ただいま
◇ ◇ ◇
汽笛が鳴る。
事故を回避するための連絡音だ。
もう幾度も耳にしたことのあるそれを、苑は船の個室で聞いていた。
「着きますよ」
「ああ」
身支度を整え出したブライアンに言われて、ゆっくりと立ち上がる。
船室を出ると、懐かしい潮風の匂いがした。
船を降りると、港は大勢の客と船乗りたちで溢れかえっていた。苑はその中にリーシャを見つけ、背後から歩み寄る。
「リーシャ」
声をかけると、彼女は驚いたように振り返った。翠緑の瞳が揺らめいて、苑を見上げる。そうして、ゆっくりと細められた。
「おかえりなさい」
伸ばしそうになった手を堪え、「迎え、ありがとう」とだけ伝える。リーシャは「いいえ」と顔を左右に振ってくれた。
「時間ぴったりだったのね」
「ん」
大きなトラブルも波も少ない航路だったと伝えると、リーシャは嬉しそうに「よかった」とまた両の目を細めた。それから、苑の隣にいるブライアンに視線を移す。
「ブライアンさんもいらっしゃい。長旅で疲れたでしょう? ご馳走を用意したらから、いっぱい食べて行ってくださいね」
「それはどうも、ありがとうございます」
ブライアンも同行することになったことは、先に手紙で知らせていた。
三人は揃って歩き出しながら、それぞれに近況を伝えあう。
あの騒動のあと──
苑は市警や政府から事情を聞かれ、何一つ隠すことなくその全てを打ち明けた。
された仕打ちも、奴らの手口も、苑自身も犯罪に加担していたことも、全て。
果たして彼らの返答は鷹揚なものだった。
苑の境遇と立場に同情してくれたのかもしれない。あるいはミーリアが口添えでもしていたのか。
その詳細はわかりえないが、結果として、苑はアンディックらのように裁かれることはなかった。今後捜査を進めていく上で協力を仰がれることはあるかもしれないらしいが、苑やブライアンたちは純粋な被害者として判じられた。
しかし、だからといって傷が跡形もなく癒えるわけではない。
アンディックたちがあの後どうなるのか、それはこれから論じられるようになるのだろう。
ただもう二度と、あんな凄惨な事件は起きてほしくないとそう願うばかりだった。
そしてもう一つ。
苑の足取りが重い理由は残されていた。
海風が吹く。会話に花を咲かせているリーシャとブライアンの少し後ろを歩きながら、苑は、懐かしい市場を眺めていた。
算術を覚えた魚屋。
おまけをもらった甘味屋。
リーシャに買おうかと悩んだ花屋。
そしてみんなと通った学校への道。
──エン! 早く行こうぜ!
「!」
不意に聞こえた声に辺りを見回す。少し先を、あの頃の自分たちと同じ年頃の少年が二人、駆けていくところだった。
苑は強張っていた肩から力を抜く。
その姿が角へ曲がり、見えなくなるまで目で追った。
──ずっとここへ戻ることが怖かった。
ヨルンドルテを離れる間際、目に焼きつけた親友の骸。死者を悼まなければ。そして、全て終わったと報告するのだ。彼は今、海岸そばの墓地で眠っているのだろう。
行こう。
決心し、苑はリーシャに声をかけようとした。その時。
「そうだわ、エン。帰ったら、すごーくびっくりするわよ」
「……?」
「ふふ。本当は今言いたいけど、ここまできたんだもの、我慢するわ」
にこにこと──いや、リーシャにしてはやけに緩み過ぎている笑顔に、苑は訝しむ。
「……いや、実は俺……寄るところがあって」
「? 寄るところ? どこ?」
「……墓地」
と、リーシャが立ち止まり、目を瞬かせる。
「墓地? そんなところに行ってどうするの?」
不思議そうに見上げられて、苑も一緒になって困惑する。墓地と言えば、彼女も自ずとわかってくれると思っていたのに。
惑う苑に、リーシャは首を傾げ続ける。
「誰か、知り合いの方がいるの?」
「いや、知り合いというか」
ジャックの──。
そう口にすると、リーシャの大きな瞳はより一層大きく見開かれたのだった。
くらくらしていた。
どうやってここまで辿り着いたのかも覚えていない。
ただ、彼女が嘘をつくわけがないことだけは知っていたから、だから、早く会いたくなった──。
辿り着いた家の、見知った古い扉を開ける。そこには。
「お! おかえりエン!!! 待ってたぞ!」
「おかえり、お兄ちゃん!」
「…………」
記憶のそれより壁の色が綺麗になって、増築もされていた孤児院の食堂で──ここは昔と変わっていなかった──苑は呆然と彼を見つめた。
火に近い赤茶の髪。そばかすの散らされた鼻頭。くしゃくしゃの笑顔と、知っているそれより野太くなった声。
「おまえ生きてたんだなー! 正直、もう諦めかけてたぜ」
椅子から立ち上がった彼に近寄られ、ばんばんと肩を叩かれる。
「俺市警になったんだよ、あ、でさ。リー姉ちゃんに聞いたかもだけど、ロタと結婚してさ、今度子供も生まれるんだー。てかおまえ、やっぱ男前になったな。子供の頃からそうだったもんな、いいなあ。変わらずモテてるんだろ?」
ぺらぺらと話し続けるところも変わらない。けれど。
「ほんと……無事でよかった」
苑を目にしたジャックは笑いながら、突然涙を溢れさせる。そうして強く強く抱きしめられた。
「おかえり」
ちいさな声がして、苑は身を委ねる。どくどくと、心臓の音がする。生きている。彼は、生きていたのだ。
目尻が熱くなる。
伝えたいことがたくさんあるのに、喉に何かが詰まったように、何一つ言葉が出てこない。
すぐそばで顔を覆っているのはアウローラなのだろう。
彼女もずいぶん大きくなった。
揺れる視界で、苑は家族たちを順に見やった。
ジャック、ロマ、リト、ソフィア、エドガー、カレン、……アウローラ
思い出すように声に出せば、ジャックが一層強く抱きしめてきた。
「めちゃくちゃ心配してたんだぞ、ごめんな、探し出してやれなくて」
苑はゆっくりとかぶりを振る。
充分だった。
生きていてくれただけで。ここにもう一度迎えいれてくれただけで。
苑はゆっくりと身体を離す。
見れば、リーシャとブライアンも涙していた。
食卓には所狭しと料理が並べられている。葉野菜とアサリのスープ、ほかほかの白パン、橙色の果物。鶏肉のソテー。花や動物型のクッキー。
「量、多すぎないか」
目元を押さえて言えば、リーシャはそんなことない、と自信満々そうに微笑む。
「人数増えちゃったから、少ないくらいかも」
「……ふ、はは」
笑った苑に、リーシャが息を呑む。
多分きっと、初めて見せた顔だったから。
「ただいま……ありがとう」




