達人の無敗伝説
昔の武術の達人は、とんでもない逸話の持ち主だったりします。中には、この逸話を盲目的に信じ「だから、筋肉に頼るような今の科学的トレーニングは駄目なんだ」などと言い出す人が出てきたりします。
こういう人を見ていると、私は首を傾げてしまうんですよね。理論的に考えることが出来ないのだろうか、と。
そもそも、この達人たちの武勇伝は、映像に残っていないものがほとんどなんですよ。特に江戸時代や明治時代の逸話などは、本人や周りの弟子たちが語っているものがほとんどです。証拠もなく、検証も出来ないものばかりなんですよ。
しかも語られている逸話の中には「おいおい」と笑いながらツッコミたくなるものも少なくありません。
「暴漢に襲われたため、咄嗟に突いたら全身から血を吹き出して死んだ」
「垂直の十メートル以上ある城壁を、道具を使わず足だけで駆け登った」
「土砂崩れが起きた時、流れてくる土砂の上をサーフィンでもするかのように乗っていた」
いや、それ証明できんの? とツッコミたくなります。全くの嘘ではないかもしれませんが、伝言ゲームの要領で大袈裟に伝わっている部分はあるでしょうね。「山で天狗を見た」「雪山にイエティを見た」という目撃談と同レベルではないかと思うのですよ。昭和の時代ですら「口裂け女」なる妖怪の伝説が子供たちの間でまことしやかに伝えられていたことを考えると、達人の逸話はどのくらい大きくなっているか……想像するのは簡単でしょう。しかも、そこには流派の利権なども絡んでくるでしょうしね。
そういえば、宮本武蔵も飛騨で巨大な猿を斬り殺したという伝説があるとか。もし骨が残っているなら、是非とも見てみたいものです。
さて、そうした達人たちの逸話のひとつに、無敗伝説というものがあります。「生涯無敗だった」「高齢でありながら、若い武芸者を倒した」という類いの話ですね。
これに関しては、梶原一騎先生が面白い意見を述べています。
「剣の達人て、晩年は山にこもるケースが多いんだよ。あれは結局、挑戦者を避けるのが主な理由なんだよな。若い武芸者の中には、有名な剣豪を倒して名を上げようって輩も少なくない。年とってから、そんな連中をいちいち相手にしたくないよな。だから山にこもって、戦いを避けていたんだ」
一理ある意見ですよね。もう数十年前の言葉ですが、説得力があります。
そうなると、達人の無敗伝説も疑わしいものになりますね。戦わない、だから負けないのだ……などと書いてしまうと身も蓋もないですが、それが真実なのかも知れません。
と、ここで終わってはあんまりなので、私の妄想を書き連ねていこうと思います。
ある若き武芸者が、達人を倒して名を上げようと考えました。武芸者は険しい山を登り、達人宅へと向かいます。
この時点で、武芸者は圧倒的に不利なのはわかるでしょう。今のようにスマホで簡単に地図が見られる時代ではありません。また、車もありません。となると、道中は想像もつかないくらい険しいものだったでしょうね。当然、肉体的にも精神的にも削られていきます。
険しい山道を登り、武芸者はようやく達人の家に着きました。ところが、達人はニコニコしながら武芸者を出迎えます。
「よく来てくれました。まずは、茶でも」
言いながら、達人はお茶を出して来ます。根が素直な武芸者は、言われるがまま茶を飲みました。ところが、茶には毒が入っています。哀れ、武芸者は戦う前に死亡……。
そこを上手くくぐり抜けたとしても、まだ次があります。「立ち合いたいなら、ついて来なさい」などと達人が言い、武芸者は後を追います。
やがて、達人は洞窟に入って行きました。武芸者も、慌てて洞窟へと入ります。ところが、中は暗くてほとんど見ることが出来ません。戸惑っているうちに闇からの不意打ちをくらい、武芸者は死亡します。
あるいは、達人は開けた野原へと武芸者を誘いこみます。そこには、落とし穴が掘られていました。武芸者は落とし穴に落ち、戦う前に死亡します。
仮に、まともな戦いが始まったとして……達人の方が圧倒的に有利なのは変わりありません。山の細かい地形を知り尽くしており、達人にとって庭のようなものです。一方、山を登って来たことにより、肉体的にも精神的にも疲れ果てている武芸者。ホームとアウェー以上の差があるんですよ。これは、勝負の世界では非常に大きいですね。
さらに、そうした困難を乗り越え、首尾よく達人を討ち果たしたとして……その後はどうなるでしょう。傷つきボロボロの状態で、山を下りなくてはなりません。しかも、武芸者はこの山の地形には詳しくありません。途中で力尽き、息絶える可能性が高いのではないかと思います。この場合、達人も武芸者も野生動物のディナーとなり、どちらが勝ったか伝える者はいません。結果、無敗伝説は永遠のものとなるでしょう。
達人の無敗伝説の裏には、こうした緻密な状況設定があると思われます。特に高齢の達人の場合、技や体力ではなく、確実に勝てる状況を作り出した上で勝っている可能性が高いのですよ。つまり、悪知恵の働く方が勝つということです。もちろん、全てがそうとは言いませんが……その可能性がある、ということは知っていただきたいですね。
仮に、そんな手段で勝ってきた達人の鍛練方法を忠実に守り「今のトレーニングは間違っている」などと主張する人の道場に入門したなら……まあ、大いなる時間の無駄遣いをすることになるでしょうね。




