変わったもの
◆ ◆ ◆
足早に通りを歩く。
肩がぶつかり、怒鳴られても、睨まれても、振り返りもしなかった。
とても平静ではいられなくて、黙々と宿を目指す。
歓喜と苦渋が溢れていた。
(……どうして)
今しがた会ったばかりのリーシャの声が、耳をついて離れない。
あの人は、何も変わっていなかった。
柔らかな声。温かな瞳。優しい笑顔。
彼女の全てが苑の中に入り込み、同時に凄惨な情景が蘇る。
〝また会いたい〟
期待に満ちた目で言われて、断ることなど出来るわけもなかった。今は後悔している。彼女の安全の為には、自分はあそこで、首を横に振らなければならかったのに。彼女のしゅんとした顔を、見たくなかった。
「ああ、お帰りなさい。苑様」
戻った巣には、ブライアンのほか、数名の【仲間】が集っていた。誰も彼も苑と似たような経歴を持つ、アンディックに報復を誓った元贄共だった。
苑は彼らからの仕事の報告を受けながら、縛っていた髪を解く。
適当に相槌を打ちつつ、リーシャ、ルイ、ミーリアとの会話を思い返す。
……彼らは、変わらずの態度で苑に接してくれた。
無理に仔細を探ろうとはせず、苑の身を案じ、【無事ならいい】とさざ波のように引いて、けれど心底想ってくれていたことだけは伝わる眼差しで、苑の話に耳を傾けてくれた。
善き人々。
どうして自分はあのままずっと、彼らと過ごすことが出来なかったのだろう。
ふと、血と汚物に塗れた己の手を見やる。
髪を縛っていた組み紐は金。
無意識に選んだ色だった、けれど。自分はきっと、ずっと。
「苑様、アンディックから書簡が届いています」
言いながら、仲間のひとりが苑のそばに立った。
差し出された白い封筒を受け取り、開けば、また新しい【命令】が書き連ねられていた。
近々、また、【儀式】が執り行われるらしい。
頃合いだろうと思っていた苑は、手紙を持ったまま卓についた。アンディックに返事を送らねばならなかった。
それから、数日後。
なんとか仕事に空きを作った苑は、約束通り、リーシャを街へと連れ出した。ミーリアとルイはそれぞれ研究と勉強に出かけているそうだった。
彼らのことだから、余計な気を回したのかもしれない。
女性を連れ歩くのは初めてだった。
どこかこそばゆい気持ちで明るい陽の差す大通りを歩み、午後のゆったりとした空気を堪能する。
リーシャははしゃいでた。
そも、旅行そのものが始めてらしく、ヨルンドルテとの街並みの違いや、売られている様々な物に、爛々と瞳を輝かせていた。
まるで子供みたいだった。
苑は吹き出しそうになりながら、目的の店へと向かう。
「お待ちしておりました」
恭しく頭を下げた給仕の後を追い、石の階段を上り、屋上にでる。そうして通されたのは、街が一望できる眺めの良いテラス席だった。
前情報通り、ほかの客席とも距離が空いていて、話しやすい作りになっている。
ブライアンに勧められ予約した店だったが、気に入った。
何よりリーシャが喜んでくれているのが嬉しい。
「素敵なお店ね、連れてきてくれてありがとう」
「……ん」
苑は名物とされる適当な料理を注文し、リーシャを見やった。リーシャは「楽しみ」と隠しきれないというように、にこにこと笑っていた。
感情に素直な彼女を、ああやはり好きだなと思いつつ、薄切りのレモンが浮かべられた水に手をつける。
この後のことを思うと、心はゆっくりと沈んでいくようだった。
まだ、迷っていた。
ジャックのことを話すべきか、否か。
(俺が……巻き込んだと知ったら、この人は)
そう思い悩むうちに、前菜とスープが運ばれてくる。
「美味しそう」
リーシャはヨルンドルテでは見かけない食材に興味を示し、辿々しい言葉で給仕に質問を投げかけていた。フィアリアとヨルンドルテの言葉は似てはいるが、全く同じというわけではない。
苑は手助けをしつつ、リーシャと給仕の会話を見守る。
一通り質問を終えるとリーシャは最後に【ありがとう】と、やはり拙い言葉で感謝を伝えていた。
その変わらない姿に安堵し、同時に苑は、気づいてしまう。
今更話したところで、なんの意味もないことに。
(……全てを打ち明けたら、きっとこの人は、泣いてしまう)
苑のせいじゃないと、優しく、責めもせず、苑の痛みに寄り添ってくれるのに違いなかった。
背を焼かれた苑の境遇を思い、哀れんでくれた夜のように。
運ばれてきた魚料理に、ナイフを入れる。どろりと脂が溢れでた。
今日この場で苑は、ジャックの死について、謝罪するつもりだった。彼を助けられなかったことを。彼の死に関与していたことを。
でも、気づいてしまった。
