そして一年が過ぎたころ
領主であるディナートのもとには毎日さまざまな手紙が届く。
昼食のあと、午後一番でそれらに目を通すのが毎日の日課となっている。彼は手慣れた様子で早急に返事が必要なものとそうでないもの、あるいは返信不要のものに分けていく。
最後の一通に目を通し終えた彼は、大きなため息を一つついて窓の外に目をやった。初夏の日差しは明るく、木々の緑は陽光を跳ね返している。
すっかり夏の様相を呈している風景に目を細めながら、ディナートはふと思い立った。
「この髪もいいかげん鬱陶しいな。……切るか」
騎士団を辞し、妖魔討伐の恩賞として拝領した領地に移り住んでから、すでに半年以上が経っていた。
新しい環境に慣れるために慌ただしい毎日を過ごしていたが、結婚式が間近に迫った今頃になってようやく自身の身だしなみに思い至ったのだった。
まさか一生に一度の結婚式に、伸び放題伸ばした髪のまま出るわけにはいかぬだろうと、そばにいた召使いに「短く切ってくれ」と命じたのだ。
が、頼まれた召使いは
「よろしいんですか?」
と気が進まない様子だ。
当の本人が切れと言っているのに、なにをためらうのかと訝しんで振り返れば、召使いは奇妙な顔つきをしていた。
たとえて言えば、不味いものを無理矢理飲み込み、しかもそれを必死で押し隠しいるような顔だ。
「どうした?」と尋ねても男は「何でもございません」と答える。
それを鵜呑みにしたわけではないが、ディナートはそれ以上の追求はしなかった。
男は道具を用意してくると言い置いて部屋を出て行った。
なんとなく嫌な予感がよぎったが『たかが髪のことで何があると言うのだ?』と、その予感を黙殺した。
そして予感と言うものは、えてして良く当たるものだと痛感したのは、ほんの数分後のことだった。
扉の向こうから、パタパタと軽い足音が聞こえてきた。ほぼ駆け足に近いその歩調。足音の主は見ずとも分かる。
先日、屋敷についたばかりの彼の婚約者である。
――何か困ったことでもあったのだろうか? と心配になって腰を浮かせた途端、急いたようなノックの後に続いてドアが勢いよく開いた。
「ダメーー!! 切らないでーー!!」
と、血相を変えた八重香が飛び込んで来た。
何のことか分からずに目を丸くするディナートに歩み寄ると、彼女は彼の両腕をガシッと掴んだ。
「ヤエカ?」
「切っちゃダメです!」
二度言われて、ようやく彼はそれが己の髪のことだと理解した。
どうやら先ほどの男は道具を取りに行くついでに、八重香に注進したらしい。
「ダメですか?」
「はい!」
即答だった。
真剣な表情で見上げてくる八重香に理由を尋ねれば、至極簡潔な返事が返って来た。
「良く似合ってるので、切ったら勿体ないです!!」
なにが勿体ないのかディナートにはさっぱりわからず、困ったように小首を傾げるしかなかった。
「勿体ない?」
八重香は彼のその顔を見て、はっとした様子で彼の腕から手を離した。
自分の我がままが過ぎて彼が困っているのだと勘違いしたようで、しょんぼりと肩を落とした。部屋に飛び込んで来た時の勢いはもう見る影もない。
確かに美しい髪は目の保養だけれど、当の本人にしてみれば暑苦しいかもしれないし、鬱陶しいかもしれない。それなのに、見た目がどうのと言う勝手な理由で切るなと言うのは失礼だ、と気がついたのだ。
「我がまま言ってごめんなさい! 私、ディナートさんの髪が好きで……切るって聞いて驚いちゃって」
「これが……ですか?」
ディナートは己の髪の先をつまんで、不思議そうに眺めている。
八重香にしてみれば、彼の、信じられないという口ぶりのほうこそ信じ難い。
「月の光みたいで綺麗です。目の金色ともすごく合ってるし、それに……」
