夕飯抜きなんて聞いてません!
完全に日が沈み、闇夜の中を馬車が走る。喧騒のある日中とは違い、車内には街道を走る車輪の音がやけに響く。とても静かな夜であった。
普段なら外に出ない時間帯のため、アイナは理由もなく気持ちが高揚していた。
少なからずレインとのことも影響していたが、何より、夜に抜け出して街に繰り出しているみたいな気分で、こんな時に不謹慎ながらも楽しいと感じてしまったのだ。
窓の外を見つめて、どことなく楽しそうな横顔を見せているアイナに、レインはふと思い出したように告げた。
「お前の家には、俺が晩餐に誘ったから帰りは遅くなると伝えてある。」
「あ…そこまで考えていなかった。気を回してくれてありがとう。もうこんな時間だもんね。」
相変わらず気が利くなと思いながらにこにことしていたアイナだったが、ひとつの仮説に辿り着き、一瞬にして顔色を悪くする。
「ねぇそれってもしかして………私は夕飯食べたことになってるってこと…??」
「ああ、そうだな。」
「なっ!!!!あんな場所に置き去りにされて寒くてお腹ぺこぺこなんですけどっ!!!」
「俺の警告を無視して他の男と逢い引きしていた馬鹿は誰だ?」
「…………大変申し訳ございません。」
自分にも非があると思ったアイナは、素直に謝罪した。
馬鹿みたいに人を信じて二人きりで会って騙されて、その窮地を助けてもらった恩人にこれ以上言い返すことなど出来ない。
レインは身を乗り出し、目の前であからさまにしょんぼりとするアイナの頭をわしゃわしゃと片手でなでつけた。
「今日はもう遅い。これからのことはまた明日話す。」
「・・・」
だが、アイナからの反応はなかった。よく見ると、背もたれに頭を預け、口を半開きにしたまま寝息を立てて寝ている。
相当心的疲労が溜まっていたのか、この一瞬で眠りに落ちてしまっていたのだ。
「チッ」
アイナの無防備な姿に舌打ちをすると、レインは音を立てないよう静かに彼女の隣に席を移動した。
そして、背もたれに預けていた彼女の頭を自分の肩に乗せる。
「気を抜きすぎなんだよ、馬鹿。」
一人悪態をつくと、レインは自分の着ていたコートを脱いでアイナに掛けてあげた。
馬車の揺れで身体が辛くならないよう、腰に腕を回してそっと支える。
アイナの邸に着くまでの間、レインは安心した顔で眠る彼女の寝顔を眺め続けていた。
「着いたぞ。」
「…ふぇ?」
「重いから早く退け。」
「へ……??」
レインの声で起きたアイナが目を開けると、視界いっぱいに美しい彼の顔があった。
徐々にはっきりとする感覚、上から良い香りと温かさに包まれ、頭の後ろには枕のような適度な硬さの支えがある。
現状を思い出したアイナは、自分がレインの太腿を枕にして横になっていることに気付いた。
「うっわ!!!………いった!」
勢いよく上体を起こしてレインの顔とぶつかりそうになったアイナのおでこを、レインがぺちっと叩いて停止させた。
「この狭い中で暴れるな。馬車が破壊される。」
レインはアイナの背中に腕を回すと、優しく抱え起こしてくれた。
彼の隣に寄り添うように座らされたアイナ。恥ずかしさで赤くなった顔を逸らす。
「…ありがとう。」
「あまり遅くなると家族に怪しまれる。」
「そ、そうだね。」
レインから言外にさっさと馬車から降りろと言われた気がしたアイナは、慌てて立ち上がり乱れた髪を直すと馬車の内ドアに手をかけた。
そのままドアを開けて外に出るつもりが、なぜかレインに腕を掴まれ引き留められてしまった。
彼の方を振り返って、なに?と尋ねようとした瞬間、レインに唇を奪われた。
「ん」
腕を引かれて振り向きざまに重ねられた唇。驚きのあまり目を見開くが、眼前に迫る美し過ぎるレインの顔に堪らず目を閉じた。
しかし、視界を遮断したせいで余計に唇の感触と熱が際立ち、アイナは脳震とうを起こしそうなほどの衝撃を受ける。
温かくて優しくて愛おしくて、何もかもを手放してここに居続けたくなる底なし沼のような心地よさ。
アイナは、されるがままレインからの至福を享受し続けた。
時間にして僅か数秒、体感にして永遠とも思われる時間触れ合っていた唇が離れていった。
「もう二度と俺の気持ちを疑うなよ。」
「…はい。」
甘美な口付けのせいで頭がほわほわしていたアイナは言われたまま頷くことしかできなかった。
若干ふらつく足取りで馬車を降りる直前、何かを手に持たせられた。
だが、正常な判断など出来なくなっていたアイナは気にすることなくそのまま邸へと帰って行った。
「おかえりなさませ、お嬢様。」
「た、ただいま………」
ひどく疲れている様子のアイナに、リリアはまあまあ随分と楽しまれたのですねと嬉しそうに微笑んでいる。
アイナの自室でコートを受け取ろうとしたリリアが、彼女が手にしている紙袋の存在に気付いた。
「何か頂いたのですか?」
「え、何これ??」
ここでようやく、去り際レインに何か持たせられたことに気付いたアイナ。その存在を認識した瞬間、手にしていた物の重量感が増した。
リリアに見守られながら恐る恐る袋の中を覗くと、そこにはサンドイッチにローストビーフ、カットフルーツ、焼き菓子などアイナの好物がぎっしりと詰まっていた。
アイナが夕飯を食べられないことを見越したレインが、従者に伝えて用意させておいたのだ。
「うわ……ちょっと幸せ過ぎてこわい…泣きそう…」
「こんな時間から召し上がったら健康に悪いですよ。」
「これはいいの!レインがくれたものなんだから。」
「はいはい。では、今お茶を淹れますね。」
レインからもらったものを幸せそうに抱きしめるアイナのことを、リリアは心底嬉しそうな顔で見ていた。
なんだかんだ言いながらも、着実に愛を育んでいる主人の姿に、紅茶の用意をしながら思わず涙ぐみ、視界がぼやける。
そんなリリアは、絶賛空腹中の彼女が目の前の好物に歓喜していただけとは知る由も無かった。




