11 それぞれの想い1
日はすっかり暮れ、紫紺の闇が辺りを覆う頃、シンはもたれていた壁からゆっくりと離れた。
くしゃり、と左手で前髪を掴み、苛立たしそうにかきあげる。
一瞬上げかけた苛立ちの声は、寸ででなんとか飲み込んだ。それでも心のうちに溜まったモヤモヤとした怒りが霧散するわけではなく、一度、前髪から手を離した左手で握りしめた拳で、背を預けていたた壁を殴りつける。
がつん、と音がして壁は僅かに崩れ、ヒビが入るが気にしない。見向きもせずに歩き出す。
苛立ちは歩みにも現れ、ガツガツと、普段ならば絶対にありえない、何とも刺々しい足音を立てながら歩いていた。顔は歪んだまま、裏路地を抜け、妖精の木の広場へと辿り着く。今更、一度出てきたユーリの店へ戻る気にはなれず、右には曲がらず、真っすぐと北へ抜けた。
南の目抜き通り、西のハンター通りに比べ、静かな教会通りへと辿り着く。
少しだけ考え、もう閉まっているだろう教会へと足を向けた。
中央広場と、西口の城門の丁度中間で、シンが抜けてきた路地裏から目と鼻の先にある教会は、想像どおり、闇に沈んでいた。
外見は質素ではあるのだが、中へ入れば、目の前に建てられた厳かな神の像と、その後ろに広がるステンドグラスに、無意識に神を称えたくなる、そんな尊厳な教会。
シンは基本的に神を信じていないし、神に祈るようなことはしない。それでもこの教会にはしょっちゅう足を運んでいた。何故なら、併設された孤児院は、シンがユーリの店の次に入り浸る場所で、ユーリと出会う前は、ほぼこちらに入り浸っていたから。
全てを拒絶するように固く閉ざされた門を、片手で掴み、軽々と飛び越える。勝手に敷地内に入り込んだ。
門から教会へと続く僅かな道の左右に整えられた花壇。そこに植えられた愛らしい色をした花は、昼の時間ならば来訪者の目を楽しませ、気持ちを和ませるのだろうが、今は恥じらうようにひっそりとその花弁を閉じている。シンは、質素ながらも可愛らしい花壇には目もくれず、そのまま真っすぐに礼拝堂を目指した。
礼拝堂の木製の扉を軽く手で押すが、当然鍵がかかっている。隣の窓から中を伺い、ぼんやりと見えた灯りに、誰かがいるのが知れた。
そっと窓ガラスを数度叩く。
ガラスを打つ、歪な音に、灯りが揺らいだ。
ゆっくりと近づいてくる橙色の光に、それがロウソクの明かりであることが知れる。濃紺に浸食された世界を、温かい橙色の光が、その部分だけ闇を追い払い、辺りをくっきりと浮かび上がらせるのを眺めながら、近づいてくるのを待った。
「どなた?」
まるで夜の静けさのような深く、落ち着いた声が問う。その聞き覚えのある、というか、聞きなれた声に、シンは安堵の表情を浮かべた。
「リリか。俺だ。シンだ」
「まぁ、シン? こんな時間にどうしたの?」
声は少し驚き、灯りの照らす範囲が下がる。その動きに、声の主が灯りをどこかに置いたのだと理解するよりも早く、ガチャガチャと内側から音が響いた。
しっかりと閉ざされていたはずの、木の扉がゆっくりと開く。けして多くはないが、先程以上の光が溢れ、さほどの明るさではないにもかかわらず、シンは一瞬目を細めた。
光と共に扉の内側から現れたのは、シスター服に身を包んだ、シンと年齢のそう変わらなさそうな女だった。
「遅くにすまない。ちょっと、落ち着きたくてな」
「そう。どうぞ、入って」
す、と横によけ、シンを中へと誘う。それに小さく、短く礼を言い、中へと入った。
