雨の降り続く夜のこと
言葉は必要なかった。ディナートさんの広い胸の中にいるだけで、頭の中の混乱がおさまっていく。
悲しい気持ちも、苦しい気持ちも、やるせない気持ちも全部抱えたまま、けれどもう混乱は収まっていた。頭の芯がすっと冷える感覚がして、焼けるようだった胸や喉の強張りがとけた。
今回のことはずっと忘れられないし、忘れたくないし、忘れちゃいけない。
けど、ここに留まっていることだって出来ない。
悲しくて立ち止まるのは、多分やっちゃいけないことだから。だから、自分の足で一歩前へ出なきゃ。
とりあえず泣くのをやめて、彼の腕から出ることから。
「……もう、大丈夫、です」
身を預けていた胸に軽く手をついて身を起こすと、ディナートさんはそれに合わせて腕を解いた。感じていたぬくもりが消えて、体が寒さに震えた。
あたりはすっかり真っ暗になっていて、でも雨はまだ止んでいなかった。
今さら醜態が一つ増えたって彼は気にしないだろうけど、でも泣き腫らした顔を見せるのは恥ずかしくて、顔が上げられない。
「ヤエカ殿?」
「長い時間引き留めちゃって、ごめんなさい」
失礼だと分かっていたけど、でもどうしようもなくて俯いたまま謝った。
頭上から小さく息を吐く音が聞こえた。雨の音に消えてしまいそうにかすかだったけれど、でも至近距離にいた私の耳はしっかりと拾っていた。
今の……ため息だよね?
無茶なことしたり、考えなしの行動をしたり、挙句勝手に傷ついて凹んで泣いて。
そういう情けないところを糾弾されているような気がしてドキリとした。
「体、冷えちゃいましたよね」
ディナートさんから何か言われるのが怖くて、私は彼が口を挟む隙を作らないように早口になる。
「え、っと。風邪ひいたら皆に迷惑かけちゃうかもしれませんし、私、そろそろ部屋に戻りますね。ディナートさん、今日はありがとうございました。あの、ディナートさんも遅くならないうちに……。──じゃ、私はこれで!」
言い終わるか終わらないうちに脱兎のごとく逃げ出した……つもりだったんだけど。
「待ちなさい」
背後からかかった声に、びくりと肩が跳ねた。けど、聞こえないふりでやり過ごそう。
私は振り返らないでそのまま回廊へ向かう。
回廊の床はピカピカに磨かれてるから、こんなびっしょり濡れたまま歩くのは申し訳ないなぁ。少し服や髪の水滴を絞ったほうがいいかな。でもそんなことしてたらディナートさんに追いつかれちゃうから気まずいよね、なんてことをわざと考えて、彼の声を意識から締め出して。
「なぜ私を見ないんですか」
それは。
「本当に大丈夫なら、ちゃんと私の目を見て言えるでしょう」
聞こえない。だから振り返らない。
回廊を踏みしめるブーツがカツンと高い音を立てた。その周りにぼたぼたと水滴が落ちて、あっという間に小さい水たまりが出来た。お掃除係の人、ごめんね。たくさん汚しちゃいそう。
「ヤエカ殿!」
肩を掴まれて強引に振り向かされた。彼の髪から滴る雫が、私の頬に落ちて滑る。顎を上向くように抑えられて、身動きどころか顔を背けることも出来ない。
暗いかげりを宿した金の瞳がじっと私を見下ろす。その中に込められた感情の正体は分からないけれど、でもひどく真剣な眼差しで私は純粋に怖いと思った。
彼を怖いと思うのはこれで二度目だ。西都での夜が脳裏によみがえって、背筋を冷たい震えが駆け上がった。忘れたはずの恐怖心が鎌首をもたげ、『あれはただの警告だったんだ』と言う理性の声を突き破って顔を出しそうになる。それを唇を噛むことで抑えて、軽く深呼吸をする。
「離して。肩、痛い」
本当はそんなに痛くないけど、逃げ出す口実はそれしか思い浮かばなかった。
ディナートさんは我に返ったような顔をして、私の顎と肩から手を引いた。
「あ……ああ、これは失礼を」
無表情だった顔に困ったような微笑が戻ってきて、私は心の底からホッとした。
「無理をなさっているのではないかと思ったら、つい。申し訳ありませんでした」
「いえ、私のほうこそ。こんなパンパンに腫れた顔、見られるのが恥ずかしくて」
隠したかった顔はすでに見られちゃったので、開き直ることにした。もう泣いてないよ、復活したよの意味を込めて、金の目をじっと見つめる。
「本当に、もう大丈夫なようですね。良かった。それではみんなのもとへ戻りましょうか」
「はい。今日はみんなで一緒に晩御飯なんですよね? ご馳走だって侍女さん達が言ってました」
「そうですか。それは楽しみだ」
半分くらい空元気だけど、出来る限り明るい口調で答えたら、彼からもいつも通りの穏やかな反応が戻ってきた。そのことに安心して小さく息を吐いた。ディナートさんには少しも嫌われたくない。嫌われたんじゃなくて良かった。
「ところでヤエカ殿。この格好のまま室内に入っては大迷惑だと思いませんか?」
「ですよね。どうしましょう? 誰か呼んでタオルでも持ってきて貰います?」
そのぐらいしかやれることはないと思うんだけど。
「それより良い方法があります。良いですか、よく見ていてくださいね」
言うなり彼から力の気配がした。
途端、ひゅんと風が動いてディナートさんの銀の髪がさらりと靡いた──って。えっ!? なぜ濡れた髪が軽やかに靡くの? と言うより濡れてない!? 何、なに、何でっ!?
