美味しい話
レインが住まうアルフォード公爵家に滞在するようになってしばらく経ち、彼と過ごすことはアイナが思っていた以上に平和で穏やかな時間となっていた。
朝夕ともに決まった時間に食事が運ばれてくるためそれをレインと二人で食す。
学園から帰宅した後の空き時間でアイナは勉強と魔法の特訓を、レインは書類仕事を行うことが常であり、同じ空間にいながらも互いに自立した時間を過ごすことが殆どである。
そして夜になると、いつまでも読書をやめないアイナにため息を吐いたレインが彼女の手を引いて無理やり寝室に連れて行くというのが日課になっていた。
「んーっ美味しいっ!!」
今日も朝から歓喜の声を上げるアイナ。
彼女の目の前には、チキンのトマト煮込みにバターたっぷりのデニッシュ、白キノコのスープ、新鮮なサラダ、カットフルーツ、そして搾りたてのフレッシュジュースがずらりと並ぶ。
自生野菜と鶏の卵で生き延びるトルシュテ家では夕飯の席でも見たことのない豪勢な食事だ。
「お前は、よく飽きずに毎度同じことを言えるな。」
一口ずつ目を細めて頬に手を当てるアイナとは対照的に、レインは手元の書類に目を向けたまま作業のように淡々と口に運ぶ。
そして数度咀嚼すると味合うことなくすぐに飲み込んでしまう。
「レインは毎日こんなに良いものを食べているの?」
「…いや、普段はサンドイッチとコーヒーだけだ。」
「え…」
公爵家って思った以上にお金がないの?それとも、こんなところに押し込められて親から意地悪されているとか…?かわいそうに…でもそれを私に言えなくて見栄を張ってこんなに…
「お前、今失礼なことを考えてただろ。」
二人しかいない部屋の中、レインは行儀悪くアイナにフォークを向けてくる。
「いや、レインも苦労してるんだなって思っただけだよ。明日からは無理しなくて良いからね。」
「そんなわけあるか、馬鹿。」
「でもそれじゃあどうして」
「お前が馬鹿みたいに嬉しそうに食べるから、用意しないわけにはいかないだろ。俺は腹に入れば何でも構わないが。」
「馬鹿みたいにって…美味しいものを美味しくいただくことは大事なのに…いいよ、私がレインの分まで味わって食べる。そしていつかレインにも美味しいって言わせてやるんだから。」
今度はアイナがスプーンでレインのことを指した。
直前までスープを飲むために使っていたそれからポタポタを汁が落ちてテーブルクロスを汚す。
「まったく、お前は馬鹿みたいに恥ずかしいことを言うな。」
レインはアイナが気づく前に、汚れたテーブルクロスを魔法を使って綺麗にした。
「だって本当のこと…」
「もう行くぞ。遅刻する。」
優雅な朝食のひと時は暴君レインにより強制終了されてしまった。
問答無用で外に出る準備をするレインに、アイナも慌てて口の中の物を飲み込みコートを手に取る。
「…ありがとな。」
レインの小さ過ぎる声は、忙しく動くアイナに届くことはなかった。
***
模擬演習の日が近づいたある日の放課後、一人の女子生徒が停車場に向かって歩いている。
いつもの通り、一人で帰路に着く彼女に建物の影から現れた男が声を掛けてきた。
「サンクシード子爵家の御息女ですね?」
この学園で見たことのない男に家名を言われた女子生徒は身構え、素早く周囲に目をやる。声の届く範囲に人がいないことを認識した彼女は、男に向かって手を翳した。
この国で一定の魔力量を持つ貴族子女は市場価値が極めて高く、常に連れ去りの危険性がある。そのため、学園に入る頃にはある程度の防御魔法を心得ていることも珍しくない。
そして、それはこの場にいる女子生徒も例外ではなかった。
たが、男が発した言葉により冷静さを失うこととなる。
「シエン・ロックハート殿との婚約解消はさぞ無念だったことでしょう。」
「貴女が何故それをっ…」
「そんなことより、彼との婚約解消を無かったことにしたくはありませんか?」
男の声はひどく穏やかであるにも関わらず、彼女の心に深く突き刺さり嫌な音を立てながら食い込んでくる。
シエンとの婚姻で得られるはずだった伯爵家としての地位と安泰した生活、そのために必死に彼に縋って言いなりになってこじつけた婚約だったというのに、それをロックハート伯爵家から一方的に解消されてしまった。
その真意を問いたくとも、そもそもロックハート家の勝手な都合で内密に結ばれていた今回の婚約。
両家の間で婚約していたという物理的な証拠がないため、サンクシード家は一方的に婚約解消されたという事実さえ世間に周知させることが叶わず、それが彼女にとって何よりの屈辱であった。
だが、彼女の未来を奪った張本人はその家族も含めて未だ連絡を取ることが出来ない。雲隠れされてしまい、彼女は膨れ上がる負の感情を持て余していた。
「…そのためには、何をすれば良いでしょうか。」
「話が早くて大変助かります。貴女は聡明なお方だ。」
にっこりと人の良い笑顔を作る悪魔の言葉に女子生徒は耳を貸してしまった。
「貴女の婚約解消の原因となった女にほんの少し傷を付けて頂きたいのです。これは貴女が与えるべき罰であり、正当なことです。貴女だけに許されていることを成すだけで、貴女の努力は身を結び、望んだ未来を手に入れられることでしょう。」
「婚約解消の原因になった女…」
女子生徒の瞳に仄暗い光が宿る。
どこに向けて良いか分からなかった憎悪の向き先が漸く定まった気がした。
自分の感情をぶつける対象を悪魔から与えられた彼女は微笑み、目の前の名も知らぬ男の口から紡がれる魅惑的な話にすっかり聞き入っていたのだった。




