もうどうしたらいいの…
「えっと、今なんて…」
「何?お前がアルフォードのお気に入りだったから少し遊んでやろうと思っていただけなのに、まさか本気で俺に口説かれているとでも思った?」
ひどく歪んだ顔で笑うシエン。
楽しいからではなく、アイナのことを滑稽だと蔑んで笑うその姿は常軌を逸しており、狂気じみていた。
目の前で悦に入って話すこの青年は、アイナの記憶にあるシエンと何一つ重ならない。
同じ顔で同じ声のはずなのに、アイナに向ける目も声音も先ほどまでとは何かもが違う。あんなにも親しげで好意的に話してくれていたというのに、今は自分に対する激しい憎悪しか感じない。
「…っ」
アイナは悔しさと己の不甲斐なさに、唇をキツく噛み締めた。自ら傷付けた唇から、口の中に鉄の味が広がる。
何も言い返せず、精一杯の矜持で溢れ落ちそうになる涙を必死に抑え込んだ。
何でこんなことを私に…?
最初からそのつもりで近づいたの?仲良くなりたいって嘘だったの…?だからあの時レインは私に警告したの?嘘をついていたのは、シエンの方だった…?
それなのに私は…
「お前のことをアルフォードから掠め取って、アイツのスカした顔を崩してやろうと思ってたのに、お前が本気にしてくるから興醒めした。もういらないわ。アイツももうお前に興味待って無さそうだし。」
興味を失くしたシエンは、呆然と立ちすくむアイナに向かって鬱陶しそうに手で払う仕草をした。
「お前の足なら、日付が変わる頃までには家に帰れるんじゃね?毎日徒歩で通学してんだろ。良かったな、慣れていて。」
「え、ちょっと…!!」
シエンは意地悪くアイナに言うと、一人だけ馬車に向かって歩いて行ってしまった。
彼女の方を振り返ることなく馬車に乗り込むと、一切の躊躇なくそのまま発車してしまった。
こんな仕打ちをしてきた彼のことを追いかける気にもなれず、アイナは自分が置いていかれる様をただただ眺めていた。
もうすぐ日が暮れるこの時間帯、馬車で連れられてきた初めての場所のためここがどこか全く分からない。
街まで戻れば何とかなるが、そこまで戻るにしても徒歩では恐らく2時間以上掛かってしまう。その頃にはもう乗合馬車は走っていない。
街から屋敷までは夜通し歩くしか方法がなくなってしまう。だが、そもそもここから街までの道のりが分からず、辺りに人の気配もない。
アイナにはなす術がなかった。
「こんなところに一人残されてどうしろって言うのっ………」
秋の日暮れは早く、途方に暮れたアイナが座り込んでいる内にあっという間に日が沈んでしまった。
私、そんなに悪いことした…?
彼に恨みを持たれる理由なんてどこにあった?ただただ、友達が欲しくてみんなに囲まれたくて充実した学園生活を送りたくて奔走していただけなのに…こんなの、普通のことじゃん…たった一度しかない学生生活、楽しい日々を過ごしたいなんて、誰だって願うことでしょう?
「なのに、どうしてこんな目に…」
膝を抱えて座るアイナの瞳からポロポロと涙が零れ落ちた。もう何に対する涙かも分からないくらい、とめどなく溢れ出てくる。
自身の置かれているどうしようもない現状とこっぴどく裏切られた精神的ショックと追い討ちをかけるように冷えてきた外気に、アイナの心はもう限界だった。
「俺がいないところで泣くな、馬鹿。」
耳元でひどく聞き慣れた、泣きたくなるほどの優しい声がした瞬間、ふわりと全身が人の温かさに包まれた。
その温かさの正体は、包み込むように抱きしめてくるレインだった。
「れ、レイン…!?なんでここに…」
「遅くなって悪かった。」
ぎゅっと、アイナのことを抱きしめる腕の力が一層強くなった。
「アイツのことを締め上げてたら、こっちに来るのが遅くなった。寒い思いをさせたな。」
「え…それってもしかして、シエ…んっ」
自分のせいでレインに殺人の罪を犯させてしまったかもしれないと焦ったアイナが聞き返そうとしたが、彼の名を口にしようとした瞬間、レインの親指で唇を塞がれてしまった。
「唇、切れてる。」
レインは、彼女の切れた唇を翳した指で治癒魔法を施した。
「あ、ありがとう…」
抱きしめられたまま至近距離で唇に指を当てられ、アイナの脈拍は速くなった。
これは治療のためであり、他意はないと分かっているのに、速くなる鼓動を抑えることが出来ない。
彼の魔法のおかげで痛みも赤みも引いたはずなのに、触れられた部分には熱さが残り、余計に熱を持ったような気さえした。
「二度とアイツの名を口にするな。次言いかけたら、今度は唇で塞ぐぞ。」
「ひっ……はいっ」
いつかも言われたことのある台詞だったが、今回のそれは前回と比にならないほどの迫力があった。
有無を言わせぬ、冷え切ったダイヤモンドの瞳で見つめてくる。
唇と言いつつ、彼なら噛み切る勢いで来るんじゃないかとアイナは身体を震わせた。
ひどく機嫌の悪そうなレインに、怯えながらも頷いて返した。
「それと、お前俺に言った言葉覚えているか?俺は一言一句覚えているが。」
「いつの」とは具体的に言われなかったのに、レインの冷淡な声音で、アイナは自分が最後に彼に発した言葉だと確信した。
『私のことなんて、好きじゃないくせにっ!』
あの時の自分の言葉が頭の中に響いた。
「えっと、なんのことだか……」
明後日の方向を見て目を泳がせる。
レインの視線と圧に耐えきれなくなったアイナは覚えていないフリをした。それに、あまり向き合いたくない話題でもあった。
「チッ」
舌打ちを返したレインは、座り込むアイナの身体に腕を回したまま、さっきまで唇に当てていた指先を彼女の顎へと移動させる。
そして、レインの瞳から顔を晒そうとするアイナのことを、無理やり自分の方に向けさせた。
「俺が思い出させてやるよ。」
鼻先がくっつきそうなほど顔を近付けると、ダイヤモンドの美しい瞳を真っ直ぐに向けて低い声で囁いてくる。
アイナに拒否権は無かった。




