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再会

◇ ◇ ◆


そうしてまた月日は流れ、冬も盛りを迎える頃──。夕刻。



ぱちぱちと、暖炉の火が爆ぜていた。

外は曇天。

窓の向こう、見上げた灰色の空からは、今にも雨が降り出しそうだった。


「……ジャックたち大丈夫かしら」

開いていた本からふと顔を上げて、リーシャがつぶやく。

いつもと変わらない、平日の午後。

学校から帰宅した苑は居間で宿題にとりかかり、リーシャはそれを手伝ってくれていた。

ジャックやロマらは、外で遊ぶと言って出掛けてしまっている。

苑のほか残ったのはアウローラだけで、彼女もつい先程まで人形遊びをしていたのだが、気付けばいつの間にか眠っていた。

今はそばの長椅子で丸まり、健やかな寝息を立てている。

リーシャは、その小さな身体にブランケットをかけてやると、起こさないよう、苑との勉強を静かに再開した。

のだが。

「ねぇ今、雷鳴らなかった……?」

緊張したような眼差しを向けられ、苑は窓の外を見て答える。

「…………遠いし、大丈夫だと思う」

確かに、海の方角、遠くの空には雷光が走っていた。

夜には豪雨になるのだろう。

だが、まだ警戒するほどではない。

思いつつ、苑はテーブルに広げた教科書に視線を戻した。

──ヨルンドルテを擁す、この国の治政はまともだ。

そう感じる一端が目の前これ。教育に重きを置いている点だった。

より深い知見を得るための高等教育は、貴族、あるいは裕福な家の者にしか許されていないそうだが、その手前、算術や読み書きなど、生きる上で礎となる知識を国民が学ぶことを、この国は義務としていた。

民が知恵を付け、金を儲けることで、街も国も自然豊かになっていく。

その仕組みを、この国の政治家共は理解しているのだろう。

祖国──了とは大違いだと、苑は鼻白む。

あの国では読み書きはおろか、今日を生き抜くのに精一杯で、民衆は学ぶという概念すら持ち得なかった。

いや。

苑が知らないだけで、富裕区の何処かには学校も在ったのかもしれないが。仮令そうだっとしても、苑には関係のない話だった。あの国では、貧民街を這い回ってばかりいたのだから──。

「すごい、全部合ってるわ」

紙に単語を埋めた後。採点したリーシャに微笑まれ、苑は内心、胸を撫で下ろす。

そうして次の問題にとりかかろうとした。

そのとき。

「リーシャ、いるかい?」

「! ええ」

玄関の方から若い男の声が聞こえてきて、リーシャが立ち上がった。

豊穣祭の最終日。リーシャと踊っていた、あの若者だ。

果物屋の長男坊だというその青年は、あの夜以来、しきりに孤児院を訪ねるようになっていた。

お裾分けだのたくさん仕入れてしまったからだのと何かしらの理由をつけて、甲斐甲斐しくリーシャに会いに来ているのだ。

「ちょっと行ってくるわね」

そう言い残して、リーシャが玄関へ駆けていく。

苑はひとり勉強を続けながら、気落ちするのを自覚した。

ややして、ふたりの話し声が聞こえてくる。

やはり今日も男は、何かを貢ぎに来たようだった。

「────」

恋仲、ではないのだろう。まだ。

リーシャは遠慮がちにしているし、いつも申し訳なさそうだ。

それでも、足繁く通ってくるあの青年が、彼女に好意を寄せているのは誰の目にも明らかで。近いうち、想いを告げるだろうとも予測できた。青年の、リーシャを見る目はひどく甘い。

──そのとき、リーシャはどう返事をするのだろう。

おそらく真っ赤になって、慌てて、照れて。困惑して。

それから、ありがとうとはにかむのだろうか。

あの柔らかな笑顔で。

「……」

意図せず、ペンの先が止まっていた。インクがじわじわと広がり、黒い染みを作っていく。

苑はリーシャが好きだ。この世界の誰よりも幸せになってほしいと願っている。

(なのに……)

苑は現状を、素直に喜べないでいた。

あの青年は少し頼りないけれど、金はあるし仕事にも真面目で、歳も二つ上と近く、リーシャの相手としてはきっと、申し分ない。

それなのに苑は、リーシャがこの家を出ていくと思うだけで胸が締め付けられるような想いがした。

(どうして)

