13、大聖女の使い魔と騎士団長と
「犬の肉は薬でも、虎に与えるのは禁忌なの?」
モリーが身を乗り出してメグに尋ねると、メグは弱々しく頷いた。
「虎は犬の血肉を与えられると正気を失い、無差別に人間を襲うようになると書物にありました。元から無差別に人間を襲うような虎など、危険過ぎてサーカスで芸を仕込むことは出来ないでしょう。本来は人に馴れていたはずの虎が、犬の血肉を与えられて正気を失って逃げ出したというのが真相ではないかと思うのです」
「でも、ちょっと待って。虎が逃げ出したのは、ニューシャーウッドでの興行中だったという話よ。この町で虎がおかしくなったのなら、被害はこの町で出てもおかしくないわ」
モリーがそう指摘すると、傍で聞いていたメリンダが小さく悲鳴を上げた。
メグは額に手を当てた。
「頑丈な檻の中に閉じ込めていたからなのか、この町では犬の血肉を与えることに失敗して、ニューシャーウッドで改めて与えたのか……」
「確定は出来ないわね。でもどちらにしても、これは虎退治に役に立つ情報だと思うわ」
モリーは立ち上がると、ポシェットからリボン飾りを一つ取り出した。それは空色のサテンリボンに白い絹の繊細な手編みレースで縁取りをし、薔薇の花の形に彫った真珠母と金色の鈴をあしらった特製のリボン飾りだったが、モリーはそれを丁寧な仕草でメリンダに差し出した。
「貴重な情報をありがとうございました。それから、ここで休憩させてくださったことにも感謝します。お礼にこちらをどうぞ。このリボンを身に付けていれば、忘れても差し支えないような嫌なことを思い出すことは二度とありませんよ」
メリンダはそのリボン飾りを一目見るなり夢見るように頬を染め、うっとり微笑みながらそれを受け取った。
これで彼女も先日サーカス団の野営地の近くで見たことは忘れるはずだ、とモリーは思った。彼女が渡したリボン飾りには、悪夢を抑え、嫌な記憶を思い出さないようにする魔法が込めてあるのだから。
* *
「モリーちゃんから連絡。『例の虎は犬の血肉を与えられて正気を失った可能性あり』だって。何でも、サーカス団の黒髪黒目の男が犬を殺して食肉にしようとしていたのを目撃した婦人が、シルバニアタウンにいたらしい。それで、メグちゃんの推理によれば、病気になった虎に犬の血肉を与えたことで、虎が正気を失って暴れているのではないか、と」
夕方。ホテルのダイニングの卓上でパンを啄みながら、ロビンがそう言った。
他の騎士団員たちも席に着き、豪華な料理を楽しんでいたが、トミーと数名の団員の姿はなかった。
ベッキーはといえば、食卓にも着かずにダイニングの窓から外を眺めているばかり。代わりという訳ではないが、ハワード卿の向かいにはシェーンが座っていた。
「この件について、シェーン殿のお考えを伺いたいのだが」
「そうですね、コガ嬢の推理は半分は当たっているかと」
「というと?」
「虎がサーカスに出演しなかったのは、コガ嬢の仰る通り、病気で衰弱したためなのでしょう。しかし、単なる虎が犬肉を与えられたくらいで正気を失うことはないはずですよ。現に私は、旧大陸エーデルワイス地方で興行していたサーカス団の虎が地元で売られていた犬肉を与えられ、次の日も普通に出演していたのを見たことがありますからね。それよりも、犬の血と聞いて私が思い出すのは、神性を帯びた存在を穢す手段です」
「神性を帯びた存在を穢すとは?」
ハワード卿は顔を顰めた。神性を帯びた存在といえば、エルフや半エルフ、神獣、神族、高位の妖精や精霊などだろう。隷属の呪術にかかることもなければ魅了の術にかかることもない。祟りを為すことはあれど、死してヴァンパイアになることもない存在なのだ。
「私は、聖なる鳥人の一族の生まれなのですが……」
シェーンはぽつりぽつりと語り始めた。
