起
冬の匂いがした。鼻腔の奥がつんと痛くなるような、乾いた埃と冷気の匂い。放課後の図書室は、世界から切り離された空白地帯のように静まり返っていた。窓の外では、鉛色の雲が垂れ込め、今にも雪が落ちてきそうな気配を漂わせている。暖房の効きが悪い北校舎の隅で、僕、瀬名湊は貸出カウンターの堅い椅子に沈み込んでいた。
「……寒い」
無意識に口をついて出た言葉は白く濁り、誰の耳にも届くことなく空気中に溶けて消えた。今日は金曜日。他の生徒たちは週末の解放感に浸って街へ繰り出している頃だろう。だが、図書委員の当番である僕にそんな煌びやかな予定はない。手元の文庫本のページを繰る指先だけが、冷たさで赤く悴んでいた。
僕はこの時間が嫌いではなかった。静寂。活字の森。誰とも話さなくていい安息。クラスでの僕は、いわゆる「背景」に過ぎない。目立たず、騒がず、波風を立てない。そうやって息を潜めていれば、誰からも傷つけられることはない。だが、今日の図書室には、珍しい先客がいた。
窓際の一番奥の席。本来なら西日が差し込むはずのその場所に、一人の女子生徒が突っ伏して眠っている。如月玲奈。その名前を知らない生徒はこの高校にはいないだろう。肩まで伸びた艶やかな黒髪、少し気の強そうな大きな瞳、そして流行を取り入れた着崩し方。彼女は常にクラスの中心にいて、華やかな友人に囲まれ、世界の主役のように振る舞っている。僕とは対極に位置する、住む世界の違う住人。そんな彼女が、なぜか今日は一人で、こんな暖房の届かない最果ての場所で寝息を立てているのだ。
喧騒の中心にいるはずの彼女が纏う、嘘のような静けさ。そのアンバランスさが、僕の視線を釘付けにしていた。彼女の肩が、寒さで小刻みに震えているのが見て取れた。薄いブレザー一枚では、この冷気は防ぎきれないだろう。
「……風邪、引くぞ」
僕はため息をつき、視線を逸らそうとした。関わってはいけない。彼女は光、僕は影。交われば、影が消えるだけだ。そう思って立ち上がった時、返却用のブックトラックの最下段に、異質な色彩が目に止まった。
赤。深く、熟した果実のようなボルドー色。誰かが返却本の隙間に押し込んで忘れていったのか、あるいは不要になって捨てられたのか。無造作にはみ出していたのは、一本のマフラーだった。僕はそれを引き出した。ずっしりとした重みがあった。既製品の洗練された軽やかさはない。不揃いな編み目。時折、目が飛んでいたり、毛糸がダマになっていたりする。不器用な誰かが、一目一目、時間をかけて懸命に編んだものだと直感できた。驚くほど長い。二メートルはあるだろうか。両手を広げても余るほどの長さは、まるで誰かと誰かを繋ぐために存在する赤い糸の束のようにも見えた。
持ち主を探そうと辺りを見回すが、図書室には僕と、眠っている如月さんしかいない。まさか、彼女のものだろうか?いや、普段の彼女が身につけているのは、ブランド物のマフラーだ。こんな手作り感満載の、少し野暮ったいアイテムを持っている姿は想像できない。
けれど、彼女の震えは止まらない。華奢な肩が、小さく縮こまっている。普段の強気な仮面を剥がされ、無防備に晒されたその姿は、ただの寒がりの女の子にしか見えなかった。僕は手に持っていた赤いマフラーを見つめ、少し躊躇ってから、彼女の元へ歩み寄った。
一歩近づくたびに、床板が軋む音が大きく響く気がして、心臓が早鐘を打った。もし今、彼女が起きたら。「何見てんのよ」と睨まれるかもしれない。「キモい」と冷笑されるかもしれない。それでも、僕は彼女のそばに立った。整った横顔。長い睫毛。少し開いた唇から漏れる、白い寝息。綺麗だ、と素直に思った。教室で見せる攻撃的な美しさではなく、硝子細工のような、触れれば壊れてしまいそうな儚さ。
「……借りるよ、誰かの忘れ物」
僕は小声で言い訳をして、その長い赤い布を、彼女の首元にふわりとかけた。毛糸が彼女の白い肌に触れる。
その時だった。長すぎるマフラーの端が、僕の手首に絡みついた。払いのけようとした瞬間、バチッという静電気のような痛みが指先を走り、視界が白く明滅した。耳鳴り? いや、違う。頭の中に、直接水が流れ込んでくるような、冷たくて重い感覚。
『……寂しい』
え?僕は周囲を見渡した。誰もいない。如月さんは規則正しい寝息を立てている。空耳か。そう思った矢先、また聞こえた。今度はもっと鮮明に。鼓膜ではなく、脳髄を直接揺らすような響きで。
『誰か、助けて。もう、いい子でいるの疲れたよ』
それは、如月玲奈の声だった。間違いない。いつも教室で響いている、あの高いトーン。けれど、その声色は、僕の知っている彼女のものではなかった。怯え、震え、泣き出しそうな少女の声。
思考が、濁流のように流れ込んでくる。
『お母さん、ごめんなさい。私、本当は医者になんてなりたくない』 『模試の判定、また落ちてた。どうしよう。怒られる。また、あの目で失望される』 『笑わなきゃ。みんなが期待する「如月玲奈」でいなきゃ。完璧で、強くて、悩みのない私でいなきゃ』
やめてくれ。僕は頭を抱えたくなった。それは彼女のプライバシーそのものだった。彼女が普段、厚いメイクと流行の服で必死に隠している、脆く崩れそうな本音。重圧。孤独。自己嫌悪。聞いてはいけない。これは罪だ。他人の日記を盗み見る以上の、魂の聖域への侵入。
動けなかった。長すぎるマフラーは、眠る彼女の首元と、僕の手首を物理的に繋いでいる。だがそれ以上に、見えない回路が接続されてしまっていた。彼女の苦しみが、僕の胸を締め付ける。息ができないほどの閉塞感。彼女は毎日、こんな重りを抱えて笑っていたのか?
