交錯する思慕
「少し散らかっていますが、どうぞ」
「失礼します」
ディナートさんに促されて彼の執務室に入った。扉を押さえていてくれた彼は、廊下にいるらしい誰かに向かって二人分のお茶を持ってくるように命じている。
ディナートさんが散らかしてるなんて珍しいなぁと思ったけど、目の前に飛び込んできた光景になるほどと頷かずにはいられなかった。ドアの真正面、大きな窓を背にする形で置かれている執務用の大きな机。その上に書類が山のように積まれている。
加えて応接用のテーブルの上には地図が広げっぱなしになっていた。確かに几帳面なディナートさんにしては珍しい。
「すごい……」
「何がです?」
「書類が山になってるとこ、初めて見ました」
それも山は複数。ディナートさんの机の半分を使って峻険な山脈を築いている。
こういう書類の山って、漫画や小説の中だけじゃないんだ……と妙な事に感心した。
「ああ。これですか」
ディナートさんは苦笑交じりに、机の上の紙の山を軽く叩く。そんなことしたら雪崩が起きるんじゃない!? 見てるこっちが冷や冷やする。
昨日帰って来たばっかりなのにもうこんなに仕事があるなんて、副団長って大変なんだなぁ。それとも西の砦に行っている間に少しずつ溜まったもの? どっちにしても大変そうだ。
一枚だけ別に置かれている紙を見つけた彼はそれを手に取ってざっと視線を這わせたあと、山の一番上に重ねた。きっと彼がいない間に部下の誰かが置いて行った物なんだろう。
「お仕事忙し……」
「ご心配には及びません」
忙しいなら出直します、と言い終わる前に、彼は小さく首を振って否定した。
「今日中にやらなければならないものは全て終わらせてあります」
机から離れたディナートさんはもう紙の山から興味を失ったようで、テーブルの上に広げられた地図の片づけに取り掛かっていた。くるくると丸めて紐でくくり、机の上にポンと放つ。
いつも丁寧な物腰なのに、彼もたまにはこんな横着をするんだと少し面喰いつつ、私の意識はまだ机の上の紙の山に置いたままだ。
あの山が消えて、一枚も増えなくなる時、ディナートさんはここを去る。彼に課せられた特別任務は終わったんだから、通常の任務に戻るのは当たり前のことだ。それを嫌だと思ってしまう自分はなんて身勝手なんだろう。
「さ、どうぞこちらへ」
促されて我に返った私は、あわててソファに腰を下ろした。次いでディナートさんも私の真正面に座る。
タイミングよく給仕係さんがお茶を持って現れたので、彼女が慣れた手つきで給仕するのを黙って眺めていた。
その間にどう切り出すか悩んでみたけど、いい案は思い浮かばなかった。給仕係が退出する頃には、なるようになれと少し投げやりな気持ちになってた。
私たちの間には良い香りのするお茶の入ったティーカップが二つと、彩り鮮やかなお菓子が盛られたお皿が一つ。お茶の爽やかな匂いと、お菓子の甘い匂いが鼻孔をくすぐるけど、手を付ける気にはなれなかった。
くすくすと忍び笑う気配がしたので顔を上げると、ディナートさんが悪戯っぽく目を煌めかせながら笑っていた。
「貴女が甘いものに手を出さないなんて珍しいですね」
「えっ? やだ、いつもそんなにがっついてませんてば!」
「さて、どうでしたでしょうか」
ムキになってした反論は、しれっとかわされた。上手い返しを思いつかなくて押し黙ると、彼は楽しそうに声を立てて笑った。
けれど、すぐに真顔に戻って、私のほうにずいっと身を乗り出した。
「で、お話と言うのは?」
突然切り出されて、言葉に詰まった。
「私、まだ混乱してて、どこから話したら良いか分からなくて……」
「では、思いつくままにお話ください。疑問が湧いたらその都度、質問をさせていただきます。話の腰を折ることがあるかも知れませんが、構いませんか?」
「はい」
「時間はたっぷりあります。焦らないで。良いですね?」
彼はそう念を押して、私の目をのぞき込んだ。
彼の言葉に頷いたものの、まだ思いきれなくて、何度も口を開きかけてはつぐんだ。
じっと見つめていては逆効果だと思ったのか、彼は私から視線を外して目を伏せた。
短くはない時が流れても、ディナートさんは急かしたりしないで待ってくれている。
テーブルのあたりへ伏せられた目に、長いまつげが濃い影を作って憂いを帯びているようにも、全てを受け入れているようにも見える。彼の顔に浮かぶ静謐な色が気持ちを落ち着かせてくれて、私はようやく口を開くことができた。
話を纏めようと思うから迷うわけで、なら無理をしないでただ順を追って話せばいい。
「今日の午後、ルルディと会う約束をしていたんです。それで、水鏡の間へ通されて……」
母が先代の聖女だったこと、母が私にかけていた術のこと、そして左目のこと……。
