甘い香りは
痛い。
頭が痛い。
脈に合わせるように、ズキン、ズキンと痛む。
何で、こんなに痛いんだろう?
「う……」
声を出すと頭に響くけど、でも唸らずにはいられない痛さ! なんなの、これ。
それにすごく眠くて、まぶたが開かない。
ついでに全身がだるくて指を動かすのも億劫だ。
風邪でも引いたのかな。
今日の予定どうなってったっけ? 休んでも大丈夫かな。
ああ、もう。こっちにいられる時間、あと少ししかないのに困ったな。
うんうん唸りながら、そんな事を考えていたら、額にひやりとした何かが乗せられた。感触からして冷たい水で濡らした布のようだ。
冷たくて気持ちいい。
滲んだ汗を拭うように何度か押し当てられて、そのたびに痛みが和らぐような気がした。
けれどすぐにその布はいったんどこかに消えた。
気持ちよかったのに、と残念に思ってると、少し遠くで水音が聞こえて、それからまた額に乗せられた。
今度はずっと乗せられたままで、そうやって額を冷やして貰っていると楽だ。無意識のうちに強張っていた全身から力が抜けて、ふぅっと大きな吐息が口から洩れた。
ああ、やっぱり私、具合悪くて寝込んじゃってたんだ。
濡れたタオルを用意してくれて、看病してくれてるのは侍女さんの誰かかな。
お礼を言いたいけど、だるくてだるくて口もちゃんと動かない。
「無理しないで。もう少し寝てた方が良いよ」
──男!? 誰!?
侍女さんじゃない!
もしかして私、得体のしれない誰かがいるそばで寝こけちゃってるわけですか。
どうしてそんなことになってるんですか。
そもそも私は何をどうしてこんなことになってるんだろう。
早く起きなきゃ。状況は全くわからないけど、とりあえずのんびり寝てるのは良くないよね、と気持ちは焦るのに、体は全然動いてくれない。どうして!?
「大丈夫。誰も君に危害は加えない。安心して」
と言われて安心する人がどこにいる!
「……だ、れ……?」
「ごめんね。もう少し休むと良いよ。次に起きた時はもう少し楽になってるはずだから。──じゃあ、また後で」
誰だか分からないその人は、私の質問を完全に無視して言いたいことだけ言う。
「待……って……」
「悪いけど、僕はこれでも忙しくてね。残念ながらゆっくりしていられないんだ」
衣擦れの音がして、誰かが立ち上がる気配がした。同時に、何かがふわりと香る。
あれ? 何だろう? この匂い、どこかで……。
どこで嗅いだ?
答えはすぐそこにあるように感じられた。なのに、頭痛と異様な眠気に阻まれて、思考の手は空を切る。
せっかく覚醒しようとしていた意識は、再び黒い霧に覆われて、呆気なく眠りの淵に落ちてしまった。
どのくらい眠っていたのか、次に目を覚ました時はやけに寝起きがよくて、スイッチがオンに切り替わったみたいにパチッと意識が戻った。途端にさっきのやり取りの記憶が怒涛のように押し寄せてきて怖くなった。
さっきはぼんやりしてたからかあまり恐怖を感じなかったけど、よくよく考えてみたらすっごく怖い状況だったんじゃないの!?
さっきのやり取りが夢だったのか現実だったのかは別として、私の感覚としてはすぐ直前の出来事だったように思えたので、上掛けを蹴り飛ばす勢いで跳ね起きた。
心臓がバクバク言ってたはずが、周囲を見渡して凍り付いた。
「ここ、どこよ……」
荒く削られた石を積み重ねて作られた壁。触れてみると石独特のひんやりとした感触があった。部屋全体がひんやりしているのはこの壁のせいかもしれない。
私の座っているベッドの頭側の壁に窓がひとつあって、そこから日差しが入り込んできているので部屋自体は明るい。けれど、陰気な印象がぬぐえないのは、岩壁の存在以上に、異常なほど高いところに設置されたその窓のせいだ。私の身長では窓の外を見るのはおろか、窓枠に手をかけることもできない。眺望を楽しむのではなく、ただ換気と明かり取りのために作られた窓だ。
その窓の向かい側に扉が一つ。鉄の枠で補強されていてかなり頑丈そうだ。
部屋の中央には質素なテーブルと、椅子がふたつ。
それだけ。
どこをどう見ても、聖女宮の自室じゃない。
どちらかと言えば、西の砦の部屋に似てる。けど、西の砦の扉には鉄格子がはまった覗き窓なんてついてなかった。
これじゃまるで……
「牢獄……?」
そんな感じだ。しっくりくる答えを探し当てた事でなんとなく納得してしまいそうになったけど、よく考えてみたら──いやよく考えなくても──何も解決してないでしょうが!
