2ー3
気晴らしは楽しかった。
想像したこともない場所に行って、観たことのない景色を観て、聞いたこともない音楽や話を聞いた。びっくりするほど美味しいものや、ひどく不味いものを食べ、楽しい酒の飲み方を覚えた。奇妙な道具の使い方を習い、不思議な乗り物を乗りこなして、ゲームに興じ、単純な遊びに笑い転げ、複雑な遊びで知恵を絞った。
船長は子供のように無邪気に私を連れ周り、魔法使いのように楽しいことをつぎつぎと私の前に並べて、悪魔のような誘惑で私を堕落させた。
私は思う存分羽目を外した。
「見て見て、キャプテン!夜明けよ。空が薔薇色だわ!」
私は帆船の甲板で、手摺に掴まって身を乗り出した。眼下には夜明け色に染まった城と鐘楼が見える。見張りの帝国兵の姿も小さく見えるが、誰も上空に浮かぶこの船を見上げてはいない。船長の魔法が船を包んで隠しているのだろう。
「いささか遊びすぎたが、まぁ、なんとか同じ晩には帰ってこれたな。ここであっとったかね?」
風にマントを翻しながら、こちらに歩いてきた船長は、私の隣で城を見下ろした。
「うちの城ってこんなに小さかったのね」
「君の部屋はどこだったかな?」
「あそこよ」
私は尖塔の1つの脇にある小部屋を指差した。小さな雪花石膏の窓が空を映して薔薇色に光っている。
「日が昇る前に部屋まで送ろう。まずは着替えてきたまえ。君が最初に着ていた服は部屋に置いてある」
言われて、私は自分のお気に入りのジャケットに目をおとした。
「確かにこの格好で帰るわけにはいかないわね……」
「ガンベルトはここで外していきなさい」
「残念だわ。せっかく両方一度にくるくる回してホルスターにしまえるようになったのに……持っていっちゃダメ?」
「可愛く言っても、ダメなものはダメ」
私は頬を膨らせて、未練がましくノロノロとガンベルトを返した。
「脚の分も出しなさい」
「……はぁい」
私は背を向けた船長にしぶしぶ返事をすると、スカートに手を突っ込んでガーターベルトに挟んでいた分を取り出した。
「全部だ」
「やだ。見てたの?」
「見んでもわかるわい。ほれ、さっさとせい」
私はお気に入りだった異界の武器を全部取り上げられた。
「私、最初こんな格好だったのね」
随分久しぶりに元の服を着て、私はため息をついた。古くさいデザインでお婆さんのようだ。
「羽を伸ばし過ぎたから、いささか窮屈に感じるじゃろうが、それは致し方あるまいて」
船長は私に「夜遊びがバレんように気を付けいよ」と念を押した。
「そぉーんな、溌剌としたピンクのほっぺをして、可愛らしくニコニコしとったら、ああーっという間にバレるからな」
「ニコニコなんてしてないわ」
私はあわててしかめっ面をして、船長を睨み付けた。
「ダぁメ、ダメ。そんな生き生きと愛らしい様じゃ。もぉーっと死んだようなつまんなーい顔をせんと」
「……私、そんな顔をしていた?」
「おうとも。そりゃもう涙の一滴もでないほど干からびた塩の湖みたいに真っ白で硬ーいしょっぱーい顔をしとったぞ」
私は"しょっぱい顔"というのがよくわからなくて、とりあえず顔にシワを寄せてみた。
「それは塩辛すぎる塩漬け肉を食べたときの顔」
「あれはまずかったわ」
思わず真顔になった私に、船長は「そうそう。そういう顔」と言った。
「初めてみたときは若くて美しいお嬢さんが、何でまたこんな腐りかけの魚みたいな目をして、幽霊みたいに立ち尽くしているのかと、びっくりしたからな」
「ひどい言われようだわ」
「ひどい有り様だったんだ」
船長は私の目の前に立つと、私の両頬に手を添えて、深い青色の目で私の顔を覗き込んだ。
「ああ。もうすっかり良くなった」
私を見つめる船長の目の奥で緑色の火花がチカチカと弾けた。私はその輝きに見とれた。
「さぁ、元の部屋だ。ここで良かったかね?」
気がつくと私は閉じ込められていた小部屋に戻っていた。何もかもが元通りで、本当にあのすべてが一夜のことにされたのだと驚かされた。
頬に触れていた手を引いて、船長は1歩下がった。
これでお別れかと思うと胸がつまり、熱くなった頬に涙が零れた。
「おお、おお、泣いとるのか?どうした?ワシはまた何か失敗したかね?この部屋ではいかんかったか」
船長はおろおろとして私にハンカチを渡し、背中を擦ってくれた。
「いえ、いいの。ありがとう。ここに戻ると言ったのは私なのに、ここで1人になるのがちょっと辛くなっただけ」
「それはいかんな。作戦変更しよう。なあに、君がここで我慢しなくても大丈夫な方法ぐらいすぐに思い付けるだろう。マル秘大作戦は楽しい気持ちでワクワクやらねば面白くない」
私は二人でわいわいと立てた対帝国大作戦を思い出して、クスリと笑った。
「ううん、大丈夫。もう平気。ここで1人でやっていけるわ」
船長は心配げに私を見たが、不意にピンと髭を跳ね上げた。
「そうだ。餞別がわりに呪いをひとつかけておいてやろう」
「呪い?」
「帰ってこれるおまじない。両足の踵を3回打ち合わせてから、"おうちほどいいところはない"と何度も唱えると、ちゃぁんとここに帰ってこれる」
船長は小さな子供にするように、私の頭を撫でた。
「帰る魔法なの?出ていく魔法じゃなくて」
「そりゃぁ、出ていく方は自分でいくらでもできるじゃろう」
船長は、何を今さらという顔をした。
「やり方は色々教えたし、大人しくひとところに押し込められているような嬢ちゃんでもなかろ?」
だから餞別は帰るための方法だと船長は言った。
「たった一度だけ、本当に自分ではどうしようもなくなったときのための最後の手段だ」
一生使わなくてもいい。いつだって帰れると思えば、なんとかやっていけるもんだ。などと笑って言うところをみると、このオマジナイというのはただの気休めの冗談で、本当の効果はないのかもしれない。
それでも私は、本当に自分ではどうしようもなくなったときの逃げ道を、船長がくれたのがなんだか嬉しかった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
船長は気取った口調で重々しくそう応えた後で、ピクリと片眉を上げた。
「要らぬボロを出して、しょーもないピンチに陥るんじゃないぞ。ワシが教えた悪~いアレコレはきっちり隠して人前ではちゃぁんと猫を被るように」
「わかってるわ」
「ビンに口を付けてラッパ飲みをしたり、夜中に摘み食いをしに台所に忍び込んじゃいかんぞ」
「やらないわよ!」
「指についたクリームを舐めるのもダメだ」
「……わかったわ」
「でも、誰も見ていないときならこっそりやっていい」
船長は小さくウィンクした。
「ではな、お嬢さん」
彼のマントが大きくひるがえった。
「さらばだ」
早朝から場内で働く人々の物音が聞こえ始めた。
雪花石膏の窓から白い朝日が射す部屋で、私は「よし!」と一声、気合いをいれてから、これからの段取りを練り始めた。




