24 虎穴に入らずんば1
店を出て、路地裏を横切る。階段を下りて一段低いスラム街へ。立ち並ぶぼろい平屋は見向きもせず、奥へ奥へと進んでいく。最奥の掘立小屋のような建物の前で、ようやくその足は止まった。後ろからついてきていたシンの足も同時に止まる。
ここか、と問うシンに、ユーリは声を出さず、頷くことで答えた。そうすればシンはユーリの前へ進み出て、扉に近づく。少しの間意識を集中し、中の様子を探った。
微かな物音。誰かがいる。外観から把握できる建物のサイズ上、この家は扉を開けた先に一部屋だけ。狭い、シンが暮らすハンター宿よりも狭い部屋が一つだけ。そしてその中で音をたてる人数は、音の数、質から確実に一人だけだと解った。音は、人間の呼吸音の他に、紙に何かをしたためるような、微かな音。
ちらりとユーリを確認し、一つ頷く。ユーリから頷きが返り、シンは扉を開けた。音をたてないように慎重に。細心の注意を払いながら開けたそれは、希望どおり微かな音もたてずに開く。さっと中を確認し、外から確認していたとおり狭い部屋が一つ。扉に背を向けた男が、小さな椅子に腰かけ、何かを書いている。
先にユーリを通した。
音のないユーリ。静かに男の真後ろに立つ。そこでようやくシンも中へと入り、扉を閉めた。
「こんにちは、アラン」
そっとかけられた声。優しく柔らかく紡がれたそれに、家主である男は大きく跳ねた。当然だろう。自分一人のはずの室内。突然後ろから声をかけられたのだ。狭い室内、扉が開いた気配も、人が入ってきた気配もなく。
派手な音をたてて椅子から転がり落ちながら振り返る男。肩を少し超えるくらいの、手入れをしていないであろうパサついた髪は、首の後ろで一つにまとめられている。緑と菫色のオッドアイは血走り、ぎょろぎょろと忙しなく動き回っていた。驚きすぎて声も出なかったのだろう。はくはくと必死に唇を動かしている。
正直、シンは男を見て、大丈夫かコイツ、と本気で思った。どうみても精神状態がまともには思えない。驚愕していることを抜いても、だ。
しかしユーリは気にしない。ゆっくりとフードを取り払う。
朽ち果てたあばら家のような室内の中、豪華な色が露になった。瞳に感情はなく、口元には口角を上げただけの形だけの微笑み。本来なら、それを見た者は気味の悪さに悲鳴を上げるなりするだろう。しかし、男は満面の笑みを浮かべ、歓声をあげた。
「おお、我が神よ!!」
両手を広げ喜色満面の男に、ユーリの顔から張り付けただけの笑みが消えた。しかし、男は気にしない。ユーリを神と呼び、自らの下へと赴いてくれた事への感謝の口上を述べていた。そしてそれは段々と男の一人語りのようなものになっていく。
「ああ、我が神よ! 貴方の言うとおり、あのくだらない男に加担しました! そうすれば、噂の魔法使いに会えると貴方は仰った。近々この場に訪れるだろうと! 訪れたのは我が神! やはり、噂の魔法使いは我が神、貴方だったのですね! そうだと思っていたのです! そうでなければおかしいのです! 我が神、貴方より優れた者はこの世に存在しない! 貴方以外、魔法使いと呼ばれるような人智を越えた者はいないのですから! 私をテストしていたのですね? そのような事をなさらずとも、私が我が神以外を崇拝するはずもございません!」
つらつらと語られる内容。ユーリもシンも眉根を寄せる。
「ああ、我が神よ! 貴方の言うとおり、召還石を造り、モルテトーボを産み出しました! 今は餌で抑え込んでおりますが、いつでも餌を断ち、王国で死の行進を行えます! 王国を滅ぼすという貴方の願い、いつでも叶います。これが叶った暁には私を組織に、貴方のお側にお仕えする事を許してくださる、あの約束を胸に、日々精進してまいりしました! この、アラン……いえ、レドフォード、貴方様の為ならなんだって致します!!」
恍惚とした笑みが薄気味悪い。男は興奮のままにユーリの足元へとすり寄ってきた。そのまま足に口付けようとしたので、ユーリは身を引いて避ける。見ず知らずの禁忌破り野郎に、勘違いのまま崇拝されたって嬉しくもなんともない。気持ち悪いだけだ。向ける眼差しも、自然と冷たいものになってしまう。だが、それさえも男にはご褒美なのだろう。ああ、と歓喜の声を上げられた。
