転
幸せな時間は、砂時計の砂のように音もなく、けれど確実に尽きようとしていた。
変化は、微細な違和感から始まった。マフラーを通じて共有される思考のノイズが、日を追うごとに大きく、鋭くなっていったのだ。最初は心地よかった互いの感情の奔流が、次第に濁流となり、僕たちの自我の境界線を浸食し始めていた。授業中、ふと黒板の文字が読めなくなる瞬間がある。それが自分の近視のせいなのか、離れた席にいる玲奈のコンタクトレンズが乾いたせいなのか、判別がつかない。夜、自室のベッドで眠ろうとしても、彼女の不安や焦燥が電波ジャックのように割り込み、僕の脳を苛んだ。
『湊くん、私のこと好き?』
(好きだよ、玲奈)
『嘘。さっき一瞬、私のこと「重い」って思ったでしょ』
(思ってないよ。ただ、少し疲れてるだけだ)
『それが「重い」ってことじゃん。私、湊くんにとって負担なの?』
思考は嘘をつけない。検閲の入らない生の感情は、時にナイフよりも鋭く相手を傷つける。言葉というクッションを持たない僕たちのコミュニケーションは、愛しさを通り越して、互いの精神を削り合うヤスリのようになりつつあった。それでも、僕たちはマフラーを外せなかった。一度知ってしまった「全一」の安らぎを手放すことが、死ぬことよりも恐ろしかったからだ。
破綻は、最も残酷な形で訪れた。
二月の半ば。冷たい雨が降る放課後だった。進路指導室に呼び出された玲奈を待つため、僕はいつもの階段の踊り場で本を開いていた。だが、文字は頭に入ってこない。マフラーはまだ巻いていないのに、遠くから彼女の悲鳴のような思念が断続的に届いていたからだ。『やめて』『見ないで』『私は人形じゃない』彼女の心が悲鳴を上げている。僕は居ても立っても居られなくなり、本を閉じて立ち上がった。その時、階段の下から硬質なヒールの音が響いてきた。
「……ここね」
氷のような声だった。現れたのは、玲奈によく似た面差しを持つ、しかし決定的に冷徹な瞳をした女性。玲奈の母親だった。その後ろから、青ざめた顔の玲奈と、気まずそうな担任教師が続いてくる。
「あ……」
僕が声を漏らすより早く、母親の鋭い視線が僕を、そして僕の手元にある赤いマフラーを射抜いた。
「あなたが、瀬名くん?」
値踏みするような視線。品定めをする以前の、路傍の石を見るような目つき。
「娘の成績が急落した原因が、こんな陰気な場所にあったなんてね」
「お母さん、やめて!彼は関係ない!」
玲奈が叫んだ。だが、母親は娘の方を見向きもしなかった。
「関係ない?あなたの模試の偏差値が10も下がったのよ。医学部判定はE。理由はこの『お遊び』以外に何があるの」
母親は僕に歩み寄ると、僕の手から乱暴にマフラーをひったくった。
「返し……!」
「汚らわしい」
彼女はマフラーをゴミのように床に投げ捨て、ヒールで踏みつけた。不揃いな編み目が、泥と雨の滴で黒く汚れていく。それは僕たちの心臓が踏みにじられる音に聞こえた。
「玲奈、行きなさい。これ以上、この学校のレベルに合わせて自分を落とす必要はないわ。転校の手続きは進めているから」
「え……転校?待って、聞いてない!」
「聞く必要なんてない。あなたは黙って私の言う通りの道を歩けばいいの。失敗作になりたくないならね」
玲奈が僕を見た。その瞳から涙が溢れ出している。
『助けて、湊くん!』
彼女の声が、マフラーがないのに直接脳内に響いた気がした。幻聴か、それとも僕たちの魂が癒着してしまったせいか。僕は手を伸ばそうとした。けれど、足が動かなかった。
背景である僕が、物語の絶対的な支配者である母親に逆らうことなど、想像すらできなかったのだ。圧倒的な格の差。僕はただ震えることしかできず、視線を床に落とした。
『……あ』
玲奈の絶望が伝わってきた。彼女は悟ったのだ。僕が、彼女を救う王子様なんかじゃなく、ただの臆病な図書委員に過ぎないということを。
「さようなら」
母親に腕を掴まれ、引きずられるように階段を降りていく玲奈。彼女は一度だけ振り返った。その目は、助けを求める目ではなく、深い諦念と、僕への失望に塗りつぶされていた。
踊り場に、静寂が戻った。残されたのは、泥にまみれた赤いマフラーと、空っぽの僕だけ。雨の音が、世界を嘲笑うように激しくなっていった。僕は床に膝をつき、汚れたマフラーを拾い上げた。冷たい。あれほど温かかった羊毛の束が、今は死んだ小動物のように冷たくて重い。
僕はそれを首に巻いてみた。けれど、聞こえるのは雨音だけ。『玲奈……?』心の中で呼びかけても、返ってくるのは虚無的な静寂だけだった。回路は断たれた。世界は再び、分厚い壁に隔てられた孤独な個室に戻ってしまったのだ。
翌日から、玲奈の姿は教室から消えた。彼女の机は綺麗に片付けられ、まるで最初から「如月玲奈」という生徒など存在しなかったかのように、日常は何事もなく流れていった。クラスメイトたちが交わす
「転校したらしいよ」
「親が厳しいらしいしね」
という無責任な噂話だけが、彼女がいた痕跡だった。
僕は図書室に戻った。定位置のカウンター席。読みかけの文庫本。けれど、活字は記号の羅列にしか見えない。静かだ。あまりにも静かすぎる。かつて愛した静寂は、今や僕を押しつぶす重圧となっていた。耳の奥で、幻のノイズが鳴り響く。彼女の笑い声、愚痴、泣き声、愛の言葉。それらが欠落した世界は、色彩を失ったモノクロームの牢獄だった。
僕は知ってしまったのだ。誰かと深く繋がり、魂の形を確かめ合う喜びを。そして、それを失うことが、肉体を裂かれるよりも痛いということを。
マフラーは、僕の鞄の底で眠っていた。洗って泥は落としたが、あの鮮やかなボルドー色はどこか褪せ、毛糸は硬く縮こまってしまっていた。それはもう、魔法のアイテムではなく、ただの古びた防寒具に過ぎなかった。魔法は解けた。僕は再び、ただの瀬名湊に戻った。だが、僕の心に空いた穴だけは、どんなに本を詰め込んでも埋まることはなかった。




