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週明けの月曜日。教室の空気はいつも通り澱んでいた。一限目のチャイムが鳴る直前、如月玲奈が教室に入ってきた。華やかな巻き髪、完璧なメイク、少し短めのスカート。彼女が現れるだけで、教室の彩度が一段階上がったような気がする。


「おはよー!ねえ聞いて、週末のネイル変えたんだけど超可愛くない?」

「うそ、見せて!やば、めっちゃ可愛い!」彼女は瞬く間に友人の輪の中心になり、いつもの「女王」としての笑顔を振り撒いていた。


僕は自分の席で、教科書を広げるふりをしてその横顔を盗み見る。目が合うことはない。彼女もまた、僕の方を見ようとはしない。けれど、僕たちは知っていた。彼女と僕に、同じ秘密が隠されていることを。そして、昼休みになれば、世界の誰にも邪魔されない二人だけの時間が訪れることを。その背徳的な予感だけで、退屈な授業を乗り切れるほど、僕の心は浮き足立っていた。


キーンコーンカーンコーン。昼休みのチャイムは、僕たちにとって合図だった。僕は購買でパンを買うと、逃げるように教室を出る。向かう先は北校舎の最上階。屋上へと続く階段の踊り場だ。屋上の扉は施錠されていて外には出られない。だからここは、誰も来ない袋小路。埃っぽいコンクリートと、冷えた鉄の手すりがあるだけの、学校で最も孤独な場所。


僕が踊り場に着くと、少し遅れて足音が近づいてきた。階段を登ってくる玲奈は、周囲を警戒するようにキョロキョロと見回し、僕の姿を見つけると、ふうっと大きく安堵の息を吐いた。


「……誰も、見てないよね?」


小声で確認する彼女の手には、コンビニの袋が握られている。


「うん。ここは誰も来ないよ」


僕が答えると、彼女は少し躊躇いながら、隣に腰を下ろした。


儀式の時間だ。僕は鞄から、あのボルドー色のマフラーを取り出す。二メートル近い、異様に長い羊毛の束。僕が自分の首に一巻きし、残りの長い端を彼女に渡す。彼女はそれを受け取り、丁寧に自分の首に二重に巻きつける。マフラーの長さはあるが、感度を良くするためには、なるべく近づいた方がいい――というのは、昨日LINEで話し合った建前だ。本当は、ただ近づきたいだけだったのかもしれない。


僕たちの距離は、わずか三十センチ。肩と肩が触れ合いそうな距離。彼女から漂う甘いバニラの香水の匂いが、冬の乾燥した空気の中で鼻をくすぐる。マフラーの端と端が繋がり、回路が開く。


バチッ。静電気のような瞬きのあと、世界から音が消えた。いや、物理的な音は聞こえているのだが、脳内に直接響く彼女の声が、すべての雑音を圧倒したのだ。


『……あー、やっと息ができる』


玲奈の心の声は、教室での高いトーンとは違う、少し低くて落ち着いた響きだった。彼女はコンビニ袋から大きなメロンパンを取り出し、包装を破った。


(あれ、如月さん。さっき教室で「ダイエット中だからランチはサラダだけ」って言ってなかった?)

僕が心の中で茶化すと、彼女は頬を膨らませて僕を睨んだ。


『うるさいな。あれはポーズ!本当はお腹ペコペコで死にそうなの。朝からヨーグルトしか食べてないんだから』

(無理しすぎだよ。倒れるぞ)

『仕方ないでしょ。モデル体型維持しないと、誰も「可愛い如月玲奈」を見てくれないもん』


彼女はそう心中で愚痴りながら、メロンパンにかぶりついた。サクサクのクッキー生地が口元につき、彼女はそれを舌先で舐め取る。その無防備な仕草を、こんな至近距離で見ているのは世界で僕だけだ。教室の男子が見たら卒倒するだろうな、と思いながら、僕は焼きそばパンを齧る。


『……ねえ、瀬名くん』

(ん?)

『今、私の食べ方見て「小動物みたいで可愛い」って思ったでしょ』

(ッ!?……思ってない)

『嘘。聞こえてるよ。思考は嘘つけないんだから』


玲奈がニヤリと笑う。マフラー越しの思考伝達は、時に残酷なほど正直だ。僕の動揺、照れ、そして彼女への淡い好意。それらがダダ漏れになっている事実に顔が熱くなる。けれど、不思議と不快ではなかった。自分の内側をさらけ出すことは怖いはずなのに、彼女に触れられていると、温かいお湯に浸かっているような安心感がある。