どうやら、私はまだ寝ぼけてるらしい。頭痛はほとんどなくなったけど、まだ体がだるくて調子が出ない。そのせいもあってか頭が上手く働かない。ちょっと気を抜くと散漫になってしまいそうな思考をかき集めて、何とか考え事に集中してみる。
まず、私はどうしてここにいるのか。それから考えることにした。
一番新しい記憶は、なに? ──ああ、そうだ。宰相主催の昼食会に出席して、ルルディと一緒に聖女宮へ戻ったんだ……。
あの日以来、ディナートさんとはずっとぎくしゃくしていて、どうやったら元に戻れるのか分からなかった。
話しかけても返ってくるのは素っ気ない返事ばかりで、話しかけるたびに、話しかけるための勇気はしぼんでいった。
完全に無視だったわけではなくて、必要な事は彼からも話しかけてくる。だから。もうそれだけでいいや、高望みはしないことにしよう──そう自分に納得させていた。
けれど、周りにはそう言う雰囲気が伝わっちゃっていたようで、昼食会の帰りの馬車の中でルルディにも言われちゃった。
「ねぇ、エーカとディナートは喧嘩でもしたの?」
と。
事情をどう説明したら良いか分からなかったので、当たらずとも遠からずな曖昧な返事をしたのだけれど、ルルディは私の言葉以上に何かを察知したらしい。
「もう! 貴女達って本当に不器用よね。ここまで来ると馬鹿だわ、馬鹿!」
言いながら、私の頬をむにむにとつねる。痛くはないけど、なんでそんな事をされなきゃいけないのかさっぱり分からない。
「ふぁ、ふぁに!?」
「『何!?』じゃないわよ。しっかりしないさいよ、エーカ。もっと正直にならなきゃ。今のままで後悔しないの? 自分の気持ちと向き合わなくて良いの?」
だって、それじゃディナートさんの迷惑にしかならない。
異世界に去る人間が「好きだ」なんて重い気持ちを彼に押し付けて帰っていいの?
こっちに残って告白をする場合、「あなたが好きだからこっちに残りました」なんてこれまた重たい気持ちを押し付けることにならない?
どっちにしたって、好きだなんて言えないじゃない。
それなのに好き勝手なことを言わないで。貴女と私は違うんだから。
私はルルディの手を振り払った。彼女は驚いたような顔もせず、ただじっと私のほうを向いている。
「ねぇ、ルルディ。私が素直になったら何が変わるの? 誰が幸せになるの? ただあの人を振り回すだけだよ。そのぐらいなら……」
「自分ひとりが我慢する方がいい?」
のぞき込むように聞いてくるルルディに向かって頷いた。
「エーカの馬鹿! 少しは我まま言いなさいよ! 言ってみてよ!」
「私だって言えるものなら言いたいよ! でも……でも……出来ないんだもん仕方ないじゃない。言ったら困らせるって分かってて言えるわけないでしょ!」
ルルディはソヴァロ様と相思相愛で、どんな困難にも二人で立ち向かえるから。だからそんなことが言えるんだよ。
私だってディナートさんとそう言う関係だったら……。それならきっと……。
「何で最初から、出来ない、言えるわけがないって決めつけるの? 本当はエーカは傷付くのが怖いだけなんじゃないの?」
「違う!」
「そう? じゃあ、貴女はディナートを見くびりすぎてるのね」
「見くびる? そんなこと」
「してるじゃないの。彼は大人よ? 貴女の気持ちを受け止めるくらい出来るわ。それを自分の中でどう消化するかは彼自身の問題。そうでしょう? なのに貴女は言わないって言うのよ。それってどういう事かしらね」
ルルディは手にしていた扇をぱちりと閉じて、横目で私を見た。
もしかして、この気持ちは打ち明けてもいいの?
彼の負担になることが嫌で、それしか考えていなかったけれど……。
そっか、彼は私の告白ぐらいで揺らぐような人じゃない。言われてみれば確かにその通りだ。
「男を振り回すのは女の特権らしいわよ? 少しぐらいその特権を行使したっていいじゃない」
「ルルディってば」
「ま、貴女の性格じゃすぐには行動に移せないかもしれないけど、まだ時間はあるんだし頑張ってね。石頭の勇者さん!」
茶目っ気たっぷりにウインクするから、ついつい私の頬も緩んだ。
ルルディの話が終わると同時に馬車の進む速度が落ちて、ゆっくりと止まった。
護衛のセラスさんが扉を開け、ルルディと私は馬車を降りた。
「私はまだ仕事が残ってるからこれで失礼するわ。また今度ゆっくりおしゃべりしましょ」
その時にはもっと良い話が聞きたいわ、と最後に言い置いたルルディはセラスさんと一緒に執務室へと消えて行った。
残された私は、ディナートさんに部屋まで送ってもらって。
侍女さん達とのおしゃべりを楽しみつつお茶をして。
それから……。
それから?
