12、虎を友と呼ぶ男
犬好きの方、飼っておいでの方には残酷な内容があります。ご注意ください。
【11月25日追記】
「翌々日」とあるべき箇所を「次の日」としておりましたので訂正いたしました。
トミーの話に、ベッキーは、ふむ、と考え込んだ。
「自分が食い殺した人間の霊を下僕として使役する虎、か。それなら犠牲者たちの霊が見当たらないことに説明が付くね。それで、虎が下僕を側に置く理由も知っているかい?」
「人間を食い殺す手伝いをさせるそうです。下僕たちは自分の意思に関わりなく、人間に憑依して虎の前に身を投げ出したり、閉ざされた家の門や扉を開けたり、旅人を誘い出したりするのだとか。昔読んだ書物には、彼らは自分を食い殺した虎が死ぬまでは決して解放されないとも書かれていました」
「それなら四ブロック先のホテルに入り込んだ時も、下僕に開けさせたということなのか。魔物探知の魔法陣に引っ掛からない理由は分からないけれど……」
「大金帝国の虎は、遥か昔から神獣として崇められる存在でもありました。神罰の代行者でもあり、虎の図柄を刺繍した衣服や虎を模した玩具は、邪悪なものから幼児を守る魔除けでもあります」
「神獣、か……。なるほど、君の話で大方説明がつきそうだ。魔物の駆除とは勝手が違うわけだな」
「しかし、まだ不審な点はあります」
ハワード卿が首を傾げた。
「件の虎は、元はサーカスで芸を披露する為に飼われていたもので、よく訓練された虎だったと聞きました。それが数日前から急に積極的に人間を襲い、殺害するようになった。その理由が分かりません」
ここで、シェーンが口を開いた。
「少し妙だと思っていることがあるのですが……」
* *
ツァン・ユエンは、その日も猟師連合の会員たちと行動を共にしていた。顔と利き腕の火傷は痛むが、それでも動き回らずにはいられなかったからである。
サーカス団の野営地が燃えた夜に逃げ出した虎は、彼にとって十五年来の親友だった。
十六年前。大金帝国の高官の息子だった彼は、州連合の大学に留学している時に、祖国で革命が起こり、彼の一族が、革命軍に与すると称した軍閥によって皆殺しにされたことを知った。
何とか亡命が認められたものの、仕送りのなくなった彼に学業と生活の両立は難しく、大学を辞めてこれからどうしようかと思った時に出会ったのが「親友」だった。それから共にサーカス団に入り、言葉も肌の色も違う人々の国で、二人三脚で生きて来た。それだのに――。
ユエンがその日も「親友」を見つけ出せずに安宿兼酒場に戻ると、そこのカウンターに、自分と同じような黒髪黒目の男がいるのを見つけた。同胞かと思って声をかけたが、そうではなかった。しかし、その男はユエンの祖国の文字を使いこなすことが出来た。
「私叫田二郎」
男は、ポケットから取り出した帳面に鉛筆でそう書いて自己紹介した。
「我姓袁」
ユエンもまた相手の差し出した帳面にそう書いた。彼は久し振りに気持ちが明るくなった。この遠い異国の地で落魄して以来、筆談とはいえ祖国語での会話が出来るとは思いがけなかったのだ。
二人はレモネードを飲みながら、筆談で盛り上がった。ユエンが漢詩の対句を考えさせると、相手は倭臭の抜けない独特な句を返して来る。ところが、三回に一回はその返しの中に、ユエンが思わず見事だと叫んでしまうような句があるのだから愉快なことこの上なかった。
「虎は酒に酔った者を襲うので、今は貴方と共に酒を酌み交わすことが出来ないのが惜しまれる」
他の席で騒いでいる酔客たちを眺めて、ユエンはそう書いた。
「私の祖国に虎はいませんが、書物にそう書いてあるのを読んだことはありますよ。ですから、私も今は酒を口にしません」
すっかり意気投合した二人は、明日も再び会うことを約束してそれぞれの部屋に戻った。
* *
ハワード卿たちがニューシャーウッドを出発した翌々日。朝からモリーとメグがシルバニアタウンを散策していると、道の向こうから仔犬がやって来た。
「あら可愛い」
とても人懐っこい仔犬と出会えたことをメグは純粋に喜んだ。モリーは犬が苦手なのでメグが仔犬と仲良く遊ぶのを少し離れて見ていたのだが。
「ちょっとあんた、うちの犬に何をしているのよ!」