気持ち悪い、正直な感想をあっさりと零す。それでも男がめげる事はない。むしろ声を賜ったと歓喜に打ち震える始末。
「誰、君。僕は君なんて知らないよ」
「我が神……?」
「僕は、平然と錬金術三大禁忌の一つ、召還石なんてものを錬成するゴミを始末しにきただけ」
「そ、そんな! 貴方が私に言ったのではありませんか! この国が嫌いだから滅ぼしたい。その為に、モルテトーボを召還する召還石を設置してほしい、と!」
「でもまぁ、感謝するよ。君に声をかけたのは、僕と同じ顔をしているんだ、という事が分かったからね」
「え……?」
男はまたたく。ユーリの言葉が理解できず、ゆっくりと首を傾げた。
「僕はユーリ。巷で魔法使いと言われる錬金術師だ。君と出会うのは今日が初めてだよ」
いいえ、と声があがる。
男が必死の形相でユーリの足元に縋り付いた。
「貴方が我が神以外であるわけがない! 私が見間違うはずもない! それに、その銀眼は、唯一! 神に許された者しか持てぬ伝説の色! 貴方が我が神以外であるはずがない!」
「くどい。僕は君を知らない」
冷たく切り捨てられた言葉。男は顔色をなくした。そんな、と呟かれる言葉に力はない。がっくりと項垂れた姿は、ユーリ達がこの場に踏み込んだ時より十は老けて見えた。しかし、ユーリはそれに冷たい視線を向けるのも億劫そうに視線を外す。ぐるりと室内を見渡し、先程男が何かを書いていた紙に目を向けた。
指先でつまみ上げるようにして質の悪い紙を取り上げる。内容に目を走らせ、あげる、とシンに差し出した。受け取ったシンは中身を確認し、そっと紙を懐にしまい込む。
紙に書かれていたのは日誌のような、観察記録のような、謎の文章。前半は自らが設置した召還石から召還されたモルテトーボについて。調達した食料の総量。モルテトーボ達がそれらを平らげる速度。残した量。初めは下水道の入り口から放り込んでいたが、今では餌をくれる人物と言う認識を持ったのか、襲われることがないので中まで入り込んで餌を与えていたようだ。たかだかドブネズミ程度のサイズでも、餌をくれる人物を認識する脳があることに驚く。ある意味、これはすごい発見ともいえるのだろう。
後半は、彼の信じる神を讃える内容。いかに『我が神』とやらが素晴らしいのか、それを延々と綴っていた。問題なのは詳細に書き記された『我が神』の外見。黄金よりも神々しく輝く金の髪に、星のように煌めく銀の目。日にあたらない事を顕著に示す、白すぎる肌。そんな特徴を持った者が目の前にいる。これをもしも騎士にでも渡そうものなら、即座にその場でユーリが拘束されるだろう。
シンは知っている。この王国を滅ぼそうとしているという『我が神』がユーリではないことを。第一、四六時中ユーリの側にはシンが張り付いているのだ。いったいいつ、男と接触できるというのか。おそらく、ユーリが眠る時以外の時間は、ほぼずっと一緒にいると言っても過言ではない。この一年は間違いなくそうだと言える。そして何より、シンはユーリの事を、事情を、多少知っている。だから、彼がこの国をそれなりに気に入っていて、無くなられては困ることも理解していた。そんなユーリがこの国を滅ぼそうと画策するわけがない。そんな事、シンにとっては当たり前だろうが、そうでない者にとっては違う。だから、これからどうやってユーリを守るべきか思案する。
「シン、難しい事は考えなくても構わない。元凶に会いに行けばいいよ。どうしてそんなことをするのか、本人に聞いてみよう」
「っても……どこにいるんだ、ソイツ」
「知らない。でも、僕がここにきて、彼に会う、というのはシナリオどおりだったみたいだ。そうなれば、外に出ればソイツの息のかかった騎士達が包囲していて、僕を拘束するかもしれないね。拘束でもされれば会いに来てくれるんじゃない?」
「却下だ。危険すぎる。お前に何かあったらどうする」
顔をしかめるシンに、そうはいっても、とユーリは肩を竦めた。圧倒的情報の少なすぎる今、どう動こうと敵に有利となる。必要なのは情報。けれどもユーリの張った網は触れもせずにすり抜けられ、その能力を最も信頼している影は出し抜かれている。網も影も役に立たないのなら、情報を得るためにユーリ自身が多少の無茶をするのもやむを得ない事だろう。
