少年の行方/手駒
◇ ◇ ◇
ふわりと。
開け放した窓の外から、春の風が舞い込んできた。
身支度を整えていたリーシャは、揺れたカーテンにふと、懐かしい少年の姿を思い起こした。
九年前。
彼と出会ったのも、こんな暖かな季節だった。
耀く銀色の髪をした、不思議な少年。
最初は言葉も通じなくて、しかも素っ気なくて。接し方に、戸惑いもしたけれど。
時間を経て、だんだんと打ち解けていって。冬が来る頃には一緒に菓子をつまみ食いする仲にまでなっていた。
今頃、どこでどうしているのか。
知る術のないその問を、リーシャはこれまで幾度となく繰り返してきた。
九年前のある夜。
友を探しに出かけた少年は、それきり、戻ることはなかった。
「リーお姉ちゃん」
と、窓と同じく開いたままにしていた扉から、アウローラが顔を覗かせてくる。
「みんな、準備できたよ」
「わかった、今行くわ」
リーシャは頷き、スカートの裾を翻しながら私室を後にする。
今日は孤児院で暮らしていた娘──ロマの門出、結婚式だった。
「おめでとう、ロマ。幸せにね」
「ありがとう、リーお姉ちゃん」
教会での厳かな式を終えた後。
晴天の下で抱きしめた少女は、涙を浮かべながら笑っていた。
純白のドレスに身を包んだロマをそばで見守るのは、火に近い赤茶色の髪とそばかすを鼻頭に散らした青年──ジャックだ。リーシャを見下ろし、意気揚々と宣言してくる。
「ロマは俺が責任を持って幸せにするから、安心してくれよな、リー姉ちゃん」
「ええ。ふたりとも、本当におめでとう」
リーシャは妹と弟のようなふたりをそれぞれに見つめて微笑んだ。
借り物の衣装──白いタキシードと蝶ネクタイを身につけたジャックは、照れくさいのか、落ち着かないのか。戯けたように頭を掻く。
「あー、早く酒飲みたい。披露宴の時はこれ、脱いでいいんだよな?」
「もう、情緒がない」
ロマに小突かれ、ジャックはけれど、幸せそうに微笑んでいた。
そんなふたりと祝福の抱擁を交わし、リーシャは、場を他の列席者に譲った。
そうして人の群れから少し離れた場所に移動し、すっかり大人になってしまったふたりを見つめる。
(あんなに小さかったのに……)
時の流れを実感し、小さく息を吐く。
どうりで自分も歳をとるわけだ。
最近では、結婚を急かされることもない。
リーシャは日差しを遮るように、木陰へと身を潜める。
ジャックは同性の友人たちに囲まれ、せっかく整えた髪を崩されているところだった。
悪ふざけの延長線。
その輪の中に、かつて混ざっていた少年を思い出して、リーシャはまた、胸を痛めた。
その、瞬間。
「ロマお姉ちゃん、すごく綺麗だね」
いつの間にか隣に並んでいたアウローラが、リーシャに寄り添い、手を繋いできた。
香水をつけているのか、甘い花の香が漂う。
「……ええ、そうね。とっても綺麗」
「でもまさか、あのふたりが結婚するなんてね。思ってもみなかったわ。喧嘩ばっかりしてたし。……人生は、不思議の連続ね」
その妙に芝居めいた口調に、リーシャはつい笑みを溢してしまう。
今年で十五になるアウローラは、もうほとんど大人といってもおかしくはなかった。
背だってリーシャと同じくらいになっているし、恋人もいて、よくデートに出掛けていた。彼女もそのうち、結婚するのかもしれない。
と──。
「……ねえ、リーお姉ちゃん」
「? なあに?」
アウローラが、握った手に力を込めてきた。
「お姉ちゃんもそろそろ、自分のこと考えなくちゃダメだよ」
「…………」
「……お兄ちゃんも、絶対そう思ってるはずだから」
思わずアウローラを見つめてしまう。
昔から、思いやりのあるいい子だとは思っていたけれど。
本当に、大人になった。
リーシャは、可愛い妹の成長を誇らしく思いながら、繋いだ手を握り返した。
「ええ、そうね」
前に進まなくてはね。
リーシャは、姿を消した少年との決別を、迫られていた。
──九年前の冬。
それは、ひどい雨雷の夜だった。
雪こそ降っていないものの、風は冷たく、空気は冷え切っていて。
リーシャは帰宅したガブリエルからの知らせに血の気を失った。
ジャックが港で、瀕死の状態で発見されたというのだ。
