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閉幕

◆ ◆ ◆


「ふざけるな、リーシャは物じゃない」


考えるまでもなかった。

言い切った苑は、自身の背にリーシャを庇う。くだらない提案に、怒りを抑えることができなかった。


──リーシャが贄だったとか、公爵家の生まれだったとか、そんなことはどうだってよかった。どんな生い立ちがあろうと彼女は彼女だ。

ただ、彼女を巻き込み道具のように扱おうとしたことが許せなかった。

知らず短剣を握りしめる手に力がこもってゆく。


リーシャは普通の女性だ。

平凡な街で育ち、明るく優しい世界で、正しく生きてきた。

こんな血生臭く暗く欲望に塗れた場所にいていい人間ではない。いてほしくない。

はやく帰さなければ。

自分のものにするなど、とんでもない話だった。


苑はアンディックを見据えたまま、ブライアンたちの動向を確認する。

使用人に扮している者と、入り口付近に待機している者、アンディックの背後に近づいている者たちを視認できた。殺せる。

確信した苑は、けれど背後にいるリーシャに凄惨な場を見せたくはないと躊躇った。

千載一遇の好機。長い間待ち焦がれていた瞬間だというのに。


「──じゃあ、どうする?」


リーシャか、復讐か。

まるで苑がそう躊躇するのをわかっていたかのように、アンディックが微笑みかけてくる。


「おまえがお姉さんをいらないと言うのなら、仕方ない。当初の予定通りにしよう──儀式の邪魔だから、おまえはそこを降りなさい」


その言葉を皮切りに、アンディックの部下らが一斉に仕掛けてくる。

苑はリーシャを狙い向かってきた男の腕に構えていた短剣を振り抜いた。血飛沫が仮面を濡らし、つんざくような悲鳴がこだまする。


「……っ」


リーシャがすぐ後ろで息を呑むのがわかった。


俄に乱闘が始まる。会場のそこかしこで苑の仲間とアンディックの部下らが対峙し、客人たちは喚きながら扉へと走り出した。


「俺から離れるな」

「ええ……っ」


それでも、リーシャは気丈に振る舞っていた。苑に寄り添ったまま身を屈め、戦いの邪魔にならないように動いている。


「リーシャさん……! こちらへ!」

「!! ブライアンさん……っ!?」

「早く!」


騒ぎの合間を縫って近寄ってきたブライアンが、リーシャの縄を手早く切る。苑はちらとそれを見やった。


「助かる」

「いえ。でも、まずいことになりましたね」

「ああ」


何人目かの腕や足、腹を斬りつけながら、苑はブライアンとともに戦闘に交わる。

地上へと続く階段付近は、我先にと詰め寄る信者たちで溢れかえっていた。


苑は新たに向かってきた男を蹴り倒したのち、低く呟く。


「ブライアン」

「……わかりました。──リーシャさん、こちらへ」

「え?」


さすがは長い間苦楽をともにしただけはある。

苑の意向を読み取ったブライアンはリーシャの手を取ると舞台の端に寄った。

そこなら、見えにくいはずだった。


「エン……!?」


叫喚に混じって、リーシャの優しい声が聞こえていた。大切な、だけれど今だけは聞きたくなかった声。


「エン、待って!」


短剣を握りしめたまま、苑は舞台を降りた。

突然の裏切り行為に、人々は錯乱はしている。

アンディックは席に座したまま、その両手足を苑の仲間に拘束されていた。

仮面を外された素顔のそばには、熱した鉄の棒が寄せられている。

矜持か。それとも生来気が狂っているせいなのか。アンディックは自身の危機にも焦る様子は見せなかった。

歩み寄ってきた苑を見上げ、いつものように微笑する。

「星形じゃなくていいのかい?」

「ああ──でも、叫ぶなよ」

親友の最期を思い浮かべる。

苑は仲間から鉄の棒を受け取ると、アンディックの頬に押し当てた。肉の焼ける音がして、女の体がびくりと震えた。それでも、押さえつけられているため逃げ出すことは叶わない。

