後編
翌日はあいにくの雨だった。庭の四阿でなら、フェリクスの希望が叶えられそうだったのにと、リタは少し残念に思った。
「ねえ、リタ。結局、一晩考えてみても、フェリクスの言いたいことなんてわからないのよ」
シャルロッテは鏡の前で、何度も角度を変えながら、全身をくまなくチェックしている。空色のドレスが清楚なシャルロッテによく似合っていて愛らしい。
「もうすぐフェリクス様がいらっしゃいますので、きっとすぐにおわかりになりますよ」
「まあ、そうね」
そこへメイドがフェリクスの来訪を告げに来た。応接室で待つフェリクスの元へシャルロッテは早足で向かっていく。まるで待ちきれなかったと言わんばかりに。
「ごきけんよう、フェリクス」
わざと高飛車な態度をとるシャルロッテに、フェリクスは気づきもしない。
「やあ、ロッテ。今日のドレスは早朝の剣術トレーニングのように清々しいね」
フェリクスは褒め言葉のつもりなのだが、シャルロッテには伝わらない。和やかとはいえない空気の中、二人のお茶会は始まった。もちろん応接室のドアの前には、お目付け役のリタが立っている。
「ロッテ、これ受け取って」
フェリクスがそう言って胸元から取り出した何かを見て、シャルロッテの頬が引きつったのがリタにははっきりとわかった。
「これは何かしら、フェリクス」
声までが引きつっていて痛々しいと、リタは思う。
「何って、ロッテは見たことない?」
どうしてお嬢様の顔色をフェリクス様は読めないのかしらと、リタはドキドキしている。
「ないわ」
氷のように冷たい声がシャルロッテのかわいらしい口から出ていく。
「ロッテは案外注意力がないんだね」
「…………」
「これは今の時期なら、そこら中に咲いているイチゴの花だよ」
「……イチゴの花ですって」
「そうだよ。白くてかわいい花だろう? まるでロッテみたいじゃないか」
「…………」
「雨に濡れるとかわいそうだから、こうして胸に抱いてきたのさ」
「…………」
主人の会話に使用人が口を出すなどご法度なのだが、リタはもう黙っていられなかった。変人のフェリクスのまわりくどい願望など、素直なシャルロッテには通じるはずがないのだ。
「横から大変失礼します、フェリクス様」
「何だい、リタ? お茶のおかわりなら、まだ大丈夫だよ」
リタの介入をさして気にもしていないフェリクスはのんきにそんなことを言った。
「……いえ、そうではなく、お嬢様はまだ暗号を解読できていらっしゃらないのでございます」
それを聞いたフェリクスはシャルロッテの口元をじっと見つめて言った。
「ロッテ、暗号はどこまで解けたんだい?」
「……暗号本のメッセージは読みましたわ」
「そう」
「ええ」
「ねえ、ロッテ。本当に解けていないの? それともわからないふり?」
「…………」
シャルロッテは馬鹿にされているように感じて、素直にわからないと言うことができないでいる。
「歯磨き粉は使ってくれた?」
「ええ」
「僕も同じのを使ってるんだよ。ミントの歯磨き粉は爽やかだよね?」
「ええ」
「ロッテが今塗っているのは僕があげたレモンの香りのリップクリーム?」
「ええ、せっかくいただいたのですから、使わないと失礼でしょう」
「で、そことここに飾ってくれてるのは、僕のあげた花だよね?」
応接室のサイドボードの上にはチューリップとシンビジウムが飾られている。そしてテーブルの上には赤いリボンを足に巻いたワイングラスの中に一本のタンポポが見える。
「ええ、タンポポを飾るなんて、初めてだとメイドが言っていましたわ」
タンポポをどうやって飾るべきか腐心したのがシャルロッテ自身だと知っているリタは、主人のあまりのかわいらしさに目をそらす。うっかり目が合ってしまったら「馬鹿にしてたわね」とあとあと冤罪をかけられる恐れがあるからだ。