ルイが蘇生にあたっているらしいが、希望はない、とガブリエルは目線を合わせずに告げた。
出血がひどく、呼吸も止まっていると。
眩暈がした。
けれどリーシャは、しっかりしなければと気を持ち直し、孤児院の家族たちと共に、ひたすらにジャックの無事を祈った。
その甲斐あってか──いいやきっとジャックの生存本能と、ルイの腕が一流だったのだ──ジャックは奇跡的に一命を取り留めた。
それでも意識が戻るまでに半年。まともに暮らせるまでに一年以上の月日を要したけれど。
無事回復したジャックは、今では市警の仕事に就き、日々街のために奔走している。
立派な若者になっていた。
しかし。
ジャックを探しに行った少年──エンが戻ることはなかった。
リーシャたちは街中を探し、隣街にも赴き、海も、街道も、何度も往復したけれど。エンを見つけることは、できなかった。
『ごめん。俺、わからない……』
事件後。意識を取り戻したジャックは──あまりに凄惨が過ぎたのか──事の前後のことを、何も覚えてはいなかった。
あの日、ジャックと港で遊んでいた子供らが言うことには、日暮れ前には帰路についたそうなのだが。
帰り道の途中で、ジャックは手袋を無くしたことに気づき、単身、港に戻ったらしい。
そこで何があったのか。
エンの失踪と関係しているのか。
リーシャたちには、わからないことだらけだった。
孤児院がそんな状態で、ひとり離れることなど出来るはずもなかった。リーシャは孤児院の正式な職員になることを決意し、それからずっと、エンを探し続けていた。
けれど。
──あれからもう、九年も経ってしまったのね。
リーシャは泣きだしたいような気分で、ジャックとロマを祝福する鐘の音を聞いた。
そばの木々から、驚いたように鳩が数羽飛び立っていく。
ここに、あの子がいてくれたら。
どんな笑顔を見せてくれたのだろうかと、考えずにはいられなかった。
それから数日後。
いつものように子どもたちを学校へ送り出したあと。
居間で帳簿をつけていたリーシャは、そこに見知った商会の名を見つけて手を止める。
「…………あら」
(また、この人からだわ……)
ちょうど一年ほど前から、定期的に寄付をしてくれるようになった、覚えのない新興の商会。
ガブリエルに聞いた話では、都市部で貿易を営んでいるらしいけれど。
それにしたって、寄付額が多すぎた。
「……お礼状、出さなくちゃ」
リーシャは独り言ち、帳簿に数字をかきつける。
この商会のおかげで孤児院の経営はここのところ、とても楽になっていた。
礼状だけではなく、何か品物も贈るべきかと迷う。
ガブリエルは「どうせ売名行為だろ」と肩を竦めていたけれど。それでも有難いことに変わりはなかったから。
◆
「あ、そこのカフェおすすめですよ」
午後。
その日の仕事を終え。あとはもうホテルに戻るだけだった。
だからブライアンは、敬愛する青年──苑に笑顔でそう呼びかける。
苑はちらりとブライアンの勧めた店を見やったが、しかしすぐに視線を逸らしてしまう。
(……好みじゃないか)
ブライアンはめげることなく微笑んだまま、苑の隣に歩み並ぶ。
「そうですよね、疲れましたよね。早く戻って休みましょう」
言いながら、整ったその横顔を眺める。
凛とした青年の蒼い眼差しはいつだって深く翳っていて、だからこそ放ってはおけなかった。
──多分に癪だが、あの女も、そこだけは同じなのかもしれない。
幼い頃、身を売られそうになっていたブライアンは、この青年に助け出された。いや。正確には、命と引き換えに手駒にされただけなのだが。それでも熱い焼印を押され殺されるよりはマシだった。
今では彼のもとで働けることに幸福さえ感じている。
「あ、そうだ。いつもの【慈善事業】も済んでますよ」
「変わりは?」
「ありませんでした」
「……わかった」
短く答えた青年は、ふと、その視線を横に流した。
淡い金色の髪をした女性が、通りすがるところだった。
「……」
好みなのか。
彼は極稀に似たような女性を目で追うことがあった。
しかしそれもすぐに興味を失ったようで、つと顔を逸らしてしまう。
(わかんない人だな)
ブライアンは、眩しいくらいの陽光に目を細めた。
暑いくらいの春の日ことだった。




