8、聖騎士団長、拠点で目覚める
――眠っているハワード卿の耳に、複数の女性の話し声が届いた。
「いや、だからそもそもかすり傷だってば。お前たちに心配をかけるつもりはなかったんだが、一芝居打たないことには、黒幕だっていつまでも出て来やしないしさ」
年齢を重ねた女性の、テナーに近いアルトの声が、何やら言い訳をしている。それに対して別の声が言い返した。
「片腕を失くしかける程の怪我は、かすり傷とは言わないんですよ、伯母上。伯父上がかけていた魔法障壁を勝手に解除して、『私が被弾するまで動くな』と命じたそうじゃありませんか。伯父上から『ヒルダが再びあのような無茶を企てた時には、君には申し訳ないが、無理にでも彼女を我が城に閉じ込めることを許してほしい』と言われた、こちらの身にもなってくださいな」
少し涙声でしかも怒っているらしいのに、何故か心惹かれるメゾソプラノの声だ。
慌てた様子でアルトの声が別の誰かに助けを求めた。
「そりゃボンボンショコラ流の冗談だろうよ。なぁ、アンもそう思うだろう?」
しかし、ソプラノの声は囁くほどの声で淡々と指摘した。
「……隊長。妖精の国のお城では皆が、隊長に向かって『もう、いっそずっとこの城においでください、王妃様』と言っていたのを忘れたのですか?」
最後に、メゾソプラノとアルトの中間の声がこう言った。
「隊長、これはもう素直に謝るしかないっすよ。みんな心配したんすからね」
深く息をつく音がして、アルトの声がしんみりと言った。
「……すまない」
伯母上、隊長、と三人分の泣きそうな声と微かな衣擦れの音がして――。
「すまない、お前たちに、とても怖い思いをさせてしまったんだな」
アルトの声には、温かな母親らしさが滲んでいた。
三人の様子を見守っていたのか、また別のソプラノの声がくすぐったそうに笑う声もする。
彼女たちの会話を聞いていると不思議と心が安らいで、ハワード卿の意識は、再び深い処に沈んでいった。
* *
ハワード卿はぱちりと目を開け、ここは何処だろうと思った。ヒルダとモリー、アンとダイアナ、それからメグの声が聞こえた気がする。だが、他の団員たちは?
「――そもそも、ここはどこだ?」
そう声に出してみて、自分で気付いた。
ここは聖騎士団がエリザベスタウンの町長から借りている拠点だ、と。
「ハワード、目が覚めたか?」
部屋にいたのは、ヒルダとオシアン、トミーだけだった。報告ではヒルダは左腕を失う重傷だったとされていたが、再会した彼女は左腕に包帯を巻いているだけだった。
「先生、お怪我は大丈夫だったのですか?」
「あぁ。危うく左腕を失くすところだったが、妖精の国で最上級の治癒魔法を使って繋げてもらった。むしろ、繋がった後の左腕から余分な魔力を抜く方が大変でね、仕方なくアンに妖精の国まで来てもらって、仕上げの治癒をして貰ったんだ」
最上級の治癒魔法は多くの人間にとっては致死性の猛毒も同然。故に最上級の治癒魔法を受けられる人間は極めて稀であり、もし聖騎士団員が身体の一部を失うような重傷を負っても、通常はせいぜい中級の治癒魔法しか受けられないはずだった。
オシアンが溜め息混じりに言った。
「ヒルダと契約を交わして以来、我は日々の食事に気を遣い、万が一の事態に備えてヒルダの体質改善に務めた。この度はその積み重ねが功を奏したと言えるが、もう二度とあのような無謀はしないで貰いたいものだ」
「分かっている。私だって、姪が産んだ子の顔を一目見るまで死にたくないとは思っているんだ」
何やらそのまま二人の世界に入っていきそうな主従を措いて、トミーがハワード卿に言った。
「他の団員も多少の怪我はありましたが、皆軽傷です。オシアン公が仰るには、遠征前に団長が魔法の指輪をモリー嬢に預けてくださったおかげで、味方全員に妖精の女王の加護が付与されたからだ、と」
指輪に宿る妖精の女王タイタニアは、夜を司る慈悲深き女王だ。心優しいモリーとは相性が良かったのだろう。
「彼女は今――?」
