が欠け落ち、錆びついた鉄格子の門扉は片方だけ辛うじて残っているような有り様だ。
だがその廃屋が放つ禍々しい存在感は、この瘴気まみれの沼の中でさえ異質であった。
黒々と開く入り口の向こうには、地の底へと伸びる階段がうっすらと窺える。
かの建物こそが大瘴穴に取り込まれ、無数の怪物を生み出し続ける迷宮。
廃棄された地下監獄のわずかに残された地上部分だ。
廃墟の奥に横たわる闇を無言で睨みつけていたバルッコニアの背に、親しげな声がかかった。
「ふ、もうあの中に入ったことを考えているのか? 気が早いな、お喋り屋殿は」
「…………ええ、想像するだけで気持ちが舞い踊りますよ」
嵐峰同盟のチルとは、以前は互いに疎んじでた相手である。
だがそれもこの二週間の力を合わせた作業を通じ、軽口を叩ける仲までとなった。
しかしそれも所詮、付け焼き刃でしかなかったようだ。
バルッコニアが考えていたのは、その正反対のことだった。
彼がこの地に来たのは八年前。
金剛級であるストラッチアらの助力を、本国ズマから要請されての移籍である。
その日からバルッコニアはひたすら影に徹し、"白金の焔"を支えてきた。
三派閥による対立の構造を生み出し、泥毒の巨人の討伐数に制限を加えたのも彼の仕業だ。
もっともそうしてなければ、伝承の魔女は今頃監獄を乗り越えて沼のほとりまで来ていたかもしれないが。
"白金の焔"に欠員が出れば、優秀で当たり障りのない人物が選ばれるよう誘導し補充していく。
あとは陰鬱な泥まみれの風景を眺めながら、ストラッチアらが通りやすいよう道を掃除し、野営地でもてなすだけの日々だ。
彼自身が"白金の焔"に加わるという選択肢も、実のところあった。
連続で魔技を繰り出すその戦いぶりから、本国では"饒舌の炎使い"と呼ばれたバルッコニアである。
同じ炎使いのニネッサに負けず劣らずの活躍を見せることもできたであろう。
だがダンジョン探索に加わるという行為に、バルッコニアは非常に消極的であった。
理由は単純で、暗くて狭いところが苦手だからである。
各地の施療神殿で相談したり高名な医術士を訪ねたこともあったが、ことごとく徒労に終わった。
些細なつまずきで英傑を目指すことを諦めた男。
それがバルッコニアであった。
だがそんな男だからこそ、いろいろと思うことがある。
特に最近は地下監獄を封じるべきであった貴重な聖遺物をボッサリアに使われてしまい、しかもその尻拭いでひたすら時間を稼げなどという本国の無茶振りに胃を痛める毎日だった。
そんなところに、今度はそのボッサリアを救ったとかいう噂の英雄様の到来である。
けれども新たな火種となるはずのその男は、皆を集めてこう言い放ったのだ。
「いっしょに魔女を討伐しないか」
と。
一笑に付すべき言葉だ。
さらに本来であれば伝承の魔女の討伐などという危険すぎる行為になぞ、バルッコニアの立場からすれば協力するいわれもない。
むしろ妨害に徹すべき案件だった。
しかしトールたちが起こした数々の奇跡を前に、死んだように眠っていた男の心が激しく揺り動きだす。
まさか、しかし、でも……いや、もしかして。
そしてバルッコニアの心中に、一つの考えが生じる。
それは最初は小さな泡であったが、やがて頭骨の内側一杯に膨れ上がっていく。
――英傑として地図に名を刻むことは無理だが、英雄として書や歌に名を刻むことはできるかもしれないと。
おそらくこの戦いに勝っても負けても、本国の指示を無視した以上、バルッコニアはこの沼から去ることになるだろう。
それに関しては、むしろ清々した気持ちしかない。
残念なのは今回、大量の金剛級が生まれることで、巻き起こる混沌を目にすることができないという点くらいだ。
