希望
◇ ◇ ◇
それは。
知ってはいるが、意識したことはない国だった。
「────フィアリア……?」
「ええ。少し遠いですけれど、旅路の安全はわたくしが保証します。ですから──」
悪戯っ子のように言ったミーリアが、にこりと微笑う。
「ご一緒いたしません?」
ある休日の昼下がり。
『話がある』と端的な手紙で呼び出されたリーシャとガブリエルは、彼女の邸宅で、テーブルを挟み家主と向かいあっていた。
通された客間の調度品は、今腰掛けている長椅子も含めどれもこれも高級品なのだろうと見てとれて。だからリーシャは緊張に身をこわばらせてしまっていた。
「そう畏まらないでくださいな」
くすりと微笑んだミーリアは、早々に本題を切り出す。
「実はわたくし、先日旅先から戻ったばかりなんですけれど。そこで気になる噂──というか情報を耳にしまして。おふたりに伝えようかと」
「……噂? どんな?」
続きを促したガブリエルに、ミーリアは声を潜めた。
「……なんでも、黒い星型の痣を持つ子供、を秘密裏に集めている方々がいらっしゃるんだとか」
「!」
「尊い身分の方の中には、まあ、そうした──良くない趣味をお持ちの方もいらっしゃる、とは存じ上げていますけれど。わたくし、とても気にかかりまして。……だってほら」
真顔になったミーリアは、さらに声を潜めた。
「あの子にもあったんでしょう? 銀髪の生意気な、エンとかいう──覚えてます?」
「! もちろんです!」
音にすら出さなくなって久しい少年の名に、リーシャは思わず身を乗り出していた。
隣でガブリエルが顔をしかめるのがわかったけれど、リーシャは止まらない。
「あ、あの、もう少し詳しく教えてくださいませんか」
──ガブリエルは『もう諦めろ』と、悲しいことばかり言ってくるのだ。
「落ち着いてくださいなお姫様。あの子と関係があるかはわかりませんけれど、そのご様子だと、やはりまだ、探していらっしゃるんですのね」
ミーリアは優雅な仕草で紅茶を一口飲むと、淡く、ほんの少し気の毒そうに、微笑んだ。
九年前。
エンが失踪した折。
リーシャは、ミーリアにも捜索を依頼していた。
その際、なるべく情報は多い方がいいだろうと、黒い痣のことも、自身の胸に刻まれたそれを見せて、伝えていた。
ミーリアは『出来ることがあれば協力する』と約束してくれた。
無論、相応の報酬はいただく、などと嘯いていたけれど──。
街で誰よりも語学に長け、知見の深い彼女のその一言は、とても心強かった。
けれど、そんなミーリアを以ってしてもエンの行方を掴むことは出来なくて。
ここ数年は、落胆を見せるのが申し訳なくて、尋ねることすら控えるようになっていた。
(でも……)
期待に鼓動を高鳴らせたリーシャに、ミーリアが、話を続ける。
「どうやらその痣を持つ子供たちは、ある場所に集められているようなんです。そこで【儀式】に使われるんだとか」
「儀式……? 使われるっ、て……」
不穏な表現に、リーシャは不安に眉を寄せた。
思い出してしまうのは、エンの身体に刻まれていた、ひどい暴力の数々だ。
「ええ」
リーシャの反応を受けても、ミーリアは平然としていた。異国の文化をよく知る彼女にとっては、そう珍しい話ではないのかもしれなかった。それも、恐ろしい話だけれど。
「世界には、多種多様の神や信仰が存在します。その中には、羊や犬や牛……動物を【贄】として捧げるものが多くありますわ。──そしてその【贄】の目印として、焼印を押すこともあるのだとか。神が見つけやすいようにと」
「……それって」
リーシャが息を呑むのと、ガブリエルが立ち上がるのは同時だった。
いつになく真剣な声が、頭上から降ってくる。
「ミーリアさん。調べてくれたところ悪いが、俺はオカルトは信じちゃいねえ。帰らせてもらう。行くぞ、リーシャ」
リーシャの腕を掴み立ち上がらせようとしたガブリエルを、ミーリアは嘲るように見つめた。
「お姫様は知りたがっているのに?」