「厨房で、うちの姫様や第三隊の守護者のお二人と夕食の支度をなさっていますよ。まるで仲の良い四人姉妹にしか見えないんだから、不思議なもんっすよね」
「そうか……」
ハワード卿は頷いた。
元々トミーは、高貴な家に生まれたメグの守り役だったと聞いているが、どうやら他の守護者たちにも同じように敬愛の念を抱いており、そこに肌の色や民族の違いによる壁はないらしい。
第三隊副隊長ケイン・カーターもトミーのようであったならば、あのような無残な最期を迎えることもなく、その死を誰からも悼まれないということもなかっただろうに……。
「とりあえず、喉が渇いていらっしゃるでしょうから、こちらを」
トミーに差し出されたグラスには、ラズベリーコーディアルが注がれていた。昨夜から午後まで眠り続けて喉が渇いていたハワード卿は、ゆっくりとそれを飲み干した。
* *
「ハワード卿、お加減は如何ですか?」
食堂に行ったヒルダとオシアン、トミーと入れ違いに、モリーが食事を運んで来た。
「ハワード卿は朝と昼を召し上がっていないので、こちらの方がよろしいかと思いまして」
モリーが運んで来たのは、コンソメスープと柔らかそうなパンだった。
「ああ。心遣い、感謝する」
ハワード卿がそう言うと、モリーの耳が少し赤くなった。その姿はとても可憐で、いつまでも見ていたいと思う。しかしそれはそれとして、彼には気になっていることになった。
「ところで、聞きたいことがあるのだが――」
ハワード卿が尋ねたのは、『銀狼団』と名乗るならず者たちにモリーが魅了の術をかけた件についてだった。
それについて、モリーは特に隠し立てすることもなく、むしろいくらか得意げな様子で話し始めた。
エリザベスタウンにおいて聖騎士団が拠点として借りているこの建物は、元はホテルだった。そのため、各階ごとの廊下に並んだ個室のドアも、個室の間取りと内装も全て同じだ。
そこで、オシアン公とエラとロビンが、侵入者が入って来た時には、この構造を利用して幻惑の術をかけると決めた。
果たして日が暮れるとすぐに、ならず者たちが侵入して来た。彼らの幻惑の術への抵抗力は皆無だった。今にして思えば、魔女の妖術の影響もあったのだろう。
ならず者たちは、護衛の聖騎士団員五十名を痛めつけた後で守護者たちがいる部屋に押し入り、そこでワインを見つけて祝杯を上げたと思い込んだ。
しかし実際には、彼らはロビーで幻惑の術をかけられた後、上機嫌で誰もいない部屋に押し入り、ワインと誤解してテーブルの上にあったラズベリーコーディアルを飲み、その後モリーの魅了の術に手もなくかかっただけだった。
* *
「……全く、君は――。」
ハワード卿は思わず、モリーの手を掴んで引き寄せ、抱きしめていた。
「頼むから、どうか、危ないことも、私以外の男をわざと魅了することもやめてくれないか。……愛しているんだ」
しかし、それに対するモリーの反応は思いがけないものだった。彼女は震える声でこう尋ねたのだ。
「……もしや、あの空のグラスに入っていたのは、ラズベリーコーディアル、でしたか?」
ハワード卿は戸惑いながらも答えた。
「……ああ、そういえばラズベリーコーディアルだったな」
「……お飲みに?」
「……そうだが?」
ハワード卿の腕から抜け出したモリーは、赤くなって謝り始めた。
「申し訳ありません。ハワード卿を魅了しようだなんて卑怯なことを企んだわけじゃないんです、……だから、どうか嫌いにならないでください」
今にも泣き出しそうなモリーに、ハワード卿はすっかり戸惑ってしまった。
オシアンが危うく闇堕ちするところでした。五十代美女がヤンデレのイケオジに監禁溺愛される異世界恋愛!?
……どう考えても大型の飼い猫が絶対に膝から降りないので出勤出来ない飼い主ですね。NHKの朝番組、0655の「わたし、ねこ」のコーナーに応募出来そうです。
ヒルダ伯母の気になる食生活については同シリーズの「猫型妖精の王、朝食を作る」をご覧ください。
トミーの人格形成には、若い頃に出会った老婦人が影響しています。そちらは「とある老婦人の雨夜語り」にて。