シンとて理解している。それでも、だからこそ、ダメなのだ。あまりの危険性の高さに、容認しかねる。
「シン、君は本当に面白い。他人の事をまるで我が事のように考える。僕の痛みを己の痛みのように捉える。それは普通であるようで、実は違う。君は、本当に理想的だね」
難しい顔をして黙り込むシンに、ユーリは楽し気に口許を歪めた。
「さて、シン。君は僕に対してそう感じるほど長く僕といる。ということは、僕が出す結論も理解しているね?」
シンは答えない。いや、答える必要がない。わかりきったことを答えるほど、愚かではない。ただ、舌打ちを一つ。そっぽを向いた。
肝心な時に役に立たない、と己の無力を呪う。いつだって力が及ばない。孤児院も、ユーリも、何も、何一つ己の力で守る事が出来ない。
早く大人になって、ハンターになって孤児院を救いたかった。けれど、シンがハンターになった時には、ユーリが既に救ってくれた後だった。神父はけしてユーリの名を出す事はなかったけれども、長く一緒にいるシンは、重ねた会話にいつしか、ユーリの寄付が教会を、孤児院を救ったのだと気づいた。質の良い薬を与えてくれるだけでなく、あの痩せこけた神父が普通に見られる程に与えてくれたユーリ。その恩人が今、苦境に立たされようとしているのに何もできない。それが、酷く腹立たしい。
「シン。君は今、僕の心配より自分の心配をするべきだと思うよ」
ユーリが微笑む。慈悲深く、優しく。
わかっている、と低く呟いた。
今この場にユーリと共に来ている。自分も恐らく捕らえられるかもしれない。捕らえられれば教会に、孤児院にそこの出身者と言うだけでどれほど迷惑をかけるかわからない。それに、捕らえられなかった時、敵はユーリの戦力を削ぐため、シンを狙うだろう。そうなった時、ただのハンターでしかない、後ろ盾も何もないシンでは防ぎようがない。相手はユーリにさえ尻尾を掴ませない組織なのだから。
こういうとき、ユーリはけしてシンを助けない。そこから自力で這い上がるだけの実力がなければ、ユーリの傍らにはいられない。いる価値がないから、と。だから微笑む。慈悲深く、優しく。シンを見定めるためだけに。
ふと、シンの耳が音を拾った。聞き覚えのある足音。ハンター歴の長いシンは、かなりの音を聞き分ける事が出来る。大通りを歩いていても、どの足音が、誰の足音か、惑わされることなく聞き分けるほど正確な耳を持っていた。
口元に笑みを刻む。
「ユーリ。交渉次第では、敵の裏をかけるかもよ」
「ん?」
「良かったな。ここに来たの、宰相様だぜ」
にたり、と人の悪い笑みを浮かべ、ユーリを見れば、げぇ、と悲鳴をあげてのけぞった。驚愕に目を見開き、嫌そうに歪んだ口許を、袖で覆い隠す。そして慌ててフードを被る姿は実に滑稽で、シンはにやにやと笑いながら眺める。
「嘘だと言ってよ、シン」
「いやぁ、悪いな。俺の耳の良さ、知ってるだろう」
一歩、二歩、と近づいてくる足音。その足音はすぐそこまで迫っていた。扉に張り付き、タイミングを計る。がっくりと項垂れるユーリをよそに、近づいてくる人物が扉に手をかける正にその瞬間、扉を開け、中へと引き込んだ。
ばたりと音をたてて閉まる扉。驚愕に固まる男。茶斑の髪に灰色の目。繊細な銀縁の眼鏡が衝撃にずれている。彼にしては珍しい隙だらけの姿に、流石のユーリもほんの僅か、笑ってしまった。
「おや……誰かと思えば、ユーリ。貴方でしたか」
すぐに宰相の仮面が張り付き、煩わしそうに顔をしかめながらずれた眼鏡を指で押し上げる。神経質そうに見えるその動きは、彼の内情を示しているのだろう。
「い、いやぁ、宰相閣下、さっきぶりぃ……」
先程謎を残して逃げた手前、気まずい。引き攣った微笑みを浮かべ、だらだらと冷や汗を垂れ流しながら震える手を上げる。そんなユーリの様子に、首を傾げた。
「また体調がすぐれないのですか?」
「え!? あ、いや、そんなわけじゃ……えっと、あー……さ、宰相はどうしてここに?」
「先程の件で首を切った馬鹿な貴族騎士の小隊が、本来はここに来る予定だったらしいとの報告を受けましたので。貴方こそ、何故?」
「成程……宰相はイレギュラーだったのか……ふむふむ」
にんまりとした笑みが浮かぶ。
「僕は昨夜僕の信頼する情報源からコイツの情報を得ていてね、お仕置きに来たんだよ」