そこで言葉が途切れたのは、今までの思い出がどどっと押し寄せたからだ。
風に髪をなびかせてながら前を見つめる凛々しい背中。
怒りに爛々と目を燃えたぎらせた戦神のような姿。
寂しそうな微笑を浮かべていたあの夕暮れ。
死を覚悟した危機的状況から助け出してくれたあの日、彼に抱き上げられた瞬間、頬をかすめた髪の柔らかな感触にどれだけ安堵したか。
それに、初めてキスをした時は――と、そこまで思い返して思考停止に陥った。
どうしてそこまで思い出しちゃうのー!? と自分自身を責めても後の祭り。半年どころか一年近く昔のことだと言うのに、いまだに思い出せば恥ずかしくて仕方なくなるのだ。
真っ赤になって狼狽える自分に引き換え、目の前のディナートは冷静そのもの。その事実がさらに彼女の焦りに拍車をかける。
「それに?」
「え? あ、その……」
ディナートが先を促すが、八重香は赤い頬をしたまましどろもどろ。
「やっぱり何でもないです!」
もともと口が上手いわけでもないうえに、恥ずかしがり屋な側面もある八重香にとって、今しがた脳裏に浮かんだあれやこれやの思い出をさらっと口に出すなんてできるわけがない。
「これから暑くなるだろうし、短い方がすっきりして便利ですよね! ディナートさんなら短い髪も似合います」
あはは、と笑って誤魔化した。
「そろそろ失礼しますね。こ、これから仮縫いの予定が……」
確かに仮縫いの予定は入っているが、約束の時間は二時間ほど先だ。このままここにいては何ともいたたまれないので、退室する口実をこじつけてみたのだが、残念ながら彼女は最後まで言うことは出来なかった。
「やめました」
と、短い言葉で遮られたからだ。 あまりに短かかったので聞き取れなかった八重香は、きょとんとした顔で「え?」と聞き返した。
「髪を切るのはやめにしました」
「でも、暑いんじゃ……」
「そんなものどうとでもなりますよ。第一、去年の夏だって長いまま過ごしました」
確かに、去年の夏の彼も長髪だった。というより、再会した時から長かったけれど。(ファーストコンタクトの時は緊張していたし、彼の態度もよそよそしかったし、兜もきっちり被っていたので、全然覚えていない!)
「でも……」
「『でも』は無し。もう決めたので、ヤエカが何と言おうと変えませんよ」
更に何か言おうとした八重香の唇を人差し指でふさぎ、ディナートは楽し気に笑った。
「まったく。あなたには驚かされっぱなしだ」
彼の紡ぐ言葉の中、徐々に減ってきている敬語。八重香はとうに気づいていた。彼と自分の距離が縮まっているように思えて、気づくたびに嬉しくなる。
「あなたの髪のほうがよっぽど綺麗なのに。――まぁいいか」
ディナートの故郷では、銀の髪も金の目もありふれた色だ。彼にとってみれば、八重香の栗色の髪や、深い茶の右目と銀の左目のほうがよっぽど美しい。
だから、彼女の言うことはピンと来ない。が、普段我がままを言わない彼女がここまで必死で止めてくれるのは悪い気がしない。というよりむしろ嬉しい。長いままでいようと決めてみたもの、この先何年も伸ばしっぱなしではさすがに困る。
さて、どうしようかと考えた途端、いい案を思いついた。
ディナートは八重香に向かって、にっこりと笑いかけた。ついでに、八重香の唇をおさえていた人差し指もはなす。
「短くしない代わりに、お願いがあるのですが」
「……何でしょうか?」
何を言われるのかとおっかなびっくり見上げてくる八重香の姿に、ディナートの頬が緩む。彼女の困ったり、うろたえたり、真っ赤になる顔を見たくて、ついつい意地悪やからかいを口にしてしまう自分に呆れもするが、しかし自重しようとも思えない。ことあるごとにアハディスやカロルから『人が悪い』と言われたものだが、まったくその通りだと思う。