「あげた花を順番に言ってみて」
やっと核心に迫るようでリタはほっと息をつく。
「チューリップでしょ、シンビジウムでしょ、それからタンポポよ」
「さらにイチゴだよ」
「それがどうしたのよ?」
「ロッテ、考えることを放棄してはいけないよ」
「わからないものは、わからないのよ」
「じゃあ、もうほとんど答えになっちゃうけど、花の頭文字を順番に言ってみて」
「チ、シ、タ、イ」
「惜しい。最初はチューだよ」
シャルロッテの顔が真っ赤に染め上がって、答え合わせは終わった。
「ねえ、ロッテ、これでどう?」
「どうって何よ」
真っ赤な顔でシャルロッテがフェリクスを睨む。
「僕、合格?」
「だから、何が合格なの?」
「ロッテが言ったんじゃないか」
「私が? 何を?」
「先週、庭の四阿で、僕がロッテにキスしようとしたら、ロッテが僕をつき飛ばして、それでこんないきなりじゃなくて、もっとロマンティックな演出をしてからにしてよって」
この一週間にも及ぶ意味不明のプレゼント攻撃が、ロマンティックな演出だと本気で思っているならば、フェリクスは一生ロマンティックにはなれないと、リタはこっそり思った。
「合格よっ」
シャルロッテが叫ぶように言った。
「へっ」
フェリクスからはロマンティックの欠片も感じられない音がもれた。
「だから合格って言ったの」
そのシャルロッテの告白に弾かれるように、フェリクスは正面に座っているシャルロッテの足元に移動して跪き、その手をとって、キスを落とした。
「愛してるよ、ロッテ」
それからフェリクスはこれ以上ないくらい真っ赤にゆで上がっているシャルロッテの顎に手をかけ、ゆっくりと顔を近づけていった。シャルロッテはフェリクスの思いに応えるように目を閉じる。
シャルロッテとフェリクスのファーストキスの味がミントだったのか、レモンだったのか、それとも紅茶だったのか、リタが訊くことはなかった。
人騒がせなファーストキス事件から一か月、フェリクスとシャルロッテの仲はすこぶるいい。学園でも人目を気にせずいちゃついているので、婚約破棄の噂が流れることもなかった。
そして二人の間ではあの日以来、暗号ごっこが流行っている。
普段は庭の四阿でくり広げられている、その胸やけ必至の茶番が、今日は応接室に舞台を移しているのは、外が雨だからである。
お茶を淹れ終わって、ドアの前まで下がったリタは思う。拷問だわ、と。
「ダリア、イチゴ、スズラン、キキョウ」
フェリクスが甘やかな声で言う。
「ワスレナグサ、タンポポ、シクラメン、モモ」
シャルロッテも甘い笑みで応える。
「チューリップ、シンビジウム、ヨモギ」
フェリクスはギを言い終わらないうちに、シャルロッテの唇を掠め取る。最近の二人は最初から同じソファにくっついて座っているのだ。
「ホウレンソウ、オクラ、ニラ」
そう言ってフェリクスがさし出した頬に、シャルロッテが素早くキスする。
「クレマチス、チドリソウ、ニオイスミレ」
フェリクスの更なる要望に「もう」と一応抗議の声を上げて、シャルロッテが上目遣いで睨む。するとフェリクスは了解を得たとばかりに、シャルロッテを抱き寄せて、唇を重ねる。
初めは重なるだけだったキスが最近ではどんどん深まってきている。
「愛してるよ、ロッテ」
一度口を離してそう言ったあと、再び、シャルロッテの唇に吸いついたフェリクスは、シャルロッテの秘密を暴くように、奥へ、奥へと進んでいく。
深い、深いキスに発展した二人を横目で見ながら、リタは心の中でつぶやく。
モクレン、ウメ、カンツバキ、ベンジャミン、シオン、テッポウユリ(もう勘弁して)