『……誰か、本当の私を見つけて』
その悲痛な叫びが聞こえた瞬間、僕は思わず息を呑んだ。彼女は、僕と同じだ。教室の中心にいようと、隅っこにいようと、僕たちは等しく孤独で、誰かに本当の自分を見つけてほしいと願っている迷子だったんだ。
「……ん」
不意に、玲奈の睫毛が震えた。ゆっくりと瞼が開く。焦点の合わない、濡れた瞳が、目の前に立ち尽くす僕を捉えた。
瞬間。彼女の思考が、爆発的なノイズと共に流れ込んだ。
『え、うそ。なんで? 男子? 誰?』 『ちか、近い。待って、私、口開けて寝てた? よだれ垂れてない?』 『最悪、死にたい。顔むくんでないかな。アイプチ取れてないかな。よりによって、なんで見られてるのが瀬名くんなの!?』
あまりの情報の奔流。悲壮感漂う悩みから、一転して乙女心全開のパニックへ。その落差に、僕は思わず反射的に声を上げてしまった。
「むくんでない! 全然綺麗だから! よだれも垂れてない!」 「は?」
玲奈が飛び起きた。勢いよく体を起こしたせいで、マフラーが引っ張られ、僕の体が前のめりになる。顔と顔が、触れそうなほど近づいた。彼女の瞳孔が開くのが見えた。
「あんた今……私の心、読んだ?」
声が震えていた。彼女は自分の首に巻かれた赤いマフラーを掴み、そして視線を辿って、それが僕の手首に繋がっていることを確認した。このマフラーだ。彼女も直感したようだった。
「いや、読んだっていうか、聞こえたっていうか……」 「嘘でしょ……」
玲奈の顔から血の気が引いていく。彼女の思考が、恐怖で塗りつぶされていくのが手に取るようにわかった。 『聞かれた? さっきの夢の内容も? お母さんのことも? 医者になりたくないってことも? 全部?』
彼女の絶望が、僕の心臓を握りつぶすように痛い。僕は何も言えずに、ただ頷くしかなかった。その肯定は、彼女にとって死刑宣告にも等しかっただろう。
玲奈は青ざめた顔で僕を凝視し、そして恐る恐る、心の中で問いかけてきた。
『……これ、瀬名くんにも私の声が聞こえてるの?』
彼女は口を動かしていない。心の声だ。僕は唾を飲み込み、口に出さず、心の中で強く念じた。
(……聞こえてる。ごめん、全部聞こえてしまった)
玲奈が息を呑むのがわかった。通じた。言葉を介さず、思考が直接届いたのだ。
『嘘……信じらんない』 (僕だって信じられないよ。でも、事実だ) 『変態! 最低! 人の心覗くなんて犯罪よ!』 (覗きたくて覗いたわけじゃない! 君が寒そうだったから、このマフラーをかけたら……)
僕たちの思考は、言葉で話すよりも遥かに速いスピードで交錯し、衝突した。彼女の恥じらい、怒り、恐怖、そして僅かな安堵。僕の戸惑い、罪悪感、そして彼女への同情。感情の色が混ざり合い、スパークする。
ふと、窓の外を見た。いつの間にか、雪が降り始めていた。音もなく舞い落ちる白い欠片が、世界を白く染めていく。誰もいない、凍てつく図書室の片隅。僕たちは一本の古びた赤いマフラーによって、互いの心臓を直結されてしまったのだ。
玲奈が呆然と呟いた。 「私たち、どうなっちゃうの……?」
その声は、肉声だったのか、心の声だったのか。マフラーから伝わる微かな温もりだけが、これが夢ではないことを証明していた。ほどけなくなった赤い結び目が、僕たちの運命を強引に手繰り寄せ始めていた。




