いつか
◇ ◇ ◇
(どうしよう……)
「《ーー、ーーーーー?》」
困惑するリーシャに構うことなく、男たちは自国の言葉で話しかけてきた。
独特な抑揚を持つその言語は、間違いなく東方の異国──了のものだった。
しかし、その意味まで読み取ることは叶わず。
申し訳なく思いながらもリーシャは【わからない】を示すため、首を横に振ってみせた。
だが、壁のように立ち塞がった男たちは引いてくれず、どころか、酒の匂いを纏わせたままリーシャの腕を掴んできた。
「っ!」
「《ーーーー?》」
遠慮なく顔を近づけられ、耳元でなにかを囁かれる──おそらく、飲みに誘われているのだろう。
豊穣祭ではよくあることだった。
特に彼らのような遠方からの客は、旅先ということもあり気が昂っているのか強引な者が多く、市警も手を焼いていると聞いた。
だからなるべく夜はひとりにならないよう気をつけていたのだけれど。
友人と別れたとたん、これだった。
誰か。
助けを求め周囲に目を向ける。しかし帰路につく人々もまたしたたかに酔っていて、誰もリーシャには気づかない。
その間にも男たちは距離を詰めてきた。
「……っ!」
リーシャは男たちから逃げようともがく。
──その、瞬間。
音もなく、小さな影が躍り出た。
影はリーシャと男たちの間に割り入るように入ると、その無骨な手を払い除けた。ぱしんと乾いた音がした。
息を呑む。
闇夜にもよく映えるその銀色の髪は、リーシャのよく知るものだった。
(……────エン)
どうして、と問う前に、エンが男たちに向け口を開く。当然のように、了の言葉で。
「《ーーー?》」
「《っ! ーー、ーーーー?》」
「《……ーーーーーーー》」
突然現れた子供に最初、男たちは怪訝な顔をしていたけれど。幾らかの言葉を交わした後、不意に顔を歪めると、忌々しそうに去って行った。
何を話したのかしら。
ミーリアのときと同じ。やはりリーシャには少しも聞き取ることは出来なかった。
(いいえ、今はそれよりも──)
男たちが完全に通りの向こうへ去るのを確認してから、リーシャは、小さなその背に声をかけた。
「…………エン」
ただ名を呼ぶ。
それだけのことが、今はひどく難しかった。先日彼の機嫌を損ねてからずっと、目もあわせてもらえず、会話もまともに出来ていなかったからだ。
リーシャは緊張に手を握りしめる。
──たぶん私は『あの時』、この子を傷つけてしまった。
理由はわかっている。
彼の厚意を受け取ることが出来なかったからだ。
それでも、リーシャに折れるつもりは微塵もなかった。
どんなに言われたって、彼からお金は受け取らない。金銭の使い方を教えるのも、自分の役割だと感じていた。
だからたとえどんなに時間がかかっても、煙たがられても、わかって貰えるまで話しをするつもりだった。
なのに──そう決心していても情けなく声は震えた。
冷たくされるのは、悲しい。
「……ありがとう、助けてくれて」
そっと振り向かれる。
一つ一つ、篝火が消されていく中。
数日ぶりに合った視線は、不満そうに揺れていた。
帰りましょう、と手を差し出す。
握り返されたことに安堵する。
月光の下。そこかしこにはまだ、炎の気配が漂っていた。
「ねえ……なんて言ってたの? あの人たち」
「…………宿の場所を聞いてた。それから、リーシャを誘おうとしてた……部屋に」
やっぱり。
苦笑したリーシャに、笑い事じゃない、とエンは不機嫌を露わにした。深く眉根を寄せ「だいたいリーシャは呆け過ぎている。こないだって子供にぶつかられそうになっていたし」と、溜め込んでいたのだろう鬱憤まで吐き出してきた。
この子がこんなに話すのも珍しいと目を丸くすれば、「聞いているのか」とまた睨み上げられて。鋭利なその双眸に数瞬、見惚れた。まるで猫のようだと思う。簡単には懐いてくれない、可愛いけもの。
「リーシャ?」
「! ごめんなさい。でも、ちゃんとわかってたから。『よくない』人たちなんだろうなって」
疑わしそうな眼差しをこちらに向けたまま、エンは話しを続ける。
「……あいつら、引きそうになかったから警察の場所を教えた。そしたら【もういい】って、逃げてった」
「ああ、それであんな顔をしていたのね」
合点がいって、小さく頷く。もしかしたら本当は、こちらの言葉だって分かっていたのかもしれない。
悪質な手に、ため息が溢れる。
「──でもやっぱり、了の言葉は難しいわね。ちっともわからなかったわ」
「……こっちの言葉の方が、難しいと思う」
「そう? でもエンはとっても上手いじゃない。皆も言ってるわ、すごいって」
「…………」
その無反応は照れなのか、信じていないだけなのか。月明かりだけでは、感情まで読み取ることは出来なかった。
「……──ねえ、エン」
リーシャは息を吸い込み、エンと繋いでいる手に、少しだけ力を込めた。
話しをするなら、今しかない。
「……もう一度言わせて?」
「……?」
「…………《ーーーーー》」
言葉は、正確に伝わっただろうか?