長い時間をかけて全てを話し終えた時には、喉がカラカラになっていた。冷え切ったお茶を一気に飲み干しても、渇きは収まらない。
それを察したディナートさんが優雅な手つきで新しいお茶を淹れてくれた。
薄い琥珀色をしたお茶がカップに注がれた途端、湯気と爽やかな匂いが立ち昇る。
ふぅふぅと息を吹きかけて冷ましながら、一口含めば少しの渋みと微かな甘みが口の中に広がった。
「美味しい……」
喋り疲れた体に染み入るような香りと熱に、強張った肩の力が抜けた。同時に、頭の中がずいぶんクリアになっていることに気づいた。さっきまであんなに濁っていたのが嘘のようだ。
ああ、そうか。実はシンプルな問題だったんだね。
いま私が悩まなきゃいけないのは、自分の生まれのことでも、母のことでもない。
私自身の将来のこと、それだけだ。
これまでは日本に帰還することしか考えていなかった。けれど、今日、もう一つの選択肢が生まれた。
この世界に残留すること。
選択肢が増えたことは、自由の幅が広がったのではなくて、ただ迷いが増えただけのような気がしてならない。けれど、それでも選べないよりはずっといい。
「話しているうちに、だいぶ落ち着きました。ありがとうございます」
「私で良ければいつでも。貴女がこうして頼ってくださるのは、私にとって嬉しい事ですから」
そんな風に柔らかく笑うから、つい彼の言葉を鵜呑みにして甘えたくなってしまう。
だから、ほら……
──ねぇ、ディナートさん。私が帰ったら、少しは寂しいと思ってくれますか? 残ると言ったら少しは嬉しいと思ってくれますか?
そんな浅ましい質問が口を突いて出そうになった。
絶対に言っちゃいけない言葉だ。
帰るのも、残るのも、私の意思だ。そこに彼を巻き込んじゃいけない。
なのに。
なのに。
彼が帰れと言うなら帰るし、残れと言うなら残りたい──どうしてこんなことを考えてしまうの。
私は、狡い。うんざりするほど狡い。
自分がこんなに醜い人間だったなんて、今まで知らなかった。
口からこぼれそうになる気持ちを押し込めたくて、私は俯いてティーカップあたりに視線を固定した。いまディナートさんを見たら、止められなくなりそうで怖いから。
視界の端に、膝の上で組まれた彼の両手が見え隠れしたけれど、それすら見ないようにしながら、苦いものを無理やり呑み込む要領で喉に力を入れた。そして勝手に口が開かないように、唇の裏側を噛む。
冷静に、ならなきゃ。
私はディナートさんを好きだけど、でも彼にとっての私は危なっかしくて手のかかる弟子でしかない。そんな人間にいきなり依存されたら迷惑以外の何物でもないでしょう?
私の葛藤を知ってか知らずか、ディナートさんは肺の中の空気を吐き切るように大きなため息をつくと、体を起こした。俯いたままの私には見えなかったけれど、衣擦れの音で彼が背もたれに身を預けたことは分かった。
「貴女は選ばねばならないのですね。帰るか、残るかを」
感情の見えない声が、私の上に降ってくる。
「はい」
と答える自分の声が妙に上ずって、彼に考えていたことがばれるんじゃないかと焦った。
「期限は切られているのですか?」
「いえ。でも、一か月後くらいまでには答えを出そうと思います。その頃には出席しなければいけない行事も終わりますから」
「一生を決める選択に一か月とは短いですね」
「それ以上悩んでも、時間の無駄だと思います」
それにこちらでの時間が経てば経つほど、日本とここをつなぐ道の軌跡が薄れてしまい、向こうを出た時間と帰還する時間にズレが生じてしまうらしい。それはルルディがいくら調整しても避けられなくて、すでに数日の誤差は覚悟しておいてねと言われている。
「そうですか」
ディナートさんの返事がやけに固く、そしてどこか上の空に聞こえて、不安になった私はつい顔を上げてしまった。
彼の名前を呼ぼうと思ったのに、出かかった声は喉で消えた。
真正面に座った彼は、片手を口に添えて、何かを考えているような素振りでじっと一点を見ている。そうやってディナートさんが考え込む姿は別に不思議じゃない。
けど、いつもと違っていたのは、今まで私が見た事ないような顔をしていること。
感情が消えた顔は氷というより、研ぎ澄まされた刃に似ている。不穏な黒を混ぜたような酷薄さを感じて、知らないうちに肌が粟立っていた。
「それで、貴女は……」
ゆらり、と視線が動いて、私を捉える。低く呟かれた声にいつもの温かみはなくて、答える代りに息を飲んだ。
底光りする目は威圧的で、見つめられているだけなのに、喉を締められたように息が苦しい。
「ディナート……さん?」
震える喉から絞り出した声は小さくて届かないかに思えたけれど、彼は我に返ったような顔になった。
「ああ、すみません。少し考え事をしていました」
その考え事ってどんなことですか? あんなに怖い顔をして──。
