呼ぶ声
◇ ◇ ◇
「エン――……」
そう声をかけようとして、やめた。どう見ても彼は仕事の最中だったからだ。
でも、偶然だったとしても、またエンに会えたことは嬉しくて、つい頬を緩めてしまう。
『がんばって』
そんな想いを込めて、瞳を細める。
すると彼もほんの少し、その鋭い眼差しを緩めてくれた――ような気がした。
「……よかったんですの?」
「はい。取り込み中、みたいでしたし」
レストランからの帰り道。ミーリアの気遣うような視線を受け、リーシャはそっと頷いた。
再会したあのときと似通った礼服――裾の長い雪色の着物を纏い、髪を丁寧に結ったエンは、いつにも増して綺麗に見えた。
もともと、幼い頃から顔の整った子だとは思っていたけれど。今夜はどうしてか、その美しさが際立って見えて――リーシャはふと、あの女性がそばにいたからだろうかと考えた。
艶やかな黒髪を持つ、とても美しい異国の女性。
(今夜のエンの髪も、あの女性が結ったのかしら……)
その光景を思い浮かべ、リーシャは小さく俯いた。
――エンと彼女が、どれほどの年月を過ごしてきたのか。どんな時間を過ごしてきたのか。リーシャは知らない。
けれど少なくとも、たった数ヶ月、一年にも満たない月日を共にしただけのリーシャよりは、親しい間柄に違いなかった。
九年前、人攫いに遭った後。エンは、リーシャには想像も及ばない苦難にあったのだろう。そして今の地位を手にいれた――。
そう思えば、日々頑張るエンを、応援しないわけにはいかなかった。
寂しいなどと、言うべきではない。
(また会えるわよね、きっと……)
自身に言い聞かせるように思い、ホテルへの歩を進める。
と――その道が不意に陰った。月が雲に覆われたのだ。
「リーシャ」
すると突然、隣を歩いていたミーリアが立ち止まり、固い声を上げた。それがいつもの〝お姫さま〟呼びではないことに気づき、リーシャと、後方についていたルイも揃って足を止める。
「ミーリアさん……?」
「ミーリア?」
どうかしたのだろうか。
訝しむリーシャとルイに、ミーリアが意を決したように口を開く。
「大切なお話があります。落ち着いて聞いてください」
なに、と口を挟む間も与えては貰えなかった。ミーリアは、いつにない深刻な表情でリーシャたちを見つめる。
「エンはおそらく、黒星の組織と関わりを持っています。あの女性もです――」
◆ ◆ ◆
リーシャは宿に戻っただろうか。もう、休んでいる頃だろうか――。
今宵幾度となく眺めた時計に、もう一度目を向ける。針はまもなく、真夜中を示そうとしていた。
「それでは、資金はわたくしめの方で」
「ええ。贄はこちらにお任せください、いいね? 苑」
「…………ああ」
狭いレストランの個室で。飽くことなく密談を交わすアンディックとその相手に、辟易しつつ返事をする。でなければ、解放しては貰えないからだ。
――いやな仕事が回ってきた
腹が重い。泥を飲まされたような気分だった。数日後に行われる儀式のため、苑は、贄を管理せねばならなくなった。
『やめて、やめて』
『たすけておねがい』
『ここからだして……!』
思い出すだけで息の苦しくなるような、子供らの怯えた顔。悲鳴、懇願。肉の焼ける匂い――音。
苑は拳を握り、燻る憎しみを懸命に堪える。
あと少し。あと少しで、悲願は達成する。
『エン!』
あのうるさくて仕方なかった、お調子者の友の仇も打つことができるのだ。
ブライアンたちとの段取りも、順調に進んでいる。この機を逃す手はない。
決行は儀式のその日。
隣で上機嫌に酒を煽る女の喉を掻っ切ってみせる。
(……だから)
だから一刻も早く、苑はリーシャに、この地を離れてほしかった。万が一にも巻き込まないために。
――先刻は驚いた。
「リーシャ――……」
そう呼びかけそうになって、すんでのところで留まれた。アンディックに強要された晩餐の場に、まさか彼女が現れるなんて思いもしなかった。
でも――会えて嬉しかった。
彼女のほうも驚いた様子で、自分を見たとたん大きな両目を見開き、戸惑い――それから、柔く微笑んでくれた。いつものように。
ささくれた心が、ほぐれていくようだった。彼女が好きだった。
もしかしたらあの数分は、神が悪戯に与えてくれた最期の褒美だったのかもしれない。
そこまで考え、落胆する。
(神? 褒美? ……褒められるようなことはなにもしていないのに)
贄の数と、捧げる場と、参加者と。
進む話を止めることもできず、苑はただリーシャを想う。
ごめん。
彼女の好む人間には、なれそうもなかった。