「このまま伸ばしっぱなしにしていてはどんどん長くなってしまうでしょう? できることなら、このくらいの長さを維持したいと思うのです」と言いながら、ディナートは二の腕の半ばほどを指さした。
腰や膝まで伸びたら、彼の言う通り手入れが大変そうだ。程よく長髪がベストだよね、と八重香も頷く。
「というわけで、このあたりで切ってください」
「えっ?」
傍に誰かいるのだろうかときょろきょろしたが、部屋の中には彼女たちの他に誰もいない。婚約者同士の語らいを邪魔してはいけないとばかりに、ディナートの部下たちは割と初期に退散しているのだ。
「え? え? えーー!? 私ですか?」
彼女がきょろきょろしている間も、ディナートの視線は八重香に固定されている。それに気がついた途端、彼の言いたいことも察した。八重香が自分を指さして問えば、ディナートは当然とばかりに頷いた。
「無理! 絶対曲がります、ぼさぼさになります、切りそろえるどころかとんでもないことになりますー!! 他の人にお願いしてくださいっ」
「嫌です。あなたにお願いしてるんです、八重香。もともと、他人に髪を触られるのは苦手なんです。でも、あなたは特別ですから」
他人に髪を切ってもらうには、どうしても無防備にならざるをえない。背中を晒し、首や頭部なんて無謀にそのもの、おまけに相手は凶器になりうる刃物だって持っているのだ。大丈夫だと自分自身をなだめてみたって、本能的に嫌だと思うのは止められない。
だが、何事にも例外はある。八重香がその例外だ。嫌だと思うどころか、彼女に触れられれば心地いい。
ディナートは、細く柔らかい指が優しく髪を撫でる感触を思い出し、目の前の八重香に気づかれないように小さなため息をついた。ああ、午後の仕事を全部放り投げ、彼女とふたりで草原にでも繰り出し、彼女の膝枕でゆっくり――なんて不真面目なことを考えているとはおくびにも出さない。
「でも、無理!」
「『でも』は無しって言ったでしょう」
「しかし、無理!」
「『しかし』も無しにしましょうか」
「だが、無理!」
「……『だが』も無しで」
「ならば、無理!」
「意味が違ってきてますよ、八重香」
「ぐっ!」
というわけで早々に八重香の『無理』攻撃は終焉を迎えた。
「私はあなた以外に触れられたくないんですが……。困ったな」
半分は本音だが、半分は八重香の良心に訴える作戦だ。
彼のもくろみ通り、八重香の良心はチクリと痛んだ。ついでに、特別だと面と向かって言われてときめきが止まらない。出来ることなら二つ返事で頷きたいけど、髪を綺麗に切る技術なんてない、と悩みに悩んだ。
「私、不器用だから綺麗に切れないですよ? 絶対不揃いになっちゃいますよ?」
「大丈夫。いつも一つに束ねていますし、失敗したって分かりませんよ」
「どんなに失敗しても怒りません?」
「私がそんなことで怒ると思いますか?」
絶対怒らない。八重香はふるふると首を横にふった。それが分かってるから、なおさら失敗が怖いんだけど、と心の中で呟いた。
「後悔しますよ?」
「絶対にし、ま、せ、ん」
ディナートは一語一語区切るように、キッパリと言い切った。彼の笑顔に弱い八重香はもう折れの姿勢に入っている。
「ほんとに?」
「試してみればいいでしょう? 仮縫いの時間までまだ間がありますし、私も今日は急ぎの用事はありません。好都合です」
退路は断たれた。おまけに、逃げる口実に使った仮縫いの時間がまだまだ先なこともバレていたと判明。
八重香はあはは、と乾いた笑いで嘘を誤魔化しながら観念した。
