45 貴方はだぁれ?2
「ああ、そうそう!」
不穏な気配を打ち消すように、わざとらしいほど楽し気で明るい声があがる。あげたのは、ユーリ。その口元に浮かぶのは歪んだ笑み。伸ばされていた手はいつの間にか引っ込んでいる。
あ、ろくな事を言わないだろうな、と咄嗟に思うほどには、リーニャはユーリと共にあった。心優しいリーン神父の仮面が剥がれている今、表面を取り繕う事はない。うんざりしたような表情を、そのままユーリへと向けた。
「僕ね、あの子を応援するよ! 彼女はシンには相応しくない。でもあの子はシンにはぴったりだ。だからね、僕はあの子を応援するよ!」
「なんの、話ですか?」
突然の話題転換。リーニャは困惑して眉根を寄せる。しかしユーリは気にしない。軽くリーニャの肩を叩くと、にぃんまりと笑った。
「そうそう、リーニャ・グルフェリック。伝言を頼むよ。今度そっちに行くよって伝えておいて」
「は?」
次々と変わる話題。ついていけずに混乱したところで誰に責められようか。
「陛下に、今度そっちに行くよって伝えておいてね。ああ、もしかしたら、その時答え合わせができるかもね」
「ま、待ってください! それはいつですか?」
「内緒。その日がきたらわかるよ。僕がそこに行くんだから」
「国王陛下はお忙しい身です。帝国はしばらくは静かでしょうが、リリウム王国との戦争の事もあります」
「安心して、クリストファー陛下は煩わせないから」
「宰相もお忙しい身です」
「あ、あの人には僕が関わりたくないから」
即答。
喜劇かと笑いたくなるほどの力強い返答に、リーニャは困ったように首を傾げた。国王でも宰相でもないのなら、後は聖騎士長のみ。カイン相手にユーリが気遣い、わざわざ予告をするなど、空から槍が降ろうともありえない。何故、わざわざ予告を出すのか。
ユーリが何を考えているのか、全く分からないリーニャは、ただただ困惑する。
そもそも、いつ行くのかさえ明確でないその伝言に、どれほどの意味があるのか。考えても理解には至らない。
「さて、僕は聞きたいことも聞けたし、言いたいことも言った。用は済んだ。帰ることにするよ」
「そう、ですか……」
突然訪れ、気が済めば帰っていく。いつものユーリだ。なんの違和感もない。
ユーリはもともと誰かの都合など気にしない。全て自分の都合で動く。『自己中心的』というものが人の姿をとっていたとしたのなら、それはユーリの事だと言えるほどには。
勝手気ままな姿に呆れつつ、そうですか、と頷く。それが常なのに、そうしたのに、そうした事実を消してしまいたいほどの違和感。それはおそらくユーリの顔から笑みが消えているから。
それが真顔だ、と誤認するほど常に浮かべられた表情がない。たったそれだけで、胃の下あたりが、急激に冷えるような感覚がする。
目の前の人物は『何』だろうか、と。『誰』ではなく『何』か、と考えてしまう。
ふふ、と聞こえてきた柔らかな声。それがユーリの笑い声だと気づくことはできなかった。ただ、その音の主がユーリだと理解し、ゾッとする。
なんの表情もない顔。それなのに、聞こえてきた音はとてつもなく優しかった。
「楽しみだなぁ……」
恍惚とした響きをもって零された音。それなのに。ユーリの表面に感情が見えない。だからこそ気づいた。自分が問いかけた事により、ユーリに対してどのような評価を下しているのか、知られたのだ、と。だからユーリは取り繕わなくなった。己の異常性をはっきりと見せつけてきた。
ぶるり、と無意識に震えそうになり、拳を握りしめる。
「先程の伝言、確かに承りました」
「そう、よろしく頼むよ」
未だ肩に置かれたままだった手がそっと離れていく。そして、薄気味悪い青年は、音もなく部屋を出、闇の中に消えていった。
姿が見えなくなり、ようやく詰めていた息がゆるゆると零れる。全身からどっと汗が噴き出した。無様に乱れた呼吸を、なんとか整え、そっと己の肩に触れ、事実に気づくと、整えたはずの呼吸は再び乱れ、足が震えた。
リーニャのその姿を幻視したユーリは道を歩きながら笑う。きっと今頃、リーニャは気づいて震えあがったことだろう、と。
種は蒔いた。いや、常に種は蒔き続けていた。その中から芽が出るのは僅かと知りながら蒔き続けた。芽が出るだろうという確かな手応えを得たのは久しぶり。
成程成程、と頷く。
夜空を見上げ、その眼に月を映した。
「どちらだろうね? 両方かな? どうだっていいけどね。でも、そんなに恨まれていたのか……残念だけど仕方ないね」
零れた笑いは、自嘲。
どうでもいい、と言う割には後悔を含み、悲し気で、もしもこの場にリーニャがいたのなら、目の前の人物はユーリではない、と断じたに違いない。そう思えるほど、強い感情がのっていた。しかし、それは一瞬で消える。そしていつもの笑みを浮かべた。