苦しかった。素直にリーシャの幸福を喜べない自分が。だから必死に心を隠す。

こんな醜い、子供じみた感情は、彼女にだけは、知られたくなかった。

そのときが来たら、笑顔を見せて、おめでとうを言う──。そう、出来たらいい。

と、玄関先でリーシャが「ありがとう」と言っているのが聞こえた。

そうして居間に戻ってきたリーシャは、今日は焼きたてのパンを抱えていた。

「また貰っちゃったわ、評判のお店のなんですって」

孤児院の人数分賄えるようにだろう。紙袋から覗くパンは、狭そうに幾つも詰まっていた。

苑の隣に座ったリーシャは、ふと悪戯めいた瞳を向けてくる。

可愛いな、と思った。

「ねぇエン、少しだけ味見しない?」

「……する」

共犯を作ったリーシャが微笑み、いそいそと手に取ったパンを半分に分け、片方を苑に差し出す。

そうしてふたりでほぼ同時に食べる。

「ん、美味しい……!」

「ほんとだ。美味い……」

評判なだけはある、と二口め、三口めと食べ進めていく。

その時間は確かに、幸せだった。


「あれ? ジャック、まだ帰ってないの?」

まもなく夕飯というその時間。

帰宅したロマが、暖炉に両手を翳しながら振り返った。

冬の日暮れは早い。空は既に、真っ黒に塗りつぶされていた。

「本当ね……どうしたのかしら」

リーシャが不安そうに言って、窓の外を見やる。とうに雨は降り出し、稲光も近づいていた。

「ガブリエルがいてくれたら良かったんだけど……」

こんなときに限って彼は、街の会合で留守にしていた。

食器を並べる手伝いをしていた苑も、時計の時刻を見て、わずかに眉を顰める。

気にするほどでもないと言えばそうだが、確かに少し、遅かった。

「俺、見てこようか」

「あぁ、だったら港の方で遊ぶって言ってたよ」

「……──港か」

ロマの言に、苑はしばし考えた。

港は市場を抜けた先にある。

孤児院からでは少し、距離があった。

「……わかった。とりあえず、行ってくる」

「気をつけてね」

不安げに言ったリーシャは、本当は自分が行きたいのだろう。しかし院には、ほかにも子供が残っている。

リーシャを安心させるように、苑はしっかりと頷いた。

「うん。リーシャも戸締り確認して。誰か来ても、開けないで」

「……それは、私の真似?」

苑は緩くかぶりを振って、食堂を後にした。

そうして自室に入り、外套と襟巻きを身につけ──棚にしまっておいた、朱色の花の髪飾りを手にとった。

豊穣祭の夜に買った、リーシャに渡すはずだった贈り物だ。

港には、貝殻や、こうした不用品を買い取ってくれる店がある。

悔しいけれど、持っていても何の役にも立たない。だったらついでに金に替えてしまおうと、苑はそれを、外套のポケットにしまった。


そうして、家を出る間際。

「じゃあ、行ってくる」

「本当に気をつけてね」

「うん」

「変な人に声かけられても、ついていっちゃだめよ」

「…………」

リーシャから繰り返し心配を告げられて、苑は呆れ気味に振り返る。

「わかったから。夕飯、ちゃんと残してて」

「……ええ」

約束したリーシャは、苑が見えなくなるまで、そこに──家の前に、立ってくれていた。



闇色の傘を広げ、通い慣れた市場を過ぎ。

やがて港に辿り着く。

この雨のせいだろう。

人は常よりまばらだった。

接岸された船の影が、不気味に海で揺れていた。

──と、

「……」

苑はぴたりと歩みを止める。

港の奥。

そこに、複数の人影が見えた。

「……ジャック?」

そこにいるのかと、静かに呼びかける。

どうしてか。呼吸が浅くなっていた。

それでも、友を探すため。

苑は一歩を踏み出す。

と。その足音に、影のうちのひとりがぴくりと肩を震わせた。

「…………」

〝部下〟に傘を差せていたその女が、緩慢な動作でこちらを振り返る。

豪奢な外套。

黒い髪。

赤い唇。

──………………

逸らしようもないほど強く視線がかち合い、苑は少しも動けなくなる。

アンディック。

殺さねばならない女が、なぜかそこに、立っていた。


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