ひどい匂いと女の呻き声とともに、じわりじわりと、心も黒く染まっていくのを感じた。これ以上ないほど沈んでいく。深く深く、底へ底へと。

と──


「待ってったら……!!」


──次の瞬間。苑は鉄の棒を持った片腕をリーシャに掴まれていた。音が途切れる。


慌てたブライアンが駆け寄ってくるのが、視界の端に見えていた。


「エン!」


鉄の棒を取り上げられた苑は、涙を堪えたリーシャに睨まれていた。


怒られて、いる。


「こんなことをしてはだめ」

それはまるで、小さな子供を叱りつけるような言い方だった。

そのくせ彼女はぼろぼろと涙を流し、まるで説得力がない。

振り払おうと思えば、いつだって振り払えるほどの腕力の、女。

「あなたが許せないのはわかる、私も許せない。でも、でもね、こんなことをしてはだめ。もうすぐミーリアさんたちがきてくれるはずだから、それまで待って。もう少しだけ、お願い。諦めないで」

棒を放り捨てたリーシャが、苑の手を両手で握りしめてきた。

翠緑の瞳に見つめられ、苑はわずかにも動けなくなる。

この人はいつも、そんなふうに綺麗事ばかりを言うのだ。

(俺は何も諦めてなんか、いない)

したいようにしていただけだ。

そう言おうとして、気づく。

自分はもうずいぶんと昔に、未来や希望や、幸福といったものを、何もかも諦めていたのだと。

ーー自由を奪われ、尊厳を踏み躙られ、そうせざるを得ない状況だった。仕方がなかった。

だから苑は歪んでいった。

けれど。

それでも、リーシャに、ジャックたちと暮らして、苑は温かい世界を知ってしまった。

そして彼女はまた、苑を導こうとしてくれる。日の差す方へと。

視界が揺れる。

自分のような人間が、そちらへ行ってもいいのだろうか。

ふと、女の喉をかき切るために持っていた短剣が、手から滑り落ちていく。

かつんと床を跳ねる鈍い音がした。

……許されるなら。

小さく小さく謝る苑を、リーシャがぎゅっと抱きしめてくる。懐かしくて、柔らかくて、優しい匂いがして。苑は瞳から溢れるものを、止めることができなくなった。


もうきっと、手放せない。




「そこまでだ!! 全員動くな!」

それからすぐのこと。階段へ続く入口から、武装した市警たちが現れた。

「動いた者から殺す!!」

そう脅しをかけながら、市警たちは統率の取れた動きで、瞬く間に場を制圧していく。

参列者は身の潔白を訴えるも、無論耳を貸す者などあるわけもなく、次々と地上へ連行されていった。


苑はその中にミーリアとルイの姿を見つけ、経緯を悟った。


「リーシャ! 無事でよかった!」

「ルイ……! ミーリアさんも」

「驚きましたわ。予定時刻より早く騒ぎが起こったんですもの」


駆けつけた二人との再会を喜ぶリーシャに、苑もほっと胸を撫で下ろす。


「……怖い思いをさせて、悪かった。怪我はないから」

「でもこんなに泣いていますわ。可哀想に」

「…………リーシャ、これ着て。外は冷えるから」

「え? ええ、ありがとう」


苑はやはり性格が合わないのだろうとミーリアを無視すると、自身の上衣をリーシャに着せた。


そこへ、市警の一人が駆けてくる。ミーリアの知り合いらしく、彼女と話しながらもチラチラと苑を見やってきた。


「ええと、彼は」

「今回の助っ人ですわ。裁判では証人にもなるでしょう」

「はあ、なるほど」


承知しました、と市警は頷き、別の場所へと走り去っていく。

苑もブライアンら同胞の無事を確認したあと、すぐにリーシャのそばに戻った。


「……宿まで送っていいか?」

「え、ええ! ありがとう」


今夜は色々なことが同時に起こりすぎて、今もまだ気持ちは落ち着かなかった。でも、リーシャと離れたくはなくて、そっとその白い手を握りしめる。


──いつの間にか気を失っていたアンディックは、病院に運びこまれていった。ミーリアたちの話では、これから司法に裁かれるのだという。


「さあ、こっちだ」

「もう大丈夫だからね」


別室で繋がれていた子供たちも解放されていく。

皆目は虚で生気がなく、歩みも鈍かった。

極限まで食事を抜かれていたからだと市警に伝えると、隣でリーシャが唇を噛み締めるのがわかった。


苑は、部屋の最奥──祭壇へと目を向ける。


彼らが崇拝していた神とやらは、一体何だったのだろう。


そこに祀られているのは、古ぼけた女の像で。

苑にはただの石の塊にしか見えなかった。




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