「それで? 僕に何か用かな?」
くるり、と軽やかな動きで振り返る。振り返った先には誰もいない。薄暗い路地裏。所々、誰が置いたのか、箱や樽が積み上がっているだけ。
「教会から、ずっとついてきているのは知っているよ。出ておいで」
優しい声ではない。けれども非難する声でもない。ただ事実を述べるだけの声。とって食いやしないよ、と続けて言われ、物陰からようやく気配が動く。
「出てきたくなければそれはそれで構わないよ、チコ」
気配が揺れた。
そろそろと出てきたのは、今日の昼に見たばかりの少女。シン以外のすべてに噛みついていた、チコ。
「こんばんは、僕に何の用?」
「……貴方は、シンの何?」
明らかに敵意を感じる視線。身を隠していたにもかからず、気づかれていた事、名さえも言い当てられたこと、そんな事よりも、遥かに上回る敵意。いや、警戒心。
ユーリはにんまりとした笑みを浮かべたままチコを眺める。
震える薄い肩。普通の同年齢の者よりも遥かに低い背は、血の関係ではない。幼い頃の食生活が酷かった証。
勝気な釣り目はユーリを睨みつけているものの、奥に恐怖が見える。
そうか、とユーリはフードに隠れた目を弛めた。
トラウマを抱えたままでもユーリと相対するほど、彼女は己の家族の為に自分ができることをしようとしている。その献身さは評価に値する。
「僕はシンの契約者だ」
「契約者?」
正直に答えたユーリに、チコは訝しむように繰り返した。
「そう、契約者。契約内容は、彼が僕に人生を差し出す代わりに、彼が生きている間、僕がこの世界を滅ぼすのを思いとどまること」
「何よそれ。貴方みたいなのが世界を滅ぼす? できるわけないじゃない」
「できるんだ。僕にはそれだけの力と、知識がある」
さらりと返された答え。
穏やかな微笑みと声に、チコは戸惑う。まだへらへらと笑って言われたのなら、反論する気概も生まれた。しかし残念な事に、ユーリはなんてことのないように、ただただ穏やかに口にした。それにより信憑性が増すのだ、と知っているから。
「友達、だから?」
「違うよ。僕と彼が友人になったのは、契約をしたからじゃない。そうなることが必然だったからさ。けれども、僕と彼の間にある繋がりは、君が思う以上に希薄で、君が想像する以上に強固だ」
「意味わかんない」
拗ねたような声。
ぐっと寄せられた眉根に、ユーリは笑う。
チコは、シンが言っていた以上に素直だ。沢山の感情と、考えを持っている。きっと彼らはある意味色眼鏡をかけて彼女を見ているのだろう、そう即座に理解できる程には。
警戒を解かない目が、再びユーリを真っすぐに睨みつける。それが嬉しくて、愉しくて、ユーリはただただにこにこと微笑み、チコの言葉を待った。
「貴方は、シンの味方?」
「違うね」
問いには簡潔な答え。真実だけを伝えることは誤解を招くと知っているから、あえてそのように答える。けれども、チコは気にした様子もなく、相変わらず睨みつけたまま続けた。
「いつか裏切るの?」
「裏切らない。裏切りようがない。僕達の関係は、そんな単純なものではない。そして、そんな複雑なものでもない。僕はシンを騙すことはあるけど、裏切る事はない」
「騙すことは、裏切る事じゃないの?」
「違うよ。少なくとも、僕達の関係では、ね」
言い切られた言葉。納得がいかないような表情を見せる少女に、ユーリはゆっくりと近寄る。チコの反応をうかがいながら、彼女が許すその場所まで。
手を伸ばして、僅か拳一つ分届かない、その場所で足が止まる。チコに見えるように、ゆっくりと両手を広げた。
闇が、広がった。
そう、チコは認識する。
物語の魔法使いのようなローブは漆黒。闇の中、沈んでいくその色が広げられ、何故だかそれが、途方もない闇に飲み込まれたようだ、と感じた。
闇は嫌いではない。日があたる時間より、完全に闇に飲み込まれた時間が、チコにとって一番幸せな時間だったから。誰もが眠りにつき、チコはたった一人、ようやく安心できる時間。それをもたらす闇は、どちらかと言えば好きだ。
僅かに和らいだ目に、ユーリはチコを理解する。幼い彼女が安寧を得た場所が、どこだったのかを。
「君は、闇に魅入られやすいようだね」
気をつけなさい、と静かな声が告げる。広げられた腕が、ゆっくりと降ろされた。
いいえ、と首が左右に振られる。
「私は、闇が好きだけど、それでも選ぶくらいはするよ」
その凛とした声に、ほぅ、と面白そうな声が零れる。
どうやら目の前の少女は合格のようだ、とローブに隠れた目を細めた。ゆっくりとローブに手をかけ、その顔をあらわにする。
