判定について
格闘技の試合を見ていてつくづく思うのは……判定の難しさですね。
ゲッツ板谷さんの著書『タイ怪人紀行』にて、フリージャーナリストの故・鴨志田穣さんと一緒にムエタイを観戦したところ、鴨志田さんが各試合の勝敗の予測をことごとく外しまくったエピソードが載っていました。これは笑い話として載っていたのですが、実際に判定となると、かなり割れるケースはありますね。正直、接戦となると……どちらかに白黒はっきり付けるのは難しいです。
私もつい最近、格闘技の試合を観ていて、二度続けて予測を外しました。二試合とも、激闘の末に判定となったのですが……私が勝つだろうと確信していた選手が負けと判定されていたのです。これには正直、驚きましたが……格闘技における勝負の判定とは本当に難しいな、と再認識させられましたね。
ちなみに二試合とも、負けた方の選手は本当に不満そうな表情をしていましたね……判定に対する納得いかない思いを、悔しそうな様子で口にしていた姿は、今も強く記憶に残っています。闘っている当人としては、負けたという思いは全くなかったようですね。観戦している私にも、延長して続けさせるべきだったのでは……との印象が強く残った試合でした。
しかし実際の話、格闘技における判定というものは本当に難しいと思います。手数を多く出していたり、前へ前へと進む積極性を高く評価する審判もいるかもしれません。逆に、相手の攻撃を見事に受けたり捌ききったりし、要所要所でカウンターを決めていく「受け」の上手さを評価する人もいるかもしれません。十発叩いても、全然効いていないケースもありますし、たった一発で隠しようのないダメージを与えるケースもあります。最終的には……審判の好き嫌いに委ねられる部分も少なからずありますね。
これが総合格闘技になると、さらに厄介なことになります。
総合格闘技にはパンチやキックなどの打撃技だけでなく、絞めや関節技などといった寝技の攻防もあります。打撃の攻防ではA選手が圧倒的に優勢だったが、寝技の攻防ではB選手が圧倒的に優勢だった……このような場合、どちらを勝ちと判断するかは非常に難しいですね。
そうなると、最終的には審判の主観(格闘技論のようなもの)が大きく影響してくると思います。結果として、観客と審判との間にズレが生じる試合も出てくるわけですね。
ただ、明らかにおかしな判定があるのも確かなんですよね……例えば十年ほど前に開催された某格闘技イベントの決勝戦ですが、これは観ていて本当に唖然となりましたね。詳しい内容についてはあえて語りませんが……。
また最近でも、ボクシングのタイトルマッチなどで「えー……」と思うような試合もありました。これは格闘技の判定における宿命なのかもしれませんね。それが何なのかは……ご想像にお任せします。私のような者が軽々しく語れるようなものでもないですし。
とにかく、格闘技における判定は本当に難しいものなのです。しかも闘っている側の人間にとっては、自らの今後を左右するだけに……審判の責任は重大ですね。誰が観てもわかるような、簡単な試合展開ならばいいのですが……微妙な試合展開の場合、審判の見る目に委ねられます。
そうなると、審判ウケするような試合が出来る能力というものも必要ですね。攻撃をもらっても「痛くないぜ」というアピールをしたり、ラスト一分で猛ラッシュをかけたり、試合後も「全く疲れてないぜ」という表情をしていたり……そのあたりの練習もまた、試合に臨む上では欠かせませんね。
まあ、格闘技本来の姿としては……どちらかがギブアップするか、もしくは明らかに戦闘不能な状態になるまで闘わせるのが理想的な決着の付け方、なのかもしれませんが、今の時代ではさすがにそんなことは出来ませんしね。時間もかかりますし、危険でもあります。納得いかない判定が降ることもある……そのことを承知した上で、試合に臨むしかありません。
さて、ここからは話が変わりますが……人生において、納得いかない判定が降ることもあります。神様という存在は、本当に我々人間には想像もつかないような理不尽とも思える判定を降すことがありますが……嘆いてみたところで仕方ありません。
格闘家のほとんどが、一度や二度は審判全員を殴り倒したいくらい納得いかない判定負けを経験したことがあります。そこで嫌になり、やめてしまった人もいるそうです。しかし、そこでやめてしまっては……終わりなのです。
特に作家を目指している人たちには、少々の納得いかない判定ごときで諦めて欲しくはないですね。新人賞などに応募し落とされたとしても……諦めてはいけません。審査する人にも好みがあります。その人なりの小説論みたいなものもあるかもしれません。審査する人と合わなかったからといって、挫けないでください……などと無責任に煽りつつ、今回は終わります。