──ああ、そうだ。思い出した。
ルルディの話が気になって、ひとりで考え事をしたくなった私は、侍女さん達に散歩をしてくると告げて部屋を出たんだ。
聖女宮の中、それも部屋の近くの庭園をちょっと回るだけのつもりだったから、伴は要らないと断った。
花が咲き乱れる庭を一人で巡って、途中の四阿に座ってぼんやりと考え事をした。
ルルディの話、部屋まで送ってくれたディナートさんの取り付く島もない態度、自分で切った期限のこと、そして告白するべきかどうか。とりとめもなく考えて、考えて、考えた。
そして……
会ったんだ。
いつも不思議な甘い香りを纏っているオレストさんに。
そうだ。
ぼんやりしていたらいつの間にか彼が目の前に立っていて、いつものようにちょっと照れたような人懐こい笑顔で
「また隣の女の子からお菓子を沢山もらっちゃったんです。食べるの手伝っていただけませんか?」
と、小箱に入ったお菓子の詰め合わせを差し出した。
道に迷った一件以来、オレストさんとはたびたび顔を合わせている。
そのたびに新しいお菓子をくれるんだけど、どうやらそれは隣の研究室を使っている女の子からもらったものらしい。
彼は甘いものがそんなに得意ではないのに、なぜか隣の子はオレストさんが甘党仲間だと思い込んでいて、毎日のようにおすそ分けをくれるという。
苦手なら断ればいいのにと思うけど、彼はその女の子が気になるみたいで断れないというか、仲間だと思われていることが嬉しくて言い出せないみたい。
そしてお菓子の処分に困ったオレストさんはいそいそと私へお菓子を分けてくれる、と。
二人で並んでお菓子を食べつつ、彼の話を聞くのが実は私の新しい楽しみだった。
差支えのない範囲で語ってくれる研究の話は新鮮だし、隣の部屋の女の子の話も聞いてて凄く楽しかった。少しだけ羨ましかったりもしたけれど。
あの日もそうやって、オレストさんからもらったお菓子を食べた。
たくさんの花が咲き乱れる庭園の真ん中にある四阿には、花の甘い香りが流れてきていた。
お団子くらいの大きさのお菓子。丸くて固くて、少し透き通ってる。涼しげな色合いのそれをつまんで口に近づけると、花の芳香に負けないくらい濃厚に、砂糖菓子特有の香りが鼻をくすぐった。
口に含んで軽く歯を立てると、外側の固い部分がカシュッと崩れて、中からとろりとした液体が流れ出した。途端、口の中に甘い香りが広がった。菓子の甘い香りじゃない。もっと硬質で、薬草に似た甘い香り────そう。いつもオレストさんからかすかに香る甘い香りに似ている。
ボンボンに似たそのお菓子の構造を知らなかった私は、おかしいと思いつつ、流れ出た液体を反射的に呑み込んでしまっていた。
「これ……?」
吐いた息まで甘く匂った。
「な、に?」
くらり、と視界が揺れる。目の焦点が合わない。
体が急にだるくなって、座っていることさえ出来ない。バランスを崩して倒れ込みそうになった私の体を、固い腕が抱き留める。
「大丈夫、毒じゃありませんから」
まぶたも開けていられなくなって、急速に意識がブラックアウトしていく中で、そう囁く声が聞こえた気がした。
その先は?
いくら記憶を探ろうとしてもその先が思い出せない。
もしかして、あれが最後の記憶?
だとしたら、私をここに連れてきたのは……
「オレストさんが?」
信じたくないと思いながら、名前を呟いた。
「僕が、どうかしました?」
一人きりだと思っていた部屋の中で突然声が聞こえて、心臓が止まるぐらい驚いた。反射的に部屋の隅まで飛び退いて壁に背をつけてから、声のした方を見る。いつの間に現れたのか、さっきまで閉まっていた扉が開いていて、神官の白いローブをまとったオレストさんがそこに寄りかかっていた。
いつもと同じように、人の良さそうな笑顔を浮かべて立っている。けれど、今までとは決定的に何かが違う。
私の中で、本能的な何かが警鐘を鳴らす。
この男は異質だ──と。




