1 ――上書き保存――
飢えた獣の慟哭のような声が空間に響き渡る。巫女が見る彼の上半身は、漆黒に染まっていた。
指が鋭く尖り、瞳は赤く、牙が外から差し込む光に輝いた。
その姿は、正に魔族。
巫女は現状を理解できぬまま、彼の指先がピクリと動いたのを見るなり、隣に大きく飛び込んだ。――――その瞬間、先ほどまで居た場所に強い衝撃が伝わり、壁が砕け散る。
それに巻き込まれた巫女は、吹き飛ばされ、壁を突き破り、外に転がる。
「な、なんという……ことでしょうか……」
地面に叩きつけられる直前に回復魔法を自身に唱え、ダメージを大幅軽減させた。
だが瞬く間に、彼女が守ってきた本殿がその姿を崩していく。耳につんざく破裂音が鳴り響く。
――――また、獣の叫び声が鳴り響いた。
巫女はただ呆然とソレを眺めている内に、はっと我に返る。そうしてから、屋根を突き破って参道に降り立ったそれに視線を向けた。
彼は人間を偽ってここを襲ったのか。それは仲間も一緒になって? 嘘をついて同行し、ここから滅ぼしていくつもりなのか。
魔族という存在は知っていたが、実際にこうして目の前にするのは始めてである。彼女はこの廃退の一途を辿る神社をただ1人で守ってきた巫女で、戦闘能力は、ある程度持っている。
だが――――。
目に見えない速さでソレが飛来する。両肩を強く握り、あっけなく、そのまま押し倒されてしまった。
ばちんと音を立てて背中を強打する。さらに両肩を押さえ続けるハイドはその上にかぶさった。
邪悪な魔力が、撫ぜるように彼女の身体を覆う。いとも簡単に握りつぶせる力を持っているはずなのに、ハイドはただ彼女を押さえつけたままで居た。
――――背筋に冷たい何かが走る。巫女は焦点の合わない瞳でハイドを見上げると、彼はニヤリと笑った。
ハイドの手の力が強まり、左肩に鈍い痛みが走って思わず目を閉じると、ハイドは素早く彼女の懐に手を伸ばし――――見えない力によって、身体ごと吹き飛ばされた。
彼女は何もしていない。だがハイドはそのまま受身も取れず吹き飛んで、狭い参道から短い石段へ、そうしてその下に痛ましい音を上げながら落ちて行く。
立ち上がり、痛みを癒しながら胸元、懐の中にある『護符』を取り出して見る。邪を打ち払う聖なる護符。それは見事なまでにその中心に穴を開けられ、効力を失わされていた。
この神社に伝わる邪悪なモノを退ける力を持つソレは、たとえ魔族でも警戒する代物である。それを直に喰らってしまったハイドはただではすまないだろう。
何よりも、『何かの間違い』ということであの状態になってしまったと言う線は完全に消えた。それは、明らかな魔族の力を弾いたその護符が語っていた。
「……申し訳ございません」
乱れた衣服を正し、石段の下で倒れているハイドに頭を下げる。
衝撃が直撃し、さらに石段から落ちたのに怪我ひとつ無い。さらに――――先ほどまでの熱病は、嘘のように消えていた。その代わりにハイドの肌は、先ほどよりその色を濃くしている。
恐れを抱きながらも彼女はまた、時間を掛けてハイドを本殿に戻すと、そこを中心に、大きな魔方陣を展開する。
そして更に、自身で描き、魔力を込めた護符をハイドの腹に貼り付ける。
「重圧無き空間を打ち広げよ」
静かに言葉を放つと、それに呼応する魔方陣は眩く輝き、やがてソレはハイドを中心に半球型の壁を作り出した。
「……もう少し詳しく、お話をお聞きしましょうか」
彼女はその障壁の強度を確認し終えた後、懐から、ソウジュに渡した通信用の護符を取り出した。
暗黒のみが視界を覆う。それ以外は音も衝撃も、また痛みも無い。
そこはハイドの精神下である。
何が起こったのかわからない。どれほど時間が経過したのかも分からない。ただ――――痛みや苦しみから解放されて、気分はとてもよかった。
そうして――――心持鋭く瞳を光らせて、ハイドは思考を再開する。
あの女魔族、炎という能力を持っているのか、はたまた毒なのか、それとも身体の自由を奪うモノなのか、察せ得ない。