知りたいけど、聞くのは怖い。
だから何事もなかったかのように受け流した。ただ、やっぱりぎくしゃくした空気が残ってしまって、席を立つ切欠も失ってしまった。このまま別れたら、次に顔を合わせる時に気まずくなるような気がする。
当たり障りのない雑談を挟んで、せめて部屋の空気が普通になったら席を立とう。
「ずいぶん片付いちゃいましたね」
悩んだ末に思いついた話題は、そんなことだった。ちょっと唐突かなと思ったけど、でも変ではないはず。
机の上には書類がうず高く積もっているけど、他の部分は随分がらんとしている。部屋に入った時からなんとなく違和感を感じていたのだけれど、ようやくその正体が分かった。
一面の壁を埋め尽くすように置かれている背の高い本棚は空っぽだし、マントルピースの上にも、カップボードの中にも何も置かれていない。そこだけを見ればまるで誰も使っていない部屋のようだ。
「そうですか? 後でバタバタするのは嫌なので、不要になったものから返却したり処分したりしていますが」
「昨日帰ってきたばかりなのに?」
「旅立つ前、留守を預ける部下に命じておいたんですよ。ひとたび戦場に出れば、帰ってくる保証はありませんからね」
事もなげに言うけれど、私は胸の奥が冷えるような嫌な緊張を覚えて拳を握った。
戦うことを生業とすることは、死と隣り合わせで生きる事だ。ディナートさんはそう言う人なんだ。そう言う職業を選んだ人なんだ。
それを改めて突きつけられたようで、握った拳が震える。
「さて。そろそろ部屋までお送りしましょう」
ディナートさんが立ち上がり、ぼんやりする私の横をすり抜けて、開け放したままのドアへと向かった。
途端に、薄いガラスの膜が剥がれるような気配を感じる。ああ、そうか。声が漏れないように簡単な結界を張ってくれてたんだ。
「ヤエカ殿? どうしました?」
「あ、いえ。ごめんなさい」
途中で足を止めた彼に、不思議そうに顔をのぞき込まれたので、私は頬に熱が上がるのを感じながら慌てて立ち上がった。
「では行きましょう」
前に向き直ったディナートさんは、そのままドアへと向かう。私の目の前には彼の広い背中がある。
いつも近くにいたからあまり気にしていなかったけれど、この背中は私以外の──たくさんの人を、国を守る背中だ。
この先、彼はいつか守るべきものを守るために、私の知らないどこかで命を落とすかもしれない。
日本に帰った私は、きっと彼が大怪我をしても命を落としても、そんなこと知らずに呑気に生きていくんだ。
それでいいの?
でも、こっちに残ったって彼を止めることなんて出来ないよ?
そんなことを考えて足を止めているうちに、彼の背中が遠ざかる。
待って。行かないで。まだ、もう少しだけ!
後先なんて考えられなくて、私はとっさにディナートさんの手首を掴んだ。
「ヤエカ殿?」
いぶかしげな声音で名前を呼ばれて顔を上げれば、眉根を寄せて険しい顔をしてる彼の視線とぶつかった。
「あ……の! ディナートさんは、これからどうするんですか?」
「これから、とは?」
「もうすぐ国へ戻るんですよね? そのあとは?」
「今まで通り、近衛騎士としての務めを果たすだけです」
それ以外に何がある? と言わんばかり素っ気ない答えに、気持ちがみるみるしぼんでいった。
「もうよろしいですか? そろそろ手を離して頂きたいのですが」
不快そうに眉根が寄せられている。手を振りほどかれはしなかったけど、明らかに迷惑そうな顔をされてはこれ以上引き留めたりできない。私は慌てて手を離した。
ここまであからさまに拒まれたのは初めてだ。彼を本気で怒らせたのかと怖くて震えが止まらない。
「ごめんなさい」
「申し訳ありませんが、私には触れないでいただきたい。でないと私は──何をしでかすか分からない」
「え?」
「御身が可愛ければ、不用意に近づかぬことです。私は貴女が思っているほど、聖人でも賢者でもない」
それは、どういう意味?
「ああ、ちょうどいい。──カロル!」
廊下の先に、長身の影があった。燃えるような赤い髪と、均整の取れた体は間違いようもなくカロルさんだ。
振り返った彼は、私たちの微妙な雰囲気を敏感に察知したからか、しまったと言う顔をしつつ、それでも上官の命令には逆らえずディナートさんの前までやってきた。
「副団長、私に何か?」
「ヤエカ殿を部屋までお送りして差し上げろ」
「はっ!」
カロルさんの敬礼に鷹揚に頷いて、それから私に向き直った。
「ヤエカ殿、申し訳ありませんが私はこれで失礼いたします」
「え?」
「私がいないほうが貴女のためだ。では」
呆然とする私をよそに、彼はマントを翻しながら去って行った。
「──今度はいったい何が起きたんです?」
呆れたようにため息をついて天井を仰ぐカロルさんに、私は答える言葉を持っていなかった。