もう一度、別れの意味を込めてバルッコニアは、一歩たりとも入ることが叶わなかった地下監獄の入り口を眺めた。
それから大きく息を吸って、視線を前に戻す。
視界いっぱいに、つなぎ合わせた赤い丸太が隙間なく敷き詰められている。
その先には、泥の中から体を持ち上げる人型の異形。
さらにその向こう側。
小山のようにそびえ立つ巨大な影。
わずかに首を左右に振ったバルッコニアは、高らかに声を張り上げた。
「では、皆様始めましょうか。この永久に語られるべき戦いを!」
戦いの火蓋が切られた。
誰かの飛ばした矢が、続けざまに泥毒の巨人の頭部へと突き刺さる。
体をブルリと震わせた巨人は、のっそりと向きを変えた。
そしてゆっくりと丸太の上に泥でできた足を置いた。
「盾士の皆様は足元に詰めてください。そこなら棍棒の威力がかなり減りますので。戦士と剣士の皆様は落ち着いて後ろへ回ってください。解放の樹より来たりて集え。うーん、場所が悪いですね。少し手前に引っ張りますか。その身をもって味わいたまえ、大いなる炎威の片鱗を――<激発炎>」
話し終わると同時にバルッコニアの杖の先から火球が生じる。
それは弧を描きながら宙を飛び、巨人の頭部に吸い込まれるように命中した。
たちまちそこから新たな火球が飛び出し、モンスターの肩や背にぶつかり泥を蒸発させて大きく穿つ。
通常の炎使いがこの位置から放った<激発炎>ならば、不規則に飛び散った火球のせいで味方に多大な被害が生じることは間違いない。
だがバルッコニアの炎は、一つ残らず巨人の体へ降り注いでいく。
あり得ないほどの精密な制御に、他の派閥の面々から感嘆の声が上がった。
大きく欠けてしまった巨人の頭部が、すぐに元の姿に戻らない様子にバルッコニアは目を細めた。
そしてお喋りを続行する。
「よし、好感触ですね。やはり紅樹のおかげで、泥の補給が著しく下がるようです。ここは一気に畳み掛けましょう。最初の一匹を倒せば楽になるはずです。あ、そろそろ来るはずなので水使いの皆様は構えてください。ほら、今です」
バルッコニアが喋り続ける間に、赤毛の剣士が距離を詰めたようだ。
その体重を載せた長剣を、巨人の背後から膝の裏辺りへ叩きつける。
その体がクルリと円を描いた――<連斬華>。
紅蓮に輝く刃がもう一回転し、鮮やかにモンスターの足を斬り飛ばす。
耐えきれずに体を傾けた泥毒の巨人だが、その口元が大きく開かれた。
同時に黒い霧のようなものが噴き出して、辺りに撒き散らされる。
その名の示す通り、体を蝕む瘴毒の吐息だ。
「生命の樹の御主よ。悶え苦しむ子らに、一滴の雫をお与えください――<水清>」
すかさず待ち構えていた水使いたちが、それぞれ担当している人間の状態の異変を浄化した。
振り下ろされた埋れ木の棍棒を、盾士たちがいっせいに持ち上げた盾で受け止める。
そこへ再び銀色の刃たちが振るわれる。
さらに赤い炎の線がほとばしり、その体を少しずつ焼き切っていく。
回復手段を奪われた泥毒の巨人は、わずか三十分も満たないうちに誰かの攻撃により精霊核を破壊されて泥へ戻った。
あまりにもあっけない勝利に皆がどよめく中、他にもその死に反応を示した存在が居た。
泥海の向こうの山がわずかに身じろぎしたかと思うと、その顔らしき部分が小さな人々の群れへと向けられた。
同時に折れ曲がるように突き出た鼻の下辺りに、大きな穴が生じる。
そこから真っ白な霧が、凄まじい勢いで噴き出した。
みるみる間に黒い泥を覆い尽くしながら、蝕む冷気が押し寄せてくる。
そしておぞましい空気の渦は、逃げる間もなくバルッコニアたちを一瞬で包み込んだ。