シェーンの一族は卵という形で産み落とされ、孵化した時に長老から、如何なる種類の鳥なのか鑑定を受ける。最上の種は不死鳥、その次に烏、隼、梟、孔雀、鳩、燕、その他と続く。しかしシェーンが生まれた頃には、不死鳥は聖なる鳥の一族の間でも伝説の存在と考えられるようになっていた。そればかりか年々格の高い鳥は生まれにくくなり、五十年前に豊穣をもたらす燕が生まれた後は、凡庸な鳥ばかりとなった。
その中で、シェーンと同時期に孵化した姉のコロニスは、太陽の加護を持つ烏だったことから、一族の中でも最も大切にされる存在となった。
「私が受けた鑑定の結果は『雉』でした。見た目は美しいが、特別な才能を持つこともなく、魔力もそれほど増えないだろう、と」
それ故に、幼少期のシェーンは特に虐待された訳ではないが、殊更大切に扱われたこともなかった。誕生日の主役は姉で、シェーンは見栄えのする添え物に過ぎなかった。
しかし、それでもその頃はまだ平穏でそれなりに幸せだったのだと痛感する時がやって来る。
コロニスが事故で急死し、家族が絶望した時に、ヴァンパイアが囁いたのだ。息子を自分たちに差し出せば、死んだ娘を生き返らせることが出来る、と。
「両親は悲しみと絶望で理性を失くしていたのでしょう。姉の亡骸と私の身柄は容易くヴァンパイアの手に落ちました。奴らは地下室の床に姉と私を並べ、ジョッキ一杯ずつの犬の生き血を注ぎました。ただそれだけのことで、自分の神性が穢されていくのを感じましたが、私にはどうすることも出来ません。その後、姉の肉体は禁断の呪術により復活し、私は隷属の呪術で縛られました」
「……それで、姉君は?」
そう問うハワード卿の声は掠れてしまったが、シェーン本人は淡々と答えた。
「肉体は間違いなく姉コロニスのものでした。そして幼い頃からの記憶と、太陽の炎を扱う魔力はそのまま、穢されてはいたものの神性も残していました。私も両親も、姉が元通りに蘇ったのだと信じていました。ところが中身は全くの別物だったのです。私がそれを思い知ったのは、一度『姉』と共に故郷に帰され、実家で過ごしていたある晩のことでした。『姉』は何の前触れもなく無慈悲にその魔力を振るい、故郷と、そこに住む一族を焼き滅ぼしたのです。あれはヴァンパイアとはまた異なるもの。『成り代わり』とでも言うべきものです」
シェーンにかけられた隷属の呪術が解けた時、追っ手として差し向けられたのは、案の定、コロニスに成り代わったモノだった。
「私は、姉の姿を、声を、記憶を持つそれを、手にかけて生き延びました。皮肉なことに、その時初めて自分が『雉』ではなかったことが分かったのです。だから今はこうして、我が主にお仕えしていられるのですが――」
シェーンの表情は終始変わらなかったが、ハワード卿は彼の内心を思わずにいられなかった。
「……貴方という友が生き延びていてくれて、本当に良かったと思う」
「私を友と呼ぶのは貴方ぐらいですよ、ハワード卿」
シェーンの唇の端が、ほんの少しだけ上がった。
* *
深夜。ユエンが安宿を抜け出すと、ちょうど外でパイプをふかしていた田二郎と出会った。
「コンバンハ。ドチラへ?」
下手な発音ながら、わざわざユエンの祖国の言葉で挨拶をしてくれる田二郎。その懐っこい笑顔に向かって、ユエンは短く、虎を探しに行くのだと答えた。
「ソレハ、ワルイコトヲシマシタ」
田二郎がパイプの火を消した。煙草の臭いに敏感な獣が多いことを知っているからだろう。
「いいえ、少しなら平気ですよ」
ユエンはそう答えながら、部屋から持ち出した、短冊状の数枚の紙をポケットの中にねじ込んだ。
「ワタクシモ、イッショニイキマショウ。ヒトリデハ、キケンデスカラ」
田二郎の申し出に、何故かユエンは否とは言えなかった。
モリーのポシェットには、ちょっとした魔道具が色々入っています。
今回明かされたシェーンの過去。もし彼が女子だったら姉妹格差物で短編が書けそうです。




