6 ――乗り込み――
やがてやってきたのは、一定間隔で建っている住宅の1つ。広い庭付きの大きい一戸建てであった。ノラたちが宿泊している宿屋に近い大きさを持つので、そこは人が住むにはやはり大きく感じた。
背筋に冷たい何かが走った。これ以上進めば、何か取り返しがつかないことになりそうな気がして――――本当に何もしないままでいいのか。思考の分かれ道が現れた。
恐らく助けは来てくれるだろう。だが、それこそが一番迷惑を掛けることなのではないのか。
「僕の屋敷にようこそ」
しかし結局、何をするでもなく、為されるがまま、促されるがままにノラは中へと連れ込まれた。明らかな自分の意志と、勘違いされても仕方が無いほど自然に。
――――中は、なんら変わらぬ一般家庭の造りの構造であった。中からは愛玩動物らしき大きな犬が走ってきてテールに駆け寄ると、次いで小さな女の子が「おとーさん」だなんて言いながら走ってきた。
「お、今日も可愛いなぁ」彼はそう言って子を抱き上げる。犬は息を切らしながらノラに飛びかかっていた。
「きゃあっ」
犬にしては大きすぎるほどの体躯に押し倒されると、女の子はそれでようやくノラの存在に気づいたようで、
「おとうさん、その子どうしたの?」
「ああ、この子は新しい家族になるんだよ」
彼が言うと、奥から女性が現れた。そうして、聞いていたその台詞に対して呆れたように息を吐く。
「またですか? 今度はいくらで買ってきたんですか?」
ノラは犬を押し返す。しかし固い肉球が顔を連打するのでどうにも抗えない。
「いや、譲ってもらったよ。向こうも旅の中で邪魔らしかったんでね」
「手癖の悪い子はいやよ? それと――――『使ったら』ちゃんと片付けておいてね」
犬の、獣独特である匂いを押し付けられる中で不意に聞こえる台詞。ノラはその瞬間思わず呼吸を止めていた。
――――なぜわたしがこんな目に合わなければならないのか。何故わたしが目をつけられてしまったのか……。
助けが来るまで待っているだけだったつもりのこの状況が、本当にこの男に何かをされるという現実味を妙に帯びてきて、ノラは呆然とする。
抗うか。こんな所でくだらない事に巻き込まれる言われは無い。このくそったれな男に制裁を――――。
犬が強制的に引き離され、男はノラの手を掴んで倒れた彼女を引き上げる。その中で、ノラは大きく下がっている左手を振り上げようとすると――――首筋に、凄まじい電撃が衝撃を伝えた。
太く固い、ゴツイ鎖で強く弾かれたような感覚がして、ノラはその痛みの余韻を感じる間も無く意識を手放した。
そんなノラを見て、男はハイドに見せた笑顔を浮かべる。そうして彼は、ノラを背負って自室へと向かった。
「アナタ、遊ぶのもいいけど、その前にお昼にしましょう?」
テールの妻らしき女は開いている自室のドアから声を掛ける。中は薄暗く、また薄ら寒い。どことなく生臭さも感じるが、彼の部屋は居間からも離れており、最早慣れてしまったことなのでどうとも感じなくなっていた。
テールが彼女を愛していることには変わらないので、彼女はそれで満足しているのだ。勿論、彼が資産家であることも満足する理由の1つではあるのだが。
「ああわかった。そうしよう」
部屋の中で何かが乱暴に床を叩く音がする。あるいは何かが叩きつけられたのかもしれない。女はそれが何であるか容易に予想がつきながらも、いつもの事だと居間へと引き返した。
――――この国ではそれが”当たり前”であった。常に弱きものを得ようとし、それを見て自分の有能さを実感する。
それが悪いともなく、善いともない。この国のあり方は、常に自分をごまかすことにあった。
「――――なさけない、事です」
気がつくと薄暗い部屋。肌寒く、また妙な異臭を含んでいる空気が充満していた。
人の気配は――――ある。誰であろうか。ノラは不思議と縛られていない手足を駆使して立ち上がった。
頭が一番高い位置に上ると、目頭に妙な重さが走って、三半規管に不具合が発生したのか、体がぐらついた。思わず片膝を付いて、ノラはそのまま落ち着くのを待つ。
決断が遅い。何を迷っていたのだろうか。自身が面倒を起こすのならばまだいいが、この状況になると――――確実に、ハイドが揉め事を自主的に起こさねばならない。
「わたしはバカだ」虚しい言葉が空気に溶け込んだ。
胸が苦しかった。周りが見えていなかった。何故自分がこの旅についてきたのか――――そこでようやく思い出せる。
最初は純粋な謝罪の意であった。それがいつしか好意に変わって、捕まってもハイドは必ず助けてくれるので、勘違いしてしまったのだ。自分は弱くあっても良いと。