何が違うのかシンには理解ができないが、何故か外よりも一段階冷たい空気が肌に纏わりつくようで、ぐっと眉根を寄せる。眉根を寄せたところで、隣に立つリリに何が見えるわけでもなく、シンは一つ溜息を零し、リリの頬に触れる。
親指で、閉ざされた目の下をなぞるが、リリは身じろぎ一つしない。
「調子はどうだ?」
「これといって変わりはないわ」
「そうか」
ふわりと微笑まれ、頷くと手を離す。
離れていく熱に、少々名残惜しそうな顔をしながら、リリが首を傾げた。
「貴方の方こそどう?」
「かわりねぇな。相変わらずユーリんトコでぐだぐだしてるか、街の外に行ってるかだな」
「そう。楽しそうで何よりだわ」
軽く肩を竦め、にやりと笑えば、見えずとも気配を感じるのか、リリが楽しそうに笑った。しかし、その顔がすぐに曇る。
「シン、何かあったの?」
「ん……やっぱりリリにはわかっちまうか……」
「当然よ。私と貴方がどれほどの時間を共に過ごしてきたと?」
「だよな……」
苦笑。
二人の付き合いは、二人がこの孤児院に居る時から。つまり、シンが産まれて間もない頃からずっと一緒にいた。リリの方が二つほど年上だが、ほぼ同時期に戦争孤児として孤児院に来ている。
同時期に孤児院にきたということで、リリはシンの姉となり、四六時中ともに居た。赤子のシンを、いつだって小さなその身体で守っていた。
孤児院の経営状態を知っているシンは十四歳でハンターになり、孤児院を出たが、寄付という名目で、自分を育ててくれた孤児院に少しでも恩返しができれば、と稼いだ金の殆どをつぎ込んでいた。
面倒見が良く、子供受けが良かったリリは、孤児院に残り、今では父代わりであった年老いた神父に代わり、子供たちの面倒を見ている。
それぞれ違った形で、育ててくれた孤児院へ恩返しをしている仲間であり、共に育った大切な家族のような存在。
「リリ。いつもの頼んでいいか?」
「ええ。……ふふ、シンはいつまでたっても小さな子供みたいね」
微笑みに、それはお前と神父限定だ、という言葉を飲み込む。
日々の労働で硬くなった手が、優しくシンの手を掴み、近くの長椅子へと移動した。目は見えなくとも、教会と礼拝堂の中なら、リリが何かにぶつかることはない。それに、目が見えない分、感覚の鋭いリリは、外に出かけても、殆ど道行く誰かにぶつかることはない。
慣れたようにシンを椅子に座らせようとするが、シンはそれをするりと躱し、リリを椅子に座らせた。そして、自分は床に膝をつく。リリの腰に腕を回し、ぎゅっと抱き着いた。そうすれば、子供をあやすように優しく頭を撫でるリリの手。
「どうしたの、シン」
「……今日、子供を見た」
促す声に応えるように、ぽつりぽつりと語る。ユーリの店にやってきた少年の事を。
この孤児院にいる子供よりも酷い栄養状態。ガリガリの手足は骨と皮ばかりで、子供特有の頭の大きさが異常に目立った。
シンはこの孤児院で育ったが、それでも、ぼろを身に纏い、栄養失調で倒れかねない骨と皮ばかりの姿になったことはない。それは、この教会の神父が寄付を募り、自身の物を売り払い、自分の食事代でさえ子供たちにと与えてくれたから。だから、知っている。ああやって栄養が足りずに細くなった人間の事を。
自分を守ってくれていた神父と同じように、骨と皮ばかりの少年。もうそれだけでシンは泣きたくなるほど悲しかった。
シンは本当の親の事は顔も存在も何も知らない。戦争孤児とは言え、どちらか片方だけでも生きているのか、そういったことも知らない。知らないし、知る必要はないと思っている。シンにとっての親は神父だから。家族は孤児院で共に育った者達がいるし、親なら神父がいる。それがシンにとっての真実だから、他は何も必要ない。
