豊穣
◇ ◆ ◆
それから。
何事もなく穏やかに時は流れ、程なくして秋が訪れた。
落ち葉を掃きながら、苑は高くなった空を仰ぐ。
日課となっている朝食後の庭掃除では手が悴むようになり。夏の間、あんなにも青々と茂っていた葉は、薄緋に色づき始めていた。
秋の準備が必要だと、先週は総出で衣替えを行い、足りない衣服は街で買い揃えることになった。
苑もその際、数枚リーシャに見繕われていた。
今朝はその内の一枚、深紺色のシャツに袖を通してみたのだが。夏の物より僅かに厚くなった生地は肌寒さを和らげ、億劫になりつつあった朝夕を快適に過ごせるようになった。
それまで苑は、服など着られればなんでもいいと思っていたけれど、その着心地の良さに、服屋で真剣に素材を吟味していたジャックたちの気持ちを、解することができたのだった。
そんな日々が続いていた、ある日のこと──。
「ねぇ、エン。ちょっといい?」
学校からの帰り道、苑は、見覚えのある少女から声をかけられた。
孤児院の子供ではない。
同じ学級にいるうちのひとりだった。
前に一度、肩がぶつかり言葉を交わした記憶があるが、それ以上の接点はなく。
だから今、馴れ馴れしく名を呼ばれ反射的に怪訝な顔を浮かべてしまった苑に非はないはずだった。
「何」
温度の低い声で問い返すも、少女の親しげな様子は変わらない。それがまた、苑の不快をそっと煽る。
「ごめんね急に。今度の秋祭り一緒に遊べないかなと思って」
「……秋祭り?」
「あぁ、エンは初めてだよね。正式には〝豊穣祭〟って言うんだけど、街に飾りをいっぱいつけて、秋の収穫物を祀って祝うの。災害も争いもなく、今年も平穏無事に収穫できましたって」
隣から、ジャックも会話に割り入ってきた。
「そうそ、露店も出るし舞台もあるし、結構豪華なんだぜ?」
「うん。夜も遅くまで灯りがついてて、とっても綺麗なんだよ。ね、一緒に回ろ? あたし案内するし」
(…………了にもあったな)
少女らの言に苑は、祖国でも同じ時節、似たような祭りが催されていたことを思い出していた。
中心街の通りには朱と金縁のランタンが灯され、親は酒を、子は菓子を食み、共に月を愛でるのだ。
そんな祭りの期間でさえも、苑は変わらず食い物を探すことに必死だったが。それでも、その数日はやけに街が明るかったことは覚えていた。
何処の国にもあるのだな、と特に感じ入ることもなく思う。
目の前の少女はこちらを伺うような笑顔のまま、再び口を開いてくる。
「どう? お祭りは十日間あるんだけど、一日くらいなら遊べるでしょ?」
(また〝遊び〟か……)
苑は小さく息を吐いた。
せっかくの祭りだ。美味いものも並ぶのだろうし、興味がないことはない。
けれど、回るならひとりの方が気が楽だと思った。
そもそもこの少女とは親しくもなんともないのだ。一緒に過ごす理由がない。
だから苑ははっきりと断りを入れる。
「行かない」
それだけを告げて、背を向ける。
「ちょ、エン……っ!? 待てって!」
すたすたと歩き出した苑に、ジャックが困ったような声を上げる。
それでも空腹の苑が歩みを止めることはない。
背後で「えーと、俺じゃだめかな?」とジャックが話している声が聞こえていたが。
苑の思考は既に、夕食の予想へと切り替わっていた。
「まぁ、そんなことがあったの?」
「そー! もう愛想がなさ過ぎて大変だったぜ」
その日の夕餉の席で。
少女との一部始終をジャックから聞いたリーシャは、驚いたように苑に目を向けた。
今晩の献立は、鶏肉のソテーと根菜を煮つめた物だった。
真横から注がれるリーシャの視線を受けながら、苑は黙々とその味を堪能する。
香草で香り付けされた鶏肉は、柔らかく旨かった。
子供たちに肉を取り分けながら、リーシャが言う。
「せっかく誘われたんだもの。遊んでみたらよかったのに」
「そうだぞ」
離れた席から同意してきたのはガブリエルだ。
「可哀想に。勇気出して誘ってくれたんだろうに」
「じゃああんたが行けば」
「あー、馬鹿だな。その子はおまえと行きたかったんだろうが。なぁ? ジャック?」
「はは」
少女を誘ったジャックは、あの後やんわり断られたらしい。
「うん、そうみたい」
やっぱり俺じゃダメだったと苦く笑いながら、ジャックは力なく肉を頬張った。
「あたし! あたしもエンお兄ちゃんとお祭り行きたい!」
と。アウローラが勢いよく片手をあげ叫ぶように言って、それにリーシャが優しく微笑んだ。