それはドレもが魔法で実現し得る範囲の能力であるからだ。
確かにあの火力は壮絶だが、大賢者とて負けては居ない。さらに言うなれば、火炎系魔法のにみ限るならば、あのレベルに達するものは大賢者を除いてもかなりの数がいるだろう。
毒も、そして精神支配系魔法も同様。
『あら、私の事を考えてくれてるの? 嬉しいわねぇ』
思考が冴えるその中で、頭に言葉が流れてきた。特に驚きもせず、というより驚ける心理状態に無いハイドは、なれたように返す言葉を強く念じた。
『お前は幻覚か? それとも――――俺の身体を蝕む毒か』
『お察しのとおりよん』
冗談っぽく言って、クスクスと笑う声が聞こえる。そうしてハイドは舌打ちをした。
――――状況は最悪に近いかもしれない。
相手の能力は、恐らく『毒』。そして相手を殺すための毒であるが、正確には『乗っ取る』モノ。
相手を損傷無く殺して、そして毒に含めた自分の情報をこの身体に加えて書き足すのだろう。
多分――――あの女の姿は、犠牲になった誰かの身体。
元の姿を原形にするのか、それとも自分色に染める段階で自分の姿に変態させるのか。
最も現在、そこまでの予測はいらないのでハイドは思考を切って別の問題点に乗り移った。
『でもねぇ、もう2割は私が入りこんじゃったけどね。面白くていいわねぇ。新しい身体って――――』
適正が無ければ身体は彼女の情報を書き加えない内に死亡してしまう。彼女がそう言う。つまり――――すくなくとも、後8割の情報の上書きが終えるまでは生き延びるということだ。
約半日で2割ということは、あと2日残されているという計算になる。
そして――――新しい身体になるごとに、その人間の得意としていた力が魔族としての特殊能力に変わるという。
彼女の炎や精神支配はソレだと、自ら誇らしげに言った。
『なんていか、凄まじい生命力だな』
『あら、ありがと』
2割乗っ取られている――――つまり上半身が麻痺しているのはそのせいであるのだ。
もしコイツを奇跡的にも追っ払う事が出来たら、しっかりと回復するのだろうか。こればかりは彼女にも分からないらしい。
何故だか、交友的に話しかけてきてくれる魔族に、ハイドは困惑しつつも、漏れ続ける勝利の算段を立て始めた。
しかし、意識が回復しないという問題点がそれを打ち破る。
精神下には一度潜り込んだことはあるが、やはり二度目だといっても魔法が使えないのは変わらないし、身体が無いから動けない。
故に思考するしかないのだ。しかし現在は、行動を起こせない苦痛がここまでとは思わなかった、ハイドはそう嘆くしかないのだが。
『アンタを追い出しても、頭がバカになってる状態じゃあやだな』
思ったことを口にする。一体どんな返答が来るのか待っているが――――言葉が返ってこなかった。
どうしたんだろうか。身体を支配しているのは彼女だ。ってことは、『表』で何か起こっているのか?
――――仲間が戦っているのか。この俺と、魔族になりつつあるこの身体と。
俺を殺すのか? 仲間は泣いてくれるかな。
ハイドは死ぬつもりなど無い。しかし状況の打破が不可能に近い今は、自然とそういう思考になっていた。
『――――おくれて悪いわねぇ。ちょっと忙しくて』
暫くして、彼女の声が聞こえる。ハイドはすかさず質問した。
『もう少しゆっくりしていいんだが――――誰と戦ってたんだ?』
『可愛らしい女の子よ。巫女さんらしかったけど』
いくら魔族が身体を操っていて、さらに力をいつも以上に込められる事が出来るとはいえ――――その姿は未だハイドである。
体力低下中故に、たったの一撃でも倒されてしまう。彼女は強制的に意識を引き剥がされて、ここに戻ってきたのだ。
体力は先の戦闘で完全に使い果たした。その為に、巫女の為すがままである。
ハイドは仲間でない事に安心していると、彼女はそんなハイドの反応が嬉しかったのか、船からの状況を伝え始めた。
その中で――――彼女の行為が、好意であると、ハイドは気づき始めていた。




