2ー2
雪花石膏の窓からうっすらと月の光が差している。
寝台に横になる気も起きず、私は簡素な寝着の上からガウンを羽織って、暗い部屋に佇んでいた。
「(ああ、生き苦しい)」
私は闇に視線をさ迷わせた。
"膿まず恐れず健やかなる健闘を!君ならなんだって必ずやりとげられる"
彼は寿の呪を私にかけて、去っていった。私はその呪に応えようと頑張ってきた。誠実に、貞淑に。国を守るためには辛い選択をせざるを得ないこともあったけれど、それでも叶うる限り、彼が好んだあの花のように慎ましく清らかにありたいと願ってきた。
「可憐に強くなんて、できるわけないでしょう。二度と助けに来る気もないのに無茶言わないで……」
「まったくだ」
思わず漏れた弱音に、誰の気配もなかったところから急に返事がかえって来て、私は驚いた。
「どこのバカかね?お嬢さんにそんなことを言ったのは」
闇の奥で緑色の眼が光った。微かな月光で大きな羽根飾り付きの帽子とマントのシルエットがかろうじてわかる。まるで世界から音が無くなったような静寂の中で、私は立ち竦んだ。この世のものならざる雰囲気のその男は、帽子を脱いで、芝居の役者のように大業に礼をとってみせた。
「突然の失礼をお許しください、レディ。特に宛もなく散策しておりましたところ、声にもできぬまま千々に乱れる乙女の苦悩があたりを震わせておるのに気付き、何事かと馳せ参じた次第です。見ればこのような場所に美女が一人。十重二十重に厳重な警備が敷かれておるところを見ると、なにやらわけありのようだが……」
男の口元で、細く尖らせた口髭がピンと跳ね上がった。
「どうだね?お嬢さん。ワシがここから拐ってやろうか?」
また、随分と変なのが来たわね、と私は気が遠くなる気持ちで諦めぎみに思った。
「なぁるほど!そりゃひどい。とんでもないアホウだなそやつは」
「でしょう?やっていられないわ」
自称海賊船長のその中年男は、私の話に何度もうなずきながら、皇帝をけちょんけちょんに貶した。あまりに現実味のない男相手に、私はつい差し向かいで日頃誰にも話したことのない思いをぶちまけていた。
「これであなたが皇帝陛下の部下だったり、その辺りに間者がいたら、私は不敬罪で処刑ね」
「そうなったら処刑台の上から華々しく貴女を救いだして差し上げよう」
船長はテーブルについていた両手をばぁっと大きく広げてから、不安そうな私の顔を見て一つ咳払いをした。彼は騎士が誓いでもするように握った拳で自分の胸を叩いた。
「だが、心配ご無用!ワシはそぉんなアホウの小僧っ子の手下になる気はさらさらないし、お嬢さんを煩わせる無粋な覗き屋どもはまとめて騙くらかして閉め出してやったからな。奴ら今頃その辺でぐるぐる目を回しとるよ」
船長は愉快そうに人差し指をくるくる回した。
「あなたはまるでお伽噺の魔法使いだわ」
「大魔王なら何回かやってみたことがある」
船長の人差し指の先にほのかな明かりが灯った。闇の中に男の風貌が浮かび上がる。胡散臭いを通り越して、どこか狂気をはらんだ眼が強烈な印象を与える顔だ。にいっと持ち上がった口の端に合わせて、針金のような口髭の先が上を向いた。
「似合いそうだわ、大魔王」
「たいして面白くはなかった」
「そう」
テーブルの上に細く生やした氷のキャンドルに明かりを移した船長を見ながら、私は指輪の精霊の彼を思い出していた。
「あなたも黒い髪なのね。異界の人は皆そうなの?」
「そんなことはない。異界の者にあったことがあるのか」
「ええ、昔。私が何度も同じ時を繰り返してしまって困っていたところを助けてくれたの。何かの"局"?の仕事をしていると言っていたわ」
「時空監査官どもか。髪の色を覚えられるとは、随分な下っぱだな」
そう呟いた船長の目は先程のような緑色ではなく、青みがかっていた。
「ご存じなの?」
「何人かは。……友人ではないがな」
