手足のない英雄
暑いですね……夏まっ盛りです。こう暑いと、格闘技やる気も失せますね。しかし、こんな時だからこそ、あえてやる気を出して欲しい! などと私は勝手に考えました。そこで、一人の英雄を紹介します。テレビなどで何度か取り上げられているので、ご存知の方も多いかもしれません。しかし、私のエッセイがきっかけになり、この英雄のことを知った方が一人でもいてくれたのなら……私にとってPVやポイント以上の喜びです。
その英雄の名は、ダスティン・カーターといいます。幼い頃、髄膜炎菌による菌血症により、両手両足を失ってしまったのです。もともとスポーツ好きで活発な少年だったダスティンは、それ以来ふさぎ込み、自宅にひきこもる日々が続いていました。
そんなダスティンに転機が訪れたのは十四歳の時です。兄が無理矢理連れ出したのは、兄がやっていたレスリングの練習場です。そして兄は、びっくり仰天な一言を――
「なあ、お前もやってみないか?」
「そんなの……無理だよ……」
まあ、無理に決まってます。健常者の私でも、レスリングは辛いです。レスリングは全身のパワー、スピード、スタミナを要求される激しい格闘技ですから……ましてや、両手両足の無い少年には、あまりにも無謀です。
しかし、兄はあきらめません。さらにこんなことを――
「そんなこと言って……お前、負けるのが怖いんだろう?」
いや、勝ち負け以前の問題だよ……もし私がその場にいたら、そう言って止めに入ったでしょう。
しかし、その場に私のような心配性の人間はいなかったようです。そしてダスティンは言いました。
「わかったよ……やればいいんだろ」
そして、レスリングを体験するのです。
生まれて初めてのレスリング。しかも両手両足のないダスティンが勝てるほど、レスリングは甘いものではありません。これは私の想像ですが……彼は攻撃も防御もできないまま、一瞬にして投げられ、倒され、押さえ込まれたことでしょう。しかも、それが何度も繰り返されたものと思います。レスリングや柔道の経験のある方ならわかるでしょうが、キツい状況ですよ……。
普通なら、この時点でレスリングなどとは縁を切るでしょう。しかし彼は、これがきっかけとなり、レスリングに本格的に打ち込むようになるのです。
その後、無償で指導をしたいと名乗り出たコーチのスコットと共に、凄まじいハードトレーニングを開始します。映像で見ると、肘くらいまでしかない腕を使い、チューブを引いたり逆立ちをしたり……激しくも工夫が感じられるトレーニングをしています。このトレーニングの映像は……もし可能ならば、一度は見ておくべきでしょうね。若い方は特に。
ハードなトレーニングに明け暮れ、五年の歳月が流れました。ダスティンは満を持して大会に出場します。二人の目標は、オハイオ州のチャンピオンになることでした。はっきり言って無謀にも程があります。アメリカのレスリングのレベルは高いですから……。
しかし驚くべきことに、ダスティンは地区予選で三位に入賞したのです。彼は本戦のオハイオ州大会に出場を果たします。
そしてダスティンは、優勝候補の強豪選手とぶつかります。当然ながら……強いですね。先にポイントを先取され、苦戦を強いられます。それでも彼は諦めません。途中、必死の猛攻で同点に追いつきました。しかし、やはり相手は強豪選手……甘くありません。最後に相手の技を防ぎきれず、判定で負けてしまいました。
ダスティンは敗れました……彼の大会は終わったのです。
しかし、敗れた直後……会場の人々はダスティンに対し、スタンディング・オベーションを贈りました。スタンディング・オベーション……アメリカにおいては、最大の賞賛の証らしいのです。本来なら、このような大会であればチャンピオンクラスの人々にのみ許されるはずのものらしいのですが……観客の人々はダスティンの試合を見て、彼をチャンピオンクラスの人と同等の存在である、と判断したのでしょうね。
それに応えるように、ダスティンは観客に向かい高らかにガッツポーズをとります。その後、彼はコーチに抱きつき、人目をはばからずに泣いたそうです。
そしてダスティンは試合後の記者会見で、こんな言葉を残したそうです。
「五年間の地獄の日々と引き換えに、栄光はたったの三日で終わった。やる価値はあったのかって? もちろんだ!」
最後に……私はこの方こそが、格闘技の持つ本当の素晴らしさを体現していると思うのです。単なる勝ち負けや強弱ではない、それよりも上の何かを手に入れられる……格闘技の素晴らしさはそこにあります。皆さん、もし興味を持っていただけたのなら、ぜひダスティン・カーターの闘う姿を映像で、そして御自身の目で見てください。私の拙い文章などよりも、ずっと多くのものを学ぶことができます。