「お仕置き?」
「僕はね、錬金術師だ。それなりに錬金術師の矜持ってものを持っている。それを踏みにじられたんでね」
「……下水道の件ですか?」
珍しく露になった怒りの感情を思い出し、尋ねる。ユーリはそれに明確な答えを返さず、ただにんまりとした笑みを返しただけだった。けれどもそれで十分。答えないという事は、好きに解釈して構わない、という事。
「で、それが踏みにじった相手ですか?」
床にへたり込んだままブツブツと何事かを呟く男に視線を向ける。それにもユーリは答えない。
「ねぇ宰相。僕と取引しない?」
「取引?」
「そう。僕はね、君に貸しを作るなら良いけど、借りは作りたくない。でも君の手が必要でね。だから取引したいんだ」
なんて正直に口に出す男だろうと呆れた。いや、これもまた、この男の交渉の仕方なのか、と面白がる。宰相としてあらゆる交渉ごとの場に立ったことのあるルルク。謎だらけのユーリとの交渉、気にならないわけがない。
「席に着くのはやぶさかではありませんが、受けるかどうかは確証はありませんよ?」
「構わないよ。交渉ってのはそういうものだろう?」
いいでしょう、とルルクは頷く。居住まいを正し、ピンと背を伸ばした。
「僕は君に協力要請をする。内容は、僕とシンの安全の保障。あと、僕を牢に入れて欲しい。これを受けてくれるなら、僕は君に、君が知りたがっている僕の情報を一つ、開示しよう。僕の素顔か、僕の内情に迫る重大な秘密を一つ。どう?」
「素顔は内情に迫らないのですか?」
「顔なんていくらでも変えようがあるからね」
しれっと返される言葉。ルルクは呆れたような視線を向けた。
二つに一つ、と提示しながら、選択肢は一つだけ。これのどこが交渉か、と頭を抱えたくなるが、それでもユーリからの提示は興味深い。おそらくこの取引をルルクが蹴ったところで、ユーリは自身で何とかできるのだろうと想像するに容易い。欲をかき、より譲歩を求めようとすれば、ユーリは自らこの取引を蹴るだろう。そして自らの力であっさりと乗り越えていく。恩を感じる人種ではないだろうが、恩を売るなら今しかない。
「良いでしょう。貴方の秘密とやらを教えてください」
「シン、手伝って」
ルルクに背を向けながら声をかける。すぐに心得たように近寄ってくるシン。ユーリのローブをシャツごとたくし上げた。
突然の二人の行動に狼狽するルルク。二人が何をしているのか理解できなかったが、露になった背を見た時、咄嗟に口を押さえた。そうでもしなければ驚愕に、声を上げていただろう。
白い背に鮮やかな大輪の薔薇を思わせる痣。信じられないものを目にし、震えた。
「さて、ルルク・フォン・ベルト公爵。僕の秘密を知ったからには、もうこれ以上僕について嗅ぎまわらない方が賢明だと理解できるね? もしもこれ以上僕の秘密を知れば、君は主を僕に鞍替えしなくてはならないだろう。それは、君の本意かな?」
「お断りします。私の主はクリストファー国王陛下ただ一人。例え殺されようともあの方以外に仕える気はありません。私は、貴方から手を引きます。貴方が陛下の敵でないかぎりは」
即答。
あまりに強い拒絶。ローブを降ろし、背を隠したユーリは振り返った。その顔に浮かぶのは微笑みではない。けれどもつまらなさそうな、あの不気味な表情でもない。どこか満足げな、誇らしげな、そんな表情。
「陛下は良い臣を持っている。僕は君が何者かは知らないけれど、君が国王陛下の臣である間は、不問とするよ」
頷くユーリを眺め、ルルクは顔をしかめた。得た情報は己の内に秘めるにはあまりに大きすぎる。だというのに、誰にも言う事が出来ない。
何故、という疑問だけが胸中を占めた。何故、カインはこのことを報告しなかったのだろうか。彼があの痣の事を知らないわけがない。知っていても話せなかったというのか。今の自分のように。きっとそうに違いないと結論付ける。もし書面にしたため、誰かに見られたら? もし口にして誰かに聞かれたら? 考えただけで頭が痛い。カインが敢えて黙っていたのであろう理由を自分の思うまま解釈する。
知らねば良かったものを、と憤る気持ちと、深く踏み込む前に知れて良かった、と安堵する気持ちを胸に抱きつつ、ルルクはユーリの計画の説明を受けた。




