名もなき一市民の闘い
これは、数年前の話です。
私の通う格闘技ジムの会員に、ホクさん(仮名です)という人がいました。ホクさんは、入会時すでに五十歳になっていたと思います。あまり運動経験のない人でしたし、仕事が忙しいため週に三度も来られればいい方でした。二ヶ月や三ヶ月ぶりにジムに顔を出す、ということも珍しくなかったのです。
そんなホクさんですが、ある日アマチュアのキックボクシングの試合に出場することとなりました。とはいっても、ホクさんは五十代の上に手足が短い体つきでして、キックボクシングでは圧倒的に不利な体型です。こればかりは、生れつきの部分ですからね……厳しいところです。
しかも、ホクさんは年齢や仕事の忙しさからいってキツい減量は無理だろう……ということで、普段の体重から三キロほど下げただけの階級に出ることとなりました。ちなみに、試合は一ラウンドで終わりの初心者向けクラスです。ルールでは、顔面へのハイキックならびにバックブローや後ろ回し蹴りのような回転系の技は禁止となっていました。
当日、私も会場に行ったのですが……ホクさんの相手を見た瞬間に、思わず顔をしかめてしまいました。見た目の年齢は二十代の前半でしょうか。身長が高くすらりとした体型で、手足も長いです。しかも筋肉の付き方や落ち着いた表情を見るに、経験者ではないか……という気がしたのです。
すぐさまジムのトレーナーのところに行き、小声で「ホクさんの相手、経験者じゃないですか?」と聞いたら「あれは経験者だね」と、こちらも顔をしかめて答えます。ホクさんにそのことは告げませんでしたが、何となく察していたような感じでしたね。
ちなみに、アマチュアの試合では年齢や経験などを考慮し、出来るだけ実力差の少ないカードを組むようになっております。しかしホクさんの場合、キャリアだけは五年近くになっていたんですよね。もっとも、その内容は先ほども書いた通り二ヶ月や三ヶ月空くことも珍しくなかったのですが……年数だけを見られてしまったのかもしれません。
さらに、アマチュアだと経歴をごまかすケースもあるんですよね。他のジムに通っていた期間を伏せて、今のジムに通い出したキャリアのみを申告する人もいるんですよ。そのため、五十代のおじさんと二十代しかも経験者という試合が組まれてしまったのです。
私の不安をよそに、試合が始まりました。すると、全く予想通りの展開になってしまったのです。対戦相手の若者は、長いリーチを活かし速いジャブと前蹴りで冷静に攻めていきます。それに対し、ホクさんは初めての試合でガチガチに硬くなっており、ほとんど何も出来ないままじりじりと下がっていきます。
若者は、そんなホクさんに容赦ない攻撃を仕掛けていきました。パンチからのローキックなどのコンビネーションで、徐々に追い詰めていきます。このままだと、スタンディングダウン(立った状態でのダウン)を取られる、と思った時でした。
ホクさんは突然、オーバーハンドのパンチをブンと振ったのです。完全に戦意喪失かと思われましたが、前進し大振りのパンチを放ちました。
相手の若者は、その攻撃を全く予想していなかったようでした。ホクさんのパンチは、顔面にヒットしたのです。相手はよろめき、後ろに下がりました。
そこから、ホクさんの反撃が始まったのです。左右のフックをブンブン振るい前進していきました。若者は、完全にたじたじです。
ここでホクさんの追撃が顔面を捉え、逆転のKO勝ち……となれば話としては理想的なのですが、そうはなりませんでした。若者は、すぐさま体勢を立て直し反撃してきたのです。こうなると、やはり経験の差が出ました。ホクさんも、顔面に何発かいいのをもらいました。しかし、怯まず打ち返していきます……と、そこで終了のゴングが鳴りました。
結果は、ホクさんの判定負けでした。しかし、私は本当に凄いと思いましたね。五十過ぎたオッサンが、二十代の経験者の若者を相手に真っ向から殴り合う……反撃のオーバーハンドも、もし顎にヒットしていたら勝っていたかもしれません。何より、一方的に追い詰められ、力の差を完全に見せつけられていたにもかかわらず、それでも戦う意思を捨てなかった……その姿は、本当に立派でした。
そして試合が終わった後、対戦相手の若者がこちらに来て「どうもありがとうございました!」といって握手を求めてきたのです。ホクさんは、晴れやかな表情でそれに応じていました。しかし、私は少し納得いっていなかったので「あなた経験者でしょ? 試合初めてじゃないでしょ?」と横から言ったら、申し訳なさそうに頷いていました。
それから月日が経ち、先日久しぶりにホクさんと会いました。実のところ、コロナのため奥さんからトレーニング禁止令を出されていたそうです。また試合に出ますか? と聞いたところ「もうやめとく。あとは、赤井さんに任せるから」と言われました。
こうして、ホクさんの最初で最後の試合は終わりました。名もなきひとりのおじさんの闘い……でしたが、私は今も強烈に覚えています。この試合を忘れることはないでしょう。
最後になりますが、今の私の目標は、ホクさんの最後の試合の時と同じ年齢になるまで試合に出続けることです。