僕たちは、言葉を発さずに会話を続けた。まるで深海で二人だけで呼吸をしているような、静謐で濃密な時間。


『瀬名くんの頭の中って、やっぱり落ち着く』


玲奈がふと、そんな思考を送ってきた。


『静かで、整理整頓されてて、古い本の匂いがする。私の頭の中なんて、いつもインスタの通知音とか、人の視線とか、お母さんの小言とかでグチャグチャなのに』

(僕からすれば、如月さんの頭の中は遊園地みたいだよ。色鮮やかで、音楽が鳴ってて、寂しくない)『……遊園地かぁ。外から見てる分には楽しいかもね。でも、中にいるスタッフは必死なんだよ』


彼女の思考に、ふっと暗い影が差す。母親からの期待。医学部への進学圧力。成績の伸び悩み。彼女の心に巣食う「黒いナマズ」のような不安たちが、マフラーを通して僕の胸にも這い上がってくる。重くて、冷たい。でも、僕はその不快感を払いのけようとはしなかった。むしろ、その重みを分かち合えることが嬉しかった。


(大丈夫。ここでマフラー巻いてる間は、如月さんはただの女子高生だ。医者の娘でも、クラスのアイドルでもない)

『……うん』

玲奈が少しだけ、僕の方に体重を預けてきた。彼女の体温が、厚手のコート越しに伝わってくる。

『ありがとう、湊くん』


ドキリとした。今、名前で呼んだ?いや、言葉にはしていない。思考の中で、自然と「湊くん」と呼んでくれたのだ。それが、どんな愛称よりも親密に感じられた。


それからの日々は、まるで麻薬のような中毒性を帯びていった。僕たちは昼休みだけでなく、放課後も、時には休日の図書館でも、この「秘密の通信」を重ねた。


マフラーを巻くと、互いの趣味嗜好も筒抜けになる。玲奈が実はゴリゴリの少女漫画オタクで、『月刊キス・メロディ』を愛読していること。僕が純文学だけでなく、深夜ラジオのハガキ職人を密かに目指していること。互いの「意外な一面」を知るたびに、教室での他人のような振る舞いが滑稽で、そして愛おしくなった。


ある日の放課後、雪の降る寒い日だった。踊り場の窓ガラスが白く曇っている。僕たちは並んで座り、一つのスマホで映画を見ていた。もちろん、マフラーを巻いて。イヤホンは片方ずつ。でも、音を聞く必要はなかった。映画の感動が、そのまま相手の感情として流れ込んでくるからだ。


スクリーンの中で恋人たちが別れを告げるシーン。玲奈の思考から、悲しみの色が青いインクのように滲み出してくる。

『やだ、切ない。なんで素直になれないの』

(お互いのことを思いすぎてるからこそ、言えないこともあるんだよ)

『そんなの綺麗事だよ。言わなきゃ伝わらないじゃん』


玲奈が鼻をすする音がした。横を見ると、彼女はボロボロと涙を流していた。普段、人前では絶対に泣かない彼女が、僕の前でだけは無防備な泣き顔を見せる。


『……私ね、怖いの』

彼女の思考が、映画の感想から、自身の深層心理へとスライドしていく。

『いつか私も、本当の自分を隠し続けたまま、誰とも分かり合えずに終わるのかなって。お母さんの言う通りの人生歩んで、好きでもない人と結婚して、仮面被ったまま死んでいくのかな』


彼女の震えが、マフラーを通して伝わってくる。僕は無意識に、自分の首のマフラーを少し緩め、その余白を使って彼女を抱き寄せていた。マフラーが引っ張られ、僕たちの額と額がコツンと触れ合う。


(そんなことない)

僕は強く念じた。言葉にする勇気はないけれど、思考なら叫べる。

(少なくとも、僕は知ってる。君が本当は泣き虫で、メロンパンが好きで、誰よりも優しいってこと。僕が知ってる限り、君は孤独じゃない)


玲奈が目を見開いて僕を見つめた。濡れた瞳に、僕の顔が映っている。彼女の思考が一瞬、空白になった。そして、じわりと熱いものが溢れ出した。それは言葉になる前の、名前のつかない感情の塊。愛しさ、信頼、そして恋慕。甘い痺れが、マフラーを伝って僕の脳髄を溶かしていく。


『……湊くんのバカ。そんなこと思ってたら、惚れちゃうじゃん』


聞こえた思考に、心臓が爆発しそうになった。彼女は顔を真っ赤にして俯き、僕の肩に顔を埋めた。マフラーの中は、二人だけの熱で満たされていた。外の世界なんてどうでもいい。進路も、世間体も、全部雪に埋もれてしまえばいい。この羊毛の檻の中に、永遠に閉じ込められていたい。


そう願うほど、僕たちは互いの心に依存していた。知すぎることは毒になる。その毒の甘さに溺れ、僕たちは気づいていなかった。言葉を使わずに分かり合えるということが、どれほど脆い砂上の楼閣であるかということに。


その日、踊り場の窓の外では、雪が激しさを増していた。まるで、これから訪れる冷たい結末を予兆するように、世界を白く閉ざしていこうとしていた。

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