自己嫌悪の波がノラを飲み込み始める。今まで見たことも無い、特別大きい――――ビッグウェーブ。
その中で、薄れていく本当の目的を、ノラは思い出し始めると、どこか遠くで誰かの叫び声が聞こえた。
「よし、見つかった」
ハイドはとある家の前で鼻を鳴らした。玄関は目と鼻の先。表札には『テール』の文字が刻まれていて、その以下に2名また別の名が書いてあったが、特に興味は無かった。
「しかし馬鹿だねぇ。堂々と連れて歩くなんて」
「何かしら奥の手があるんだろ? まぁ、関係ないけどな」ハイドはインターホンを押す。籠った鐘の音が聞こえて、中からバタバタと慌しい足音が聞こえた。
「もしこれで決まった仕事がパーになったら?」
「仲間を捨てなきゃ出来ない仕事なんてこっちから願い下げだ」
「――――はい、どちらさ……ま、でしょうか」
シャロンと並んで言葉を交わしていると、やがて玄関の扉が開いた。
中からは髪がピッチリと決まった、整髪料の匂いが香ばしい気障な男が1人。彼らを出迎えてくれる。
「どうも。仲間がお邪魔しているようで……、申し訳ございませんが、呼んできてくれます?」
男は目の前の現実を疑うように目を見開くと、やがて無意識の内に止まっていた呼吸を細々と再開する。
彼の頭には冷風が一陣駆け抜けたようで、
「少々お待ちを」
「1分だ」
ハイドの言葉をかき消すように、扉は乱暴な音を立てて閉じられた。
やれやれとシャロンが肩をすくめる。ハイドは扉を見つめて5秒ほど口に出して数えた後、
「59、60――――1分経過」
一気に時間を飛ばし、彼は無遠慮に玄関を開けて中に侵入する。シャロンはそんなハイドを端から見て、何か嬉しそうに笑って、後を付いて行った。
「何処に居る?」
「左に曲がった突き当りの部屋。だけどテールは他に居るみたい」
シャロンは耳をピクリと動かして答えた。
地獄耳は厄介だが、こんな時は本当に役に立つ。ハイドは心の中で感想を漏らして、言われたとおりの廊下を進んだ。
「すいません、お邪魔してます」
慌てて出てきた母子は呆然と2人の姿を見ていた。声も出せずに立ち尽くしたのは、ハイドが剣を抜いていたからである。
「おいお前等!」
家にしては妙に長い廊下を進むと、背後から叫び声が突き刺さった。うるさそうに耳を伏せるシャロンが振り返ると、何かが投げられて――――それは金属の擦れる音を立てて、シャロンの胸に落ちた。
音から察するに、金貨の入った袋である。そしてソレが何を意味しているのか、2人には即座に理解できた。
「10万だ。他は後で用意する。必ずだ。だから今は退いてくれ。100万でも1千万でも出すから――――僕には、家族があるんだ。恥をかかせないでくれ」
金はいくらでも出すから帰ってくれ。夢のような台詞だったが、その中にノラの返還という選択肢が無かった時点で、ハイドはその言葉に応じるつもりは無かった。
だから、ハイドはあからさまに不機嫌だということが分かるように溜息をつき、鋭い眼差しでテールを睨んだ。すると彼は立派なほどに逃げ腰であった。
「残念だな。最初の挨拶で分かってくれたと思ったんだが――――」
1歩。彼は踏み込むと一瞬にしてテールの視界から姿を消して、その懐に潜り込み、長い白刃の腹を優しく首筋に擦らせた。
「かかってこいよ、成金野郎。最期くらいあがいて見やがれ」
テールの呼吸は見る見るうちに浅く、短くなっていく。ハイドはそれに意識を奪われていたせいか、はたまた油断していた成果――――彼がポケットから何かを出したことに気づけなかった。
「ぼ、僕が何をしたって言うんだよォ!」
重みの無い破裂音。テールは手に持つソレをハイドの腹に突きつけると、それがなんなのか、ハイドに思考する時間も与えずに引き金を引いた。
細い砲筒を持つ携行武器。それは一般的に『魔銃』と呼ばれる魔法兵器である。
弾を込めて撃つ。それは大砲の小型化したものだが、大きな違いは弾丸にある。弾丸は火薬によって打ち出されるのではなく、魔力によって弾き出される。
そして、弾の中に入っている魔法が、敵に直撃した際に解放され、炸裂。物理攻撃と魔法攻撃の二重奏を奏でる武器であった。
――――さすが成金。見たことも無い金が掛かりそうな物を持っていらっしゃる。
ハイドは腹に風穴を開けたまま考えると、剣を引いて、そのまま下がって見せた。
「やっぱ、ノラのために俺が傷を負うってのが気に入らん。シャロンさん、ちょっと時間稼いでおいて。殺さずにね」
無表情のまま淡々と告げると、ハイドは振り返り、シャロンに武器を渡して――――ノラが居るらしい、奥の部屋へと歩いていった。
異常なまでの清々しさに、傷の痛みも見せないハイドに、テールは額を脂汗で濡らしていた。




