結
季節は冬の終わりを告げようとしていたが、空気はまだ鋭利な刃物のように冷たかった。三月の卒業式予行の日。体育館の重苦しい空気に耐えられず、僕はまた逃げ出した。向かう先は、あの踊り場ではない。図書室でもない。僕は校舎を出て、誰もいない中庭のベンチに座っていた。
白い息が空に溶ける。
「……寒い」
あの冬の日と同じ言葉が口をついて出た。だが、今度の寒さは、気候のせいだけではない。隣に彼女がいないという事実が、僕の体温を奪っているのだ。
転校の手続き上の理由とかで、今日、玲奈が一度だけ登校してくると聞いた。職員室で書類を受け取り、そのまま去っていくらしい。会える最後のチャンスかもしれない。でも、会ってどうする?マフラーの魔法はもうない。僕たちは、心を読むことも、言葉なしで通じ合うこともできない。それに、あの日の僕は彼女を見捨てた。失望された僕が、今さら何を言えるというのか。
『……湊くんのバカ』
ふと、幻聴が聞こえた気がした。
『そんなこと思ってたら、一生後悔するよ』
僕はハッとして顔を上げた。誰もいない。風が枯れ木を揺らしているだけだ。でも、その幻聴は、かつて僕の脳内で響いていた彼女の声そのものだった。マフラーがなくても、彼女の思考パターンが僕の中に焼き付いている。彼女なら今、きっとこう言う。怒りながら、泣きながら、それでも僕の背中を蹴飛ばすように。
『私を見つけてよ!』
僕は立ち上がった。鞄から、あの赤いマフラーを取り出す。縮んで、色褪せた、不格好なマフラー。魔法なんてもういらない。僕は走り出した。廊下を抜け、階段を駆け上がり、職員室へ向かう。すれ違う生徒たちが驚いたように振り返るが、構わなかった。モブである僕が廊下を全力疾走するなど、以前ならあり得ないことだ。でも、今の僕は違う。彼女の痛みを知り、弱さを知り、そして愛することを知った、一人の主人公だ。
職員室の前には誰もいなかった。遅かったか。絶望が胸をよぎった時、昇降口の方角から、微かな気配を感じた。直感だった。論理でも、魔法でもない。ただ、彼女がそこにいる気がした。
僕は昇降口へ走った。夕暮れが近づく薄暗い空間。靴箱の前で、一人の少女が立ち尽くしていた。私服姿の玲奈だった。派手な巻き髪は解かれ、黒髪がストレートに背中に落ちている。メイクも薄く、以前のような華やかなオーラは消え失せていた。どこにでもいる、普通の、少し疲れた顔をした少女。
「……如月さん」
息を切らして呼びかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。僕の顔を見た瞬間、彼女の瞳が揺れた。
「瀬名……くん」
久しぶりに聞く、彼女の肉声。思考の声よりも低く、少し掠れている。その不完全な音が、たまらなく愛おしかった。
彼女は視線を逸らし、小さく唇を噛んだ。
「……何?笑いに来たの?落ちぶれた元アイドルを」
言葉が棘を帯びている。でも、僕にはわかる。これは攻撃じゃない。防御だ。傷つくのが怖くて、必死に虚勢を張っているだけだ。マフラーがなくても、今の僕には彼女の心が透けて見えるようだった。
僕は何も言わずに歩み寄った。そして、手に持っていた赤いマフラーを、彼女の首にかけた。彼女が目を見開く。
「え……これ……」
「借りてたやつ。洗ったけど、ちょっと縮んじゃった」
彼女はマフラーに触れた。魔法のスパークは起きない。思考も流れ込んでこない。ただ、古びたウールの感触があるだけだ。
「……何も、聞こえないね」
彼女が寂しげに呟いた。
「うん。聞こえない」
僕は肯定した。
「だから、言葉にするよ」
僕は深く息を吸い込んだ。喉が渇き、心臓が痛い。言葉にするのは、思考を垂れ流すよりも何倍も難しくて、怖い。それでも、言わなければならない。
「僕は、君の声が聞こえなくなって、寂しかった」
玲奈が顔を上げた。
「君の愚痴も、弱音も、わがままも、全部聞こえなくなって……世界から色が消えたみたいだった。僕は、完璧な如月玲奈が好きだったんじゃない。泣き虫で、メロンパンが好きで、本当は誰より臆病な、そのままで必死に生きている君が、好きだったんだ」
拙い言葉だった。論理的でも、詩的でもない。でも、それは僕の魂から絞り出した、混じりっけのない真実だった。
玲奈の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……聞こえないのに」
彼女は泣き笑いのような表情で、鼻をすすった。
「聞こえないのに、なんで全部わかっちゃうのよ。バカ」
「わかるよ。僕たちは、誰よりも深く繋がっていたんだから」
「……怖かった」
玲奈が小さな声で吐露し始めた。
「お母さんに逆らえなくて、湊くんを見捨てた自分が許せなかった。もう二度と会えないと思ってた。でも……会いたかった」
彼女が僕の胸に飛び込んできた。僕は彼女を抱きしめた。伝わってくるのは、思考ではなく、体温と、心臓の鼓動。ドクン、ドクンと早鐘を打つリズムだけが、彼女の感情を雄弁に語っていた。不透明だ。相手が何を考えているか、100%はわからない。誤解するかもしれないし、すれ違うかもしれない。でも、だからこそ、僕たちは言葉を尽くし、相手を知ろうとする努力を続けられる。魔法で得た安易な全能感よりも、この不確かな温もりの方が、ずっと尊いものに思えた。
「瀬名くん」
「なに?」
「好き」
耳元で囁かれたその言葉は、脳内に直接響くどんなテレパシーよりも強く、僕の全身を震わせた。
外に出ると、雪がちらつき始めていた。初雪の日、僕たちは図書室でマフラーに繋がれていた。そして今、雪解けの季節を前に、僕たちは手と手を繋いで歩き出す。赤いマフラーは、玲奈の首元で揺れている。それはもう二人を縛る鎖ではない。それぞれの道を歩きながら、それでも互いを想い合う、ただの温かな約束の証だった。
「春になったら、どこ行こうか」
「そうだな……動物園とか?」
「えー、ベタすぎ!でも、ま、いっか」
並んで歩く僕たちの足跡が、薄く積もった雪の上に続いていく。冬の匂いはもうしない。冷たい風の中に、微かな、けれど確かな春の予感が混じっていた。僕たちの新しい物語は、まだ1ページ目をめくったばかりだ。