「そうね。今年も皆で回りましょうね」
去年もその前も、彼らは一同で参加したのだろう。
賑やかな喧騒の中、リーシャがアウローラの手を引き、他の子供の世話を焼く様子はありありと想像できた。
苑の隣を陣取っていたアウローラが、にこにこと笑顔を向けてくる。
「あのね、本当に綺麗なんだよ! 灯りもそうだけど、お花もいっーぱい飾られてて、かわいいお菓子もあるの!」
「へえ」
「エンお兄ちゃんも、たくさん食べようね!」
いつものように袖を掴まれ、苑は縦に首を振る。
反対隣からリーシャの穏やかな声がした。
「でも、夜は危ないから子供だけで出ちゃだめよ?」
「はーい」
「なぁ、リー姉ちゃんかガブリエルが一緒ならいいだろ?」
聞いたジャックに、リーシャが頷く。
「ええ。ルイにも声をかけてみるわね」
「やった! 串焼き買ってもらおーっと」
うきうきと計画を練るジャックに、ロマが「ずるいあたしも!」と詰め寄り、肘で水を倒してしまう。
「布巾布巾!」
「ああ、ソフィアは動かないで!」
途端騒々しくなる食卓も、見慣れたものだった。
苑は音を立たず鶏肉を切り分ける。
「エンお兄ちゃん、ナイフ使うの上手くなったよね、食べ方きれい、王子さまみたい!」
「……?」
「絵本に出てくる王子さま! 今度貸してあげるね!」
「ん」
周囲をものともせずマイペースにのたまうアウローラに、苑もまた、ゆっくりと鶏を味わうのだった。
つくづく平和な街だ。
過ごせば過ごすほど、そう思わずにはいられない。
──その日の深夜。
喉の渇きを覚えた苑は、ひとりベッドから抜け出した。
雲間が晴れ、厨房への道を月光が淡く照らし出す。
「!」
驚いたのは、通り過ぎようとした居間に人影を見つけたからだ。
蝋の火はとうに絶え、部屋はすっかり冷えている。
なのにそこに──ソファに寝そべっているリーシャは、すやすやと心地よさそうに寝息を立てていた。
(疲れてるんだろうか)
苑は思い、彼女のそばに膝をついた。
「……起きて。風邪を引く」
頼りない肩を揺すると、リーシャはぼんやりと目を見開いた。そこに苑の姿を捉えて、不思議そうに呟く。
「? エン……?」
そんな彼女が普段より幼く見えたのは、髪が緩くほどけ、瞳も虚だからだろうか。
いつだってしっかり者の、善き〝姉〟でいてくれるリーシャの、そんな姿は新鮮で。苑は同時に浅からぬ後悔に襲われた。
毎朝、誰よりも早く起き、働き、笑顔で帰宅を迎えてくれるリーシャ。
彼女は小言は口にしても不満は言わないから。
だから疲労に気付けなかった。
負担をかけていることはわかっていたのに。
苑は充分に手助けできていなかったことを思い知り、深く眉根を寄せた。
(明日からはもっと家事を手伝おう)
誓い、リーシャの肩から手を離す。
「ちゃんと部屋で寝て。あと、明日からは俺も料理する」
「……ありがとう。すごく助かるわ」
身を起こしたリーシャが、暗がりの中、柔らかく微笑んでいるのがわかった。
綺麗なひとだ、と改めて深く思う。
目が離せない。
「ガブリエルともね、ジャックたちにも、もっと料理を教えていこうって話をしてたの。私も、いつまでここにいるかはわからないから」
「……出て行くの?」
「すぐにってわけじゃないけど」
そう微笑むリーシャは、将来のことを考えているのだろう。
孤児院は基本、預かった子供が成人するまで保護する施設だ。この国の成人は十八歳──つまり彼女にはあと二年の期間があるが。その前に独り立ちする可能性も、なくはないのだ。
ジャックが話していた通り、彼女に声をかける若者は少なくない。
「……ここの職員になるのかと思ってた」
ガブリエルのように。
言えば、リーシャはまたふわりと目を細める。
「もちろん、それも考えてるわ。でもガブリエルは外に出た方がいいって勧めてくるのよね……」
「……俺は、リーシャの好きにしたらいいと思う」
「…………」
ぽつりと言った苑に、どうしてかリーシャが言葉を止める。
「?」
不自然な沈黙に苑が眉を顰める。と──。
「エンが名前で呼んでくれるの、珍しいから」
驚いてしまった、とリーシャが一拍遅れたように破顔した。
その途方もなく嬉しそうな表情に、苑の鉛のような心の奥底がほんの僅か、動く。
──名前くらい、いくらでも。
そう続けようとしたが、ダメだった。
何故か舌が、上手くまわらなかったからだ。