「気味の悪い話を聞かせたくない。あとその、お姫様ってのはやめてくれ」
「過保護なお父上を持つと苦労しますわね」
静かに笑んだミーリアは、リーシャに視線を移した。
「で、どうしますか? リーシャ」
「聞かせてください」
即答する。
考えるまでもなかった。
リーシャはガブリエルを見つめて、言う。
「ごめんなさい。聞きたくないならガブリエルは先に帰ってて。私は残るわ」
「リーシャ」
「……私だって見つかるなんて思ってない。でも、知りたいの」
だって私が。
言いかけた言葉を、リーシャはぐっと飲み込んだ。
それはただ、罪悪感を薄れさせたいだけの、身勝手な行為なのかもしれなかった。
それでも。リーシャはエンを諦めることができなかった。
今もどこかで苦しんでいるなら、助けたい。会いたい。そうして、謝りたい。
あの日あの夜、あんなにも雨の吹き荒ぶなか。
あの子をひとりきりで送り出したのは、自分なのだから。
(ごめんなさい)
あの凛とした眼差しが。
可愛い声が。
時々見せてくれた、優しさが。
忘れられない。消えない。
時折、不意に思い出され、リーシャは後悔に押しつぶされそうになった。
だから。
「…………贄だとか儀式だとか、全然、わからないけど。星型の痣がある子なんて、そういないでしょう? だから私は聞きたい」
たとえエンに会えなくても。少しでも希みがあるのなら。
「…………」
「お願い、ガブリエル」
懇願するリーシャに、ガブリエルはくしゃくしゃに顔を歪めた。
「くそ、なんでこんな……」
片手で荒く髪を掻き、小さく悪態を吐く。
そうして葛藤の末、深い深いため息をこぼした。
「………わか、………………った。…………話を聞くだけだぞ」
「! ええ! ありがとう!」
それでも、本心ではまだ反対だったのだろう。
不機嫌な様子のまま、ガブリエルは再びリーシャの隣に腰を下ろした。
「で? 続きは?」
「……まぁ、ここからが本当の本題なのですけれど」
ミーリアは呟くように言って、並ぶふたりを順に見つめた。
「今までのお話で、もう検討はついていらっしゃるでしょうけど。おそらく確実に、星型の痣を持つ子供たちは【贄】にされています」
ミーリアは言いながら、テーブルにあらかじめ置いていた地図を指差した。
「そして【贄】が集められていると推察されるのが、ここ」
リーシャとガブリエルが、揃って指された小さな国を覗き込む。
それは。
知ってはいるが、意識したことはない国だった。
「──フィアリア……?」
言ったリーシャに「ええ」とミーリアは頷いた。
「少し遠いですけれど、旅路の安全はわたくしが保証します。ですから──」
瞬間。
ミーリアが、にこりと微笑った。
「あなたもご一緒いたしません? お姫様」
「え?」
「実はわたくし、この国で開催されるパーティーに招かれているんですの。それで、良かったらお姫様もどうかと思いまして」
「…………えっ……と」
突然の誘いに戸惑うリーシャに、ミーリアが安心させるように微笑みかける。
「もちろん危ないことは致しませんわ。命あってこそ、ですもの。護衛も雇います」
「っ、おい。待ってくれ。だとしても危険すぎるだろ」
「フィアリアは比較的まともな国です。国土は広くありませんけれど、今は戦もありませんし。言葉も、多少の違いはありますけれど、通じます。……あの子のことを調べるなら、今しかないかもしれません」
「…………」
リーシャは、膝上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
エンの行方を知ることができるかもしれない。
それは九年間探し続けて、初めて得ることのできた手がかりだった。
「お姫様を侍女代わりにするのは気が引けますけれど、一度くらい、パーティーに出てみるのもいいのではなくて? 伝手を増やすことができれば、そこからまた、情報を掴むことができるかもしれませんし」
「俺は反対だ。そんな物騒な連中、関わるべきじゃない」