夜風が吹く。風に擦れた葉が鳴っている。
リーシャの言葉に、エンは────大きく目を見開いていた。
◇ ◇ ◆
「…………《ありがとう》」
響いた音は拙かった。
でもそれは確かに苑の故郷の言葉で。
驚愕に息を詰めた苑に、リーシャが淡く微笑んでいた。少し、恥ずかしそうに。
「……あってる?」
「………………」
ぎこちなく頷いた苑に、彼女は「本当に?」と返してきた。そうしてやはり恥ずかしそうに口元を緩める。
「少し前からね、了の言葉を勉強していたの。って言っても、簡単なものばかりなんだけど……」
ありがとうとごめんなさいと、おはようとおやすみ。それから、こんにちはとさようならを。
辿々しく口にしたリーシャは、照れを隠すように月を見上げた。
「本当はもっと前に言ってみようって思ってたんだけど、機会がなくて……」
「…………」
知らなかった。
リーシャの考えてることなんて、何も。
苑はどうしてか胸の奥があたたかくなるのを感じて、込み上げたものを必死に堪えた。鼻が痛む。このひとはやはり変だ。普通じゃない。だから苑は翻弄されてしまう。
「……エン?」
「…………ミーリアに、聞いたのか」
「ううん? 教えましょうかって言われたけれど、最初は自分でやってみようと思って。それに……」
リーシャは言葉を切って、言った。
「わからなかったら、エンに教えてもらおうと思って」
「…………」
「……だめ?」
だめなわけがない。リーシャだって苑にたくさんの言葉を教えてくれたのだから。だめなわけが、なかった。
「リーシャ」
繋がれた手に力を込める。好きだと思った。心から。このわけのわからないひとが、居場所を与えてくれた彼女が。とてもとても、好きだと思った。大切にしたい。
なのに自分はどこまでも子供で、愚かで、短絡的で、感情のままに彼女を傷つけてばかりいる。
そんな自分に嫌気が差した──苦しいほどに。
「………………ごめん」
歩みを止め、やっとの思いで謝罪を口にする。
「俺、また、ひどいこと、した……」
ここ数日の行動を省み、後悔に押し潰される。
「ううん」
悔しいことに、彼女はとても大人だった。
苑の謝罪を容易く受け入れ、微笑み、かぶりまで振ってみせる。
「……私もごめんなさい。エンがせっかく、ご馳走しようとしてくれたのに」
懺悔するように、彼女は言った。
「実は、私も昔ね、ガブリエルに自分のお小遣いでプレゼントをあげようとしたことがあるの。今のエンくらいの歳よ? でも、ガブリエルは受け取ってくれなかった。『こういうことは自分で稼げるようになってからにしろ、店に返してこい』って、突き返されたの。ひどいと思わない?」
「思う」
「でしょう? 私、本当に悲しくて仕方なかった。『どうしてダメなの!』って不貞腐れたわ」
それで軽い家出をして、少しだけ騒ぎになったと付け足した。幼い彼女の意外な過去に驚きながらも、苑は黙って話しを聞いていた。
リーシャは微笑む。
「ただ、喜んでほしかっただけなのにね」
ごめんなさい、と彼女は繰り返す。
苑と〝そのときの自分〟を重ねているのだろう。
『自分で稼げるようになってから』
ガブリエルの言は正しい、悔しいことに。苑が貰った金は確かに、孤児院の運営費から捻出されたものだ。
ポケットに隠した、彼女への贈り物を想う。
──好きなものを買え。
そう言われたけれど、この金で感謝を伝えるのは不恰好だと、気付く。
「リーシャ」
だからこれは渡せない。
代わりに──苑は真っ直ぐに彼女を見つめた。
「エン……?」
揺らぐ瞳を逃すまいと捉え、繋いだ手を胸に引き寄せる。リーシャは不思議そうに瞬いていた。
「俺はリーシャが好きだ。感謝してるし恩も返したい。こんなに優しくされたのは、初めてだったから」
「…………」
「だからいつか、俺が自分で稼げるようになったら、そのときは、たくさん受け取って、ほしい」
今はまだ、こんなふうに伝えることしかできないけれど。でも。いつか、大人になったら。そのときは最上の簪や腕飾りや、服に靴、とにかく彼女が喜ぶものを贈ろうと思った。
と、リーシャが不意に、顔を歪める。
「……!?」
驚く苑の目の前で、彼女は涙をこぼし始めた。
どうして泣かれるのかわからず、苑はたじろぐ。
「リーシャ?」
「ごめ、なさ……」
リーシャは言いながら、自由な方の手で己が目をこすった。
「エンに、嫌われたと思ってたから……ほっとしちゃって」
ほろほろと涙を流し続けるリーシャに、苑は困り果てる。
「嫌うわけ、ない」
だから泣き止んでほしいと彼女の頬に手を伸ばす。リーシャは泣きながらも笑っていた。それがまるで幼子のようで、苑は彼女もまだ成人には至っていなかったことを思い出す。
「……エンと仲直り出来てよかった。すごくうれしい。このままだったらどうしようって、不安だったの」
「……本当にごめん。でも、俺もうれしい。仲直り、出来て」
親指の腹で、リーシャの眦を加減してぬぐう。
身長差がなければ、もう少し格好がついただろうに。
いつか──。
その日が訪れたら。
未来に思いを馳せながら、苑は、彼女が泣き止むのを待ち続けていた。