「僕はユーリ。『魔法使い』のユーリ。僕が顔を見せるのは、僕が認めた者にだけ。そしてこれは、僕が認めた者にだけ贈るもの」
差し出されたのは美しいペンダント。繊細な金の台座に、深海よりも深い青い宝石が収まっていた。その中には、キラキラときらめき、一秒たりともその形状をとどめておかない不思議な粒子が蠢いている。
「それを持っている限り、君はいつでも僕の店に来る事が出来るよ」
「いらない。これは、いらない。貴方に願うなら、今、する」
突き返されたペンダント。ユーリはますます笑みを深めた。
「君は、僕が思っていた以上に賢いようだ。では、今ここで君の話を聞くとしよう」
「……。貴方は何? 神父様はなんなの? この孤児院は、どうしてあるの?」
「悪いけど、質問はお断りだ。君の願いを言うと良い。僕にできる事なら、叶えよう」
ぴしゃりと跳ねのけられ、ち、と小さな舌打ち。
まるでシンを見ているみたいだな、と思えば、知らず知らず、くすり、と小さな笑いを零していた。それに苛立たし気な視線が向けられる。
「話を聞くんじゃないの?」
「願いに関する、話を聞くんだよ」
くすくすと笑いながらゆっくりとチコを観察する。まだ、出会った直後のシンに似ているな、と感想を抱いた。
シンとは初めの出会いが良かった。初めからシンはユーリに感謝していて、ユーリという存在に良い感情を持っていた。だから、これほどあからさまな拒絶や、悪態はなかったけれども、もし普通に出会えばこうだったのだろうな、と想像に容易い。あの頃のシンは、そんな少年だった。
懐かしいね、と目を細める。
「貴方は……何ができるの?」
「さぁ?」
ニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべ続ける。警戒するチコの神経を逆なでるように。案の定、チコは苛立ちに、その場で地団駄を踏むように足を鳴らした。
「貴方は、シンを守れるの!? 守れないの!?」
「シンは僕が守る必要がない」
「シンより強い相手でも!?」
「相手でも」
こくりと頷けば、チコはどうして、と不満を口にした。
「どうしてよ。シンより強いんだよ? でも貴方なら守れるんでしょう? 世界を滅ぼせる程強いんだから」
「僕は力を持っているが、それは僕自身が強いからじゃない。まぁ、守る方法は色々ともってはいるけどね」
「ならどうして!」
「その方が面白そうだから」
にんまりと笑うユーリ。悪魔、と思わず呟き、チコは数歩後ろに後ずさった。
「ねぇ」
「ひっ」
笑う青年が、チコが逃げた分を詰める。
思わず喉が鳴った。月明かりに照らされたユーリを見る。自分は、いったい何を相手に交渉しようとしたのだろうか、と恐怖心から思考を飛ばす。
「君は、何を知っているのかな?」
「わ、私……し、神父様が……お父さんが、普通じゃないのを、知ってる……」
「どうして?」
闇が問う。
どうして、どうして、と口の中で繰り返し、何故自分がそれを知ったのか、経緯を口にした。恐怖にか、思考がまとまらず、それは聞き苦しい内容だったかもしれない。それでも、闇は静かに耳を傾けてくれた。
話を聞きながら、どんどん闇から笑みが消えていく。話し終えた頃には、一切の表情が消えていたけど、不意ににんまりとした笑みが浮かぶ。
「気が変わったよ」
「え……?」
「一度だけ、僕はシンを守ろう。死から。一度だけだ」
どうして、と驚きを向ければ、銀色の目がゆっくりと細まり、愛し気にチコを見た。
「君は今、とても面白い話をしてくれた。それに対する対価だと思ってくれれば構わない」
優しい声。優しい視線。しかし、口元に浮かんだのは、嘲るそれ。
慈悲深く希望を与えながら、絶望の奈落へと柔らかく落とす悪魔のような表情だ、と思った。月明かりに照らされ、なおいっそうそう思ってしまう。
「けれども、それが希望に繋がるとは思わない方が良い。生きることが絶望へと繋がる。その事を、君は知っているはずだ。それでもなお、シンが生きることを望むんだね……」
バカな子だね、と紡ぐ声は優しく、そして、泣き出しそうだった。
浮かぶ嘲りの笑みは変わらないのに、何故だろうか、とぼんやりと考えているうちに、闇は闇の中へと消えていく。チコだけがその場に残った。
他人は嫌いだ。裏切るから。
それでもあの闇にシンを頼んだ。何故だろう、と今になって疑問が湧き上がる。まるで誰かに操られているようだった。自分の意思で近づいたのに、自分の意思ではないような不思議な感覚。
どうして、という疑問は、誰かに聞かれる事はなく、チコはふらふらと教会へと戻った。
お か し い ……!
なんでユーリ君、こんな不気味な子になったんだろう!?
トト〇どこいった!?
ふんわりと優しい話が書きたかったのに、どこを間違ったんだろう……