神父は怒ることもあったが、それはシンや子供たちが悪い事をした時だけで、それでもけして声を荒げることはなかった。静かに、諭すように話しかける神父の声を聞くのが今でもとても好きだ。親である存在から理不尽に怒鳴られ、暴力を振るわれたことがない自身が、どれほど幸せなのか、その事を知ったのは、ハンターになった後だったと記憶している。
シンがゆっくりと、自分の中に生まれた怒りと、悲しみについて語る間、リリはけして口を挟むことなく、ただシンの頭を撫で続けた。まるで姉のように、母親のように。
「とても……悲しかったんだ……。そいつが、ずっと怯えていたのが。それで、そいつの母親が、怒鳴り散らす声に腹が立ったんだ……俺にとっての神父様や、リリみたいな奴が、そいつにはいなかった……」
腰に回った手に力がこもる。
リリの細い腰は簡単に折れてしまいそうで、目一杯の力で抱き込むことはないが、それでも、みしり、と体の中から聞こえてはいけない音がしそうな程力強く抱きしめられた。その力強さに、一瞬息が詰まるが、リリがシンに対して何か言う事はない。ただ変わらずに優しく頭を撫でるだけ。やがてシンが気を持ち直す、その時まで。
シンが語らなくなれば、二人の間には静寂以外ない。
扉近くに立てかけられた燭台に灯るロウソクの火が、ロウの中に固められた芯を燃やす音が微かに聞こえる。その火に照らされる範囲は、そう大した範囲ではない。せいぜい、扉に最も近い長椅子と、その次の長椅子まで。その先からは次第に闇に飲み込まれていく。だが、リリの目にそれは映らない。朝だろうか夜だろうか、常に暗闇にいる彼女に、灯りなど必要はない。それでも灯りをつけるのは、ただただ『普通』である為だ。
リリの目は生まれつきではない。七歳の時シンを庇った際に負った傷が原因で失明した。子供たちがふざけて振り回していた角材。それが壁にぶつかり、折れた。そして運悪く、日向ぼっこをしていた、当時五歳のシンに向かって飛んだのだ。
当時のシンはどちらかというと大人しい子供で、あまり運動神経も反射神経も良い方ではなかった。悲鳴を上げる周りと、跳んでくる角材の破片をぼんやりと見つめるシン。
抱きしめて守ったのはリリ。
運悪く角材の破片は目の近くに刺さった。衝撃と、傷が、リリの両目から光を奪った。
泣き叫ぶ子供の声と、大人たちの怒声。薄れゆく景色で、必死に呼びかけるシンと、いつも穏やかな神父が血相抱え、何か大きな声を上げながら走ってくる姿を見た。
それがリリの最後に見た景色。
目覚めた時にはもう暗闇の世界に居た。それでも僅かとはいえ、光を感じられるだけ僥倖だと思った。完全な暗闇の世界ではないのだから。しかし、それで納得しない者もいる。
シン。
リリの傷は、目は、自分が鈍かったからだ、自分のせいだ、と思い込んだ。以来、孤児院にいる期間はリリの目となり、片時も側を離れず、十四歳で働けるようになるとすぐにハンターとなった。努力が実りさえすれば、それなりに実入りの良いハンターは、孤児院に寄付をしつつ、リリの目を治す手段を見つけるのに都合が良い。
シンが何故ハンターをしているのか、リリに話したことはないけれども、聡いリリが知らないわけがない。何度も自分の目の事は気にするなと告げたけれども、シンが首を縦に振ることはなかった。
「リリ」
不意にかかる戸惑うような声。
まるで小さな子供のように弱気な声に、リリは思わず小さく笑った。自らの手で金を稼ぎ、この孤児院やリリの為にと奮闘する大人になっても、やはり自分にとっては可愛くて愛しい存在なのだと知れて。