奴らは総じてドジで、小うるさい、と船長は言った。
「そうね。あの人も失敗ばかりしていたわ」
私は始まった瞬間に終わった初恋を懐かしく思い出した。
印象も人となりも年齢もまったく違うが、彼と船長はなんとなく似ている気がした。
私はこれまで誰ともしたことがないほど気安い雑談を船長と交わした。
彼は私のどうでもいい話に大袈裟に驚き、呆れ、激しく同意し、顔をしかめ、私のために怒り、心配し、もらい泣きした挙げ句、照れ臭そうに声を潜めた。
「泣いたのは秘密にしておいてくれんか。カッコ悪いからな。歳をとると涙脆くなっていかん」
「あなたとお会いしたことは誰にも言いません」
「それがいい」
夜ふけにこんなオッサンと二人でおったなどとバレると、何を噂されるかわかったものではないと言って、船長は笑った。
「さて、ではそろそろ行くとするか」
「お帰りになられるのですね」
私は引き留める言葉を探すのを止めて微笑んだ。この微笑みで沢山の諦めの区切りをつけてきた。今度も大丈夫。
「なぁにを言っとるか。さっさと支度をせい」
私は微笑んだまま首を傾げた。
「で、どこに行きたい?どこへでも連れていってやるぞ」
船長は立ち上がって大きく両手を広げると、ぐるりと回った。
「遥かな丘の花園、広がる海原の小島、深い森の奥の泉、高い空の彼方。月でも星でも、地の底でも海の底でも思いのままだ……もちろん帰りたい家があるなら、おうちまでお送りしよう」
「帰る場所はないわ」
「では、貴女を温かく迎えてくれる人がいるところは?」
私は首を振った。国が負けるとはそういうことだ。
「私はここから逃げるわけにはいかないの」
「ふーむ」
船長は尖った髭の先を摘まんで捻りながら、片眉をつり上げた。
「お嬢さんは子供の頃に、親や先生に黙ってこっそり遊びに出掛けたことはあるかね」
「いいえ」
「ふむふむ。いい子だったわけだ」
確かに私は、指輪の精霊の彼に世の中には色々手段があることを教えられるまでは、言われたことをきちんと守るだけの子供だった。
「あなたは昔、悪い子だったの?」
「ワシは今現在が悪党真っ盛りでな」
船長は大威張りで胸を張った。
「ただ、いかんせん。誤魔化そうにも親も先生もおらんし、家がないので家出は未経験だ」
船長の声が少しだけ寂しそうに聞こえたのは、自分の思いを投影しすぎたのかもしれなかった。
「だがワシはエスケープは達人だぞ。どうだね?ぴったり出掛ける前通りの時間と場所に戻れるとしたら、気分転換にどこか好きなところに好きなだけ遊びに出掛けても、いいとは思わんかね?」
「気分転換……」
「そうとも」
船長は目の前だけではないどこかを同時に視ているような異様な目付きで緑色の目をギラギラ光らさせた。
「楽しいぞ」
魔王をやったことがあるというのは嘘ではないのだろう。甘美な誘惑で人を悪の道に引き摺り込むやり口がどうにいっていた。
「だったら」
私は魔王の誘惑に身を任せることにした。
「どこか異界に行ってみたいわ」
ここではないどこか。国もしがらみもしきたりも違う世界。私が王妃でなくて良いところ。
あの人に会えるとは思わないし、会えたとしても何もできないけれど……。あの人と同じように世界の外側からそっと滑り込んで名もない誰かとして過ごしてみたい。
「お望みのままに、マイレディ」
船長はマントの裾を広げ、羽根飾りつきの帽子を手に、恭しく膝を折って礼をした。
「いきましょう」
私は世界の外側に踏み出した。
すみません。当初予定では時空監査官と遭遇するはずだったんですが、変なのが湧いてでて、なんか勢いで異界に出掛けてしまいました。
この時空をまたにかけた海賊船長は、モブの彼が主役をやっている方の話の2章の悪役?です。気ままに生きてます。髭のイメージは画家のダリ。髪型はサリーちゃんのパパ。……変なオッサンです。