その謝罪にはなんの意味もないことに。
苑はアンディックへの復讐を誓った。そしてその実行の日は確実に近づいている。今更、謝罪も、後悔もなんの意味もなさない。アンディックを惨たらしく葬ること。それだけがジャックへの最高の弔いになるに違いなかった。だから今敢えて話して、彼女の顔を曇らせる必要は、ない。
どうして話そうなんて思ったんだろう。
リーシャと会えたことで、つい、甘えてしまいたくなったのかもしれない。
この人はいつだって優しく、全てを受け入れてくれるから。
苑は自嘲し、酒と塩で味付けされた魚の切り身を口に入れた。なんの味もしなかった。
「美味しかったわね」
「うん」
結局、当たり障りのない会話だけで食事は終わってしまった。
また通りを歩きつつ、苑はもう訪れはしないだろうひと時に身を委ねる。
リーシャは一週間と少し後に此処を立つし、苑もいつまでも同じ場所にはいられない。
また奇跡が起きるのなら、会うこともあるかもしれないけれど。苑は彼女とこれ以上、情を深めるつもりはなかった。
「……何か見たいものはある? わかる店なら、案内するけど」
苑が尋ねると、リーシャは嬉しげに目を細めた。
「そうね、雑貨屋さんが見たいわ。皆にお土産を買いたいの」
「ああ、それなら」
正直、あまり詳しいわけではなかった。
仕事以外では外出する気にはなれず、宿にこもってばかりだったから。
それでも、記憶を頼りに、年頃の女たちが群がっていた店を思い出し、向かう。
無事、その店は当たりだったようで、陳列された装飾品を前に、リーシャは目を輝かせていた。
「これはどうかしら」と苑に尋ねながら、様々な品を手に取り吟味する。
その左手の薬指に、輝く物はない。
「いいと思うよ」
「もう、そればっかり」
直接聞いたわけではないが、会話の端々から、彼女が結婚していないことはわかっていた。
孤児院の正式な職員になったと言っていたし、忙しいのかもしれない。
どちらにしろ、リーシャが幸せなら、苑はそれだけでよかった。
「ほかは? どこに行きたい?」
「ええと、そうね」
リーシャが買った荷物を奪い、空いた手で彼女の手を引く。
と、不意にリーシャが笑った。
「なに? どうかした?」
「いえ、なんでも。ただ……昔を思い出してしまって」
「ああ……」
迷子にならないようにと、ヨルンドルテの賑やかな市場を、幼い苑とリーシャは、よくこうして手を繋いで歩いていた。
「ほんとうに、大きくなったわね」
そう笑ったリーシャに、苑は唇を引き結んだ。
無理もないことだが、子供扱いされている。
それは少し、不服だった。
「エスコートも上手で、安心したわ」
「……安心?」
「エンは、とっても素敵な旦那様になりそうだなって」
「だんな……?」
思いがけない言葉に、知らず歩みが遅くなる。
「ええ、案内も注文もスムーズで素敵だった。料理も詳しかったし、さっきの可愛いお店だって」
リーシャが、興味津々といったようにこちらを見上げてくる。
「お昼のお店も、よく行くの? やっぱり恋人とか──」
「いない」
自分でも驚いてしまうほど、低い声がでていた。
「そんなものいない」
睨むようにリーシャを見つめる。リーシャは、少し怯えたように目を瞬かせた。
「あ、……ご、ごめんなさい。あんまり慣れてるみたいだったから私、てっきり」
「慣れてないし、どちらの店も今日、初めて行った」
「………………そうなの? えと、だったら……ごめんなさい……?」
「…………」
「…………」
気まずい沈黙に、リーシャが居た堪れ無さそうに俯く。
そうして、思いついたという風にはっと口を開いた。
「そ、そう言えば、話したいことがあるって言ってなかった?」
「……ああ」
もういい、とは言えず、苑は傾き始めた陽を見やる。
「今日はもう遅いから、また」
「……私は時間、大丈夫だけど」
「ごめん。これから仕事がある」
嘘と真実を並べて、苑はリーシャをホテルの部屋まで送った。彼女がほんの少し寂しそうに見えたのは、自分の願望だろう。
「じゃあ、戸締り気をつけて」
開けた扉の内と外で、リーシャと向かい合う。
「……ええ。今日はほんとうにありがとう。ご馳走までしてくれて」
「いいよ別に。もう『自分で稼げてる』から」
「…………エン」
リーシャは彼の手を取り、微笑んだ。
「またね」
きゅっと胸を締め付けられる。
「時間ができたら、ヨルンドルテにも遊びに来て。皆もとっても喜ぶと思うから。特にアウローラが」
「……ん」
行くよ、とはもう約束出来なくて。
苑はただ、リーシャの手を握り返した。