「ええ。ガブリエルのおっしゃることももっともです。ですから、無理にとは申しません。わたくしだけで調査して、結果を報告することもできますわ」
どちらにしても、相応の調査料はいただきますけれど、と、ミーリアは付け加えた。
「さぁ、どうします? リーシャ」
試すように言われて、リーシャは心を決めた。
迷う必要など、あるはずもなかった。
その数週間後。
リーシャはミーリアの侍女として、フィアリアの煌びやかなパーティー会場に足を踏み入れていた。
ガブリエルは出立の最後まで渋っていたけれど、ルイも同行させることを条件に、ようやく折れてくれたのだった。
「そう緊張なさらないで。大丈夫、素敵ですわ」
ミーリアから耳元で囁かれ、リーシャは小さく頷き返す。
「はい……」
侍女とはいっても、正装は必須らしく。
リーシャは今、ミーリアの用意した純白に金の刺繍が施されたドレスに身を包んでいた。
耳や首を飾る装身具も、ミーリアが自身の所有物を貸してくれたので、浮いてはいない、と思う。
でも。
絶え間ないさざめきや、着飾った人々の上流階級独特の雰囲気。
吊るされたシャンデリアの絢爛さに、リーシャは圧倒されかけていた。
客人はフィアリアの貴族や名士のほか、ミーリアと同じ異国から招かれた商人も数多く。
リーシャはルイとともに、ミーリアが知人や仕事仲間らしい人々を会話するのを、そばでそっと聞いていた。
(本当に、言葉は似てるのね)
地続きの小国フィアリアは、その昔はヨルンドルテを擁する国と同じ国家だったらしく。
ミーリアが言っていた通り、リーシャが言葉に不自由することはなかった。
「ミーリアさん、話長いな」
「そうね。知り合いが多いのね」
きちんと正装したルイの呟きに答えつつ。
(手がかりを探さなくちゃ)
リーシャは気後れしている場合ではないと意気込み、会場を見回した。
それは立食式のパーティーで、食べ物は自由に取っていいらしく、みな、思い思いに楽しんでいた。
でも、この中に子供たちを集めて【贄】にしている人間がいるかもしれないのだ。
リーシャは身震いを覚えつつ、気を引き締める。
と。酒を嗜んでいたルイが、身を屈めてリーシャに囁いた。
「なぁあいつ、ブライアン・ベリアらしいぞ」
「え?」
ルイが目線で差し示したのは、栗色の髪をした爽やかな感じのする青年だった。グラスを片手に、数名の客と談笑している。
「さっき聞いたから間違いない。ベリアーニ商会のボスだって」
「え? あのひとが?」
ベリアーニ商会。
ここ一年、孤児院に多額の寄付をしてくれていた、あの商会だ。
「ずいぶん若いひとだったのね」
もしかしたら、リーシャより年下かもしれなかった。
「お礼を言いたいと思ってたの、私、ちょっと行ってくるわ」
「あ、俺も行くって」
歩き出したリーシャをルイが追う。
「あの、こんばんは」
会話が終わるのを待って、僅かに緊張しつつ話しかけたリーシャを、栗色の髪の青年──ブライアンが振り向いた。
遠目から見て思った通り、優しそうな雰囲気のする青年だった。
リーシャは微笑み、名乗りを上げる。
「突然すみません、私、リーシャ・チェザーレと申します。ヨルンドルテで孤児院の職員をしているのですが」
「あ、ああ。そうなんですか」
「ブライアン・ベリアさん、でお間違いないでしょうか……? いつも寄付をしてくださってるので、直接お礼を言いたくて」
「ああ。なるほど」
そこまで伝えると、ブライアンはふわりと顔を緩めてくれた。
「お礼なんて、とんでもありません。少しでもお役に立てていたなら結構です」
「少しなんてものじゃありません。子供たちに服やお菓子を買ってあげる余裕も出来ましたし、ほんとうに感謝してるんです」
「それはよかった」
ブライアンは目を細めて微笑み、リーシャと握手を交わした。
そうして、幾らかの会話を挟み、別れを切り出す。
「よい夜を」
「ええ、あなたも」
素敵なひとでよかった。
思いながら、リーシャはルイとともにミーリアの元へ戻ろうと踵を返した。