おずおずとした手つきで、しかし丁寧に髪を切る八重香の姿を、ディナートが満ち足りた顔で眺めていたことを、彼女は知らない。
余談ながら、八重香は意外に髪を切るのが上手で、彼の髪は綺麗に整えられた。間近に迫っていた結婚式にも支障はなく、そのことに切った本人が一番安堵したのだった。
以来、彼の髪を切るのは八重香の役目になった。
『あ。ディナートさんの髪、伸びたなぁ。そろそろ切らなくちゃ』
朝早くから遠出するディナートの支度を手伝いながら、八重香はふと思った。
彼の髪を切るようになってから、そろそろ一年になる。まだ慣れてはいないが、しかし、初めほどビクビクしながら切ることもなくなった。
でも、慣れかけのころが一番失敗しやすいんだよねと、最近はことさら気を引き締めて切ることにしている。
「さて。では行ってくるよ、ヤエカ。今日は早めに帰るから」
「行ってらっしゃい。気をつけて。あまり無理はしないでくださいね?」
答える八重香の頬に軽くキスをすると、ディナートはくすりと小さく笑った。
「今日は無理してでも早く帰って来たい気分なんですよ」
「結婚記念日……だから?」
無言で頷けば、八重香はぱっと顔を輝かせた。忙しいディナートを思って黙っていたが、本音を言えば二人で祝いたかったのだ。
「二ホンでは、一年目の結婚記念日を紙婚式と言うのでしょう? この前、お義父さんに教えて貰ったんですよ」
あわせて、紙にまつわるプレゼントをするものだとも聞いたディナートは、もうすでに八重香好みの装丁の日記帳を贈り物として用意している。が、直前まで内緒だ。
花束も懇意の花屋で予約してあり、帰りに寄って受け取る手はずになっている。受け取った八重香はどんな顔をするだろう? と想像するだけでも頬が緩む。
早く用事を済ませて帰りたいものだと出かける前から思う自分に内心で苦笑いしつつ、ディナートは館を後にした。
正面玄関のポーチまで見送りに出ていた八重香は、夫の姿が見えなくなるまで手を振っていたが、彼の姿が朝霧に消えると名残惜しそうにゆっくりと手を止めた。
「ディナートさん、覚えててくれたんだ」
呟きには喜色がありありと浮かんでいた。
『男なんてね、いい加減なもんですよ。記念日なんてすっかり忘れて知らんぷりですからね』と既婚の侍女たちが口をそろえて言うものだから、そういうものだと思って半ばあきらめていたのだ。
思いもよらなかった展開に嬉しくて、つい心の赴くままに「やったぁ!」とジャンプして、はっと我に返った。
誰かに見られたら「お行儀が悪いですよ!」と叱られるだろう行為。それも誰かに見られる確率の高い玄関先で。
八重香は肩を竦めて、そそくさと屋敷内へ戻った。
自室へ戻る足取りは軽い。
八重香の部屋の箪笥の一番上の引き出しには、今日、ディナートに渡そうと思っている日記帳が入っている。帳面自体はシンプルな市販品だが、表紙は布張りで刺繍が施されているものだ。完璧な美しさとは言えないが、色使いが繊細であり針目も丁寧だ。ひた向きで生真面目な性格を映したかのようなその刺繍は、八重香がほどこしたものだ。
裁縫の得意な侍女に教えを乞い、空き時間を利用してコツコツと仕上げた。
日記帳に挟んであるしおりも自作だ。装丁と共布をベースにしており、そちらにも小さな刺繍を入れてある。
しおりは八重香本人用にも一つ作ってあり、ひそかに「ディナートさんとお揃い!」と悦に入っている。
「ディナートさん、喜んでくれるかな?」
丁寧にラッピングしたプレゼントを胸に抱きしめて、窓の外に目をやった。
朝霧が晴れつつあり、東の空には赤い太陽が昇って来ていた。
本編完結一周年記念……のつもりが、二週間以上遅くなってしまいました。