「何?」
「その……」
言い淀む。
困惑する気配。そして、膝上に乗っていたシンの頭の重みが消えた。顔を上げたのか、と瞬時に理解する。
「目が、治ったら、俺と……ああ、いや、その……やっぱなんでもねぇ……」
折角紡がれた言葉は、結局再び言い淀み、消えた。
ここ二年ほど繰り返された言葉の先は知っていて、もうずっと望んではいるのだが、結局シンが言わないから、自分も応えることはない。ただ、変なシン、と笑ってごまかすだけ。そもそも、その先の言葉を、目が治ろうが治るまいが、自分が望んでいるのだと、シンは知っているのだろうかと考え、止めた。どうせこの鈍い青年が気づけるとは思わない。他の女性からの好意にはすぐに気づくくせに、何故か自分に対してだけはやたらと奥手で、鈍くなるのが妙な特別感をもたらし、心地よいからそれで良いのだと思う。
そう思えども、やはり僅かばかりの残念感は胸中に燻り、少しばかりの意趣返しは許してほしいと思う。
にこり、と口元に愛らしい笑みを。この顔が苦手なのか、好きなのか、とにかく自分では見ることのできないこの笑みを浮かべると、シンがびくりと跳ねる。膝先に触れる身体から伝わる鼓動が急激に早くなるのだから、悪い意味で反応しているわけではないと知っていて、浮かべた。
「好きよ、シン」
優しく紡げば、こきゅ、と音がした。その音の出どころは正面で、自分ではない。おそらく、シンが喉を鳴らしたのだと理解する。
いつの間にか腰から手が離れ、シンの頭が退いてからずっと膝上に揃えていた自分の手に重ねられていた。その手が、しっとりと濡れているのがおかしくて、笑いそうになるのを何とかこらえる。そして、続けた。
「可愛い可愛い、私のシン」
途端に目の前の気配が落胆に揺らぐ。リリがシンの事を弟として見ているのだ、と突き付けられたような気がして。
しゅんとした気配に、ふふ、と堪えきれずに笑いが零れた。それを誤魔化すように小首を傾げ、更に続ける。
「私、他人の為に一生懸命になれる、そういう貴方がとても立派だと思うし、大好きよ」
「そ、そっか……い、いや、でも、リリには敵わないから……」
掴んだ手が燃えるように熱い。さらに噴き出してきた汗に、ぬるりとしてくるが、不思議と気持ち悪いとは思わない。
ストレートな好意に、真意をはかりかね、そわそわと落ち着かない気配が押し寄せてくる。
「り……」
「さぁ、もう遅いわ。私も戸締りを終わらせ。子供たちの様子を見に行かなくちゃ」
「あ、あぁ……そ、そう、だな……」
言葉に重ねるようにして帰宅を促す。途端に気配がまた落ち込むのに、心中で可愛い、と呟きつつ、握る手を離すように僅かに引いて見せた。リリの行動の意味を、すぐに正しく察したたシンは手を離し、ゆっくりと立ち上がる。そしてリリの手を取り、立ち上がらせた。
「夜分に急に邪魔して悪かったな」
「いいのよ、シン。またいつでも来て」
「ああ。また来る」
照れたような気配。
少しだけ、残念だと思った。成長したシンがどんな顔で、どんな風な表情を浮かべているのか、それを知ることができない事を。けれど何一つ伝えず、ただ微笑みを浮かべて見送ることしかしない。シンを縛り付けるものを、これ以上増やさないためにも。
また、と互いに挨拶交わし、礼拝堂と外を隔てる木の扉が閉められた。
シンもリリも、互いにその場で立ち尽くし、しばらくの間、扉の向こうにいるであろう相手に思いを馳せる。
やがて心の整理を終えると、リリは壁に掛けたロウソクを、燭台ごと手にし、シンは手ぶらで、踵を返し、立ち去った。