エプロンをかけた中年の女が、顔を真っ赤にして怒鳴りながら走って来たので、モリーは急いでメグを自分の背に庇った。
「どうかしましたか?」
モリーがそう尋ねると、中年の女は喚いた。
「うちの犬に、その子どもを近づけないで。その子どもだって、どうせ犬を捕まえて食べるような野蛮な連中の一人なんでしょう!」
その発言に、モリーは腹を立てた。明らかにメグを侮辱する発言だと思ったからだ。
「失礼なことを言わないで。彼女がそんなことをするわけがないじゃない」
「だって、その子は彼奴と同じじゃないか。この前、隣のマーティンの犬を買っていったサーカス団の男と!」
「サーカス団の男のことは知らないけれど、この子は侯爵家のお姫様よ。貴女よりもよほど上品なものしか食べないわ!」
メグは、仔犬の飼い主と思しき中年の女ばかりかモリーまですっかり頭に血が上っているのを察して、ブレスレットの鈴を鳴らし、小さな声で鎮静の歌を歌い始めた。
歌の効果はすぐに現れた。
「……あぁ、悪かった。そうだよ、こんなに可愛い子が、あんな、豚を潰すように犬を殺して食べるわけがないよね」
中年の女は別人のように大人しくなったが、メグは軽い目眩を覚えて、モリーの背に縋りついた。
「そういう話も、この子の前では口にしないでくれるかしら。生まれつきお淑やかで気持ちの優しい子だから、本当に失神しかねないの」
モリーがぴしゃりとそう言うと、女はメグを見て慌てた。
「なんてこと。あんたの顔、真っ青じゃないか。済まないね、本当にお姫様なんだね。すぐそこにうちがあるから、休んでおいきよ」
モリーがメグを振り返り、「そうする?」と尋ねた。メグは頷いた。女の言うサーカス団とは、虎が逃げ出したことで騒ぎになっている例のサーカス団に違いないと思ったので。
「先週、黒髪黒目の男が怖い顔でやって来たんだ。それはもうしつこく、犬を売ってくれってさ」
メリンダと名乗った女は、近くの家の主婦だった。庭先でころころと遊び戯れる仔犬たちを見ながら、彼女は憤懣遣る方無い、という顔をしていた。
「怖くなったから、うちじゃなくて隣のマーティンのところなら売ってくれるだろうって教えてしまったんだよ。……マーティンの犬には可哀想なことをしてしまったよ」
その日の夕方、用事があった彼女は、サーカス団の野営地の近くを通った。そして、見てしまったのだ、黒髪黒目の男が、鶏や豚のように犬を……。
「全く、恐ろしいこと。早く忘れてしまいたいよ」
メリンダは十字を切った。
メグは少し考えた後、モリーに囁いた。
「サーカス団に病人がいなかったか尋ねてみてください」
モリーがメグに代わってメリンダに尋ねると、メリンダは思い出そうとするように、ゆっくりと答えた。
「そうだね、病人はいなかったと思うよ。空中ブランコの娘とクラウンはこの辺を仲良く散歩していたし、手品師と団長家族が近くの食堂で食事をしているのも見たからね。……ただ、見物して来た連中が名物の虎の芸を見られなかったとぼやいていたよ。だけどそれがどうしたんだい?」
そう訊かれてモリーも返事に困ったので、メグの方を見た。
メグはモリーに説明した。
「昔読んだ大金帝国の古い薬学の書には『犬の血肉は、薬になる』と書いてありました。おそらく病気になったのは虎だったのではないでしょうか。しかもきっと重い症状だったのでしょう。それで必死になって犬を求めるサーカス団の男の顔が、メリンダさんには恐ろしく見えたのでしょう。……ただ、虎に犬肉を与えることは、本来は禁忌なのです」
「倭臭(和習)」とは漢詩の用語で、本来の漢文ではあり得ない、日本人独特の発想や癖のようなものです。小野篁や夏目漱石でさえ完全には抜けなかったものですから、「田二郎」はだいぶ健闘しています。
そして、「倭臭」という言葉を知っているユエンは、実はトミーとメグの祖国である皇国にいたこともあるのでしょう。漢字が使えてお箸で食事をする国は初めての留学先としては手頃だったらしいので。
犬の件は……一条ゆかりの名作漫画『有閑倶楽部』の主人公のお父さん(剣菱財閥の会長)が「犬は赤、黒、白の順にうまいんだがや!」と言っていました。犬好きの方には申し訳ありません。
そして『本草綱目』まで目を通しているメグ(18歳)。彼女の趣味は読書です。