よく見ていてくださいね、と言いつつ一瞬なんだもん、見てる暇なんてなかったよ!?
「え? ええええ!? 何が起きたんですか」
「簡単です。表面の水を吹き飛ばしたんです。さすがに完全に乾かすことはできませんが、部屋に戻るぐらいなら支障がない程度には乾かせます。さぁやってみてください。くれぐれも服や自分の体を傷つけないでくださいね」
突然の師匠モード!
服や体を傷つけるなって……ちょっと待ってよ!
「そんな繊細なこと私に出来るわけないじゃないですか!」
コントロール出来なくて、訓練場の備品、何度も吹っ飛ばしてますけど!
うっかり、なぎ倒ちゃった木って何本ありました!?
いや、確かにあの時からはかなり成長したけど、でも。でも。
「出来ないからやらないと言っていては、いつまでも出来るようになりませんよ。何かと応用のきく便利な使い方です。使えるようになっておいて損はないでしょう?」
にこにこにこ。
お顔はとてもにこやかなのに、全身から有無を言わせない迫力が……。
鬼だ。鬼師匠がここにいる。
やらなきゃ許して貰えない。でも失敗したらディナートさんの前で洋服大破。
これをピンチと呼ばないで、何をピンチと呼べばいいの。
「早くしないと風邪を引きますよ。それに夕食にも遅れてしまう。きっとみんな主役である貴女の到着を待っているでしょうねぇ?」
待たされて可哀想にと言いたげな目。無言の嫌味にますます追い詰められる。
「今の貴女なら難なく出来ると思うから申し上げたんですよ。さぁ、信じてやってみてください」
今度は甘い言葉が飛んできた。
ええい! やってみればいいんでしょ!
ディナートさんがやったみたいに体の中から力を引き出して。風に雫が飛ばされるイメージを作る。
その瞬間、耳元でひゅっと風が唸った。どこも痛くないし、なんとなく全身が軽くなった気がする。恐る恐る目を開けて、あちこち確認してみたけれど、破けたところも傷もない。
出来た?
と問うようにディナートさんを見上げたら、「良くできました」と言いながら頷いてくれた。
「おおー! 一発合格! 私、結構凄くないですか!?」
「優秀な弟子で私も鼻が高いですよ。簡単すぎたようですので、じゃあもう少し難しい技に挑戦してみましょうか」
「えー!! も、もういいです。こんなドキドキハラハラするのはちょっと」
「そんなに遠慮しなくても良いですよ」
「遠慮じゃないです!」
室内に立ち入れる状態になった私たちは、そんな軽口を叩き合いながら長い長い廊下を歩いた。
それからは怒涛だった。──ような気がする。
着替えるために部屋に戻ったら、侍女さん達にばっちり目の腫れを発見され、ぎりぎりまで冷やしつつ着替えを手伝って貰って。
押し出されるようにして部屋を後にし、引っ張られるようにして大広間へ連れて行かれた。
大広間に入るとすでに騎士のみんなは席についていて、たくさんの目が一斉にこっちを向いた。無言の圧力を感じて、肩身が狭い……。
お腹空いてるよね、待たせちゃってごめんなさい! って心の中で謝りながら給仕さんの後をついてゆく。
遠くにディナートさんが見えた。いつもの黒い制服に着替えてて、何事もなかったかのような穏やかな顔をしている。目が合うと、煌めくような笑顔が飛んできた。ドキッとするからそう言うのはほんっとやめて欲しいんだけど!
「こちらです」
と案内してくれた給仕さんが椅子を引いたのは、上座のど真ん中の席。
え、本当にここ!? 目線で問うと、彼は当然と言わんばかりに頷いた。それどころか、「何か問題でもありますか?」と言いたげに小首を傾げられてしまった。
上座、それも真ん中なんておこがましい気がして落ち着かないけど、そう決まってるなら仕方ないよね。
私は彼の手を借りて席についた。
右手には西方騎士団長さんが、左手にはディナートさんがついてくれている。左側に彼がいるとやっぱり安心する。私は誰にも気づかれないように小さく息を吐いて、肩の力を抜いた。
私が最後の一人だったようだ。席に着いてすぐ、白いドレスのルルディがやってきて、みんなにねぎらいの言葉をかけた。
ルルディは立場上一緒にご飯を食べることは出来ないことを残念がり、今日は思うさま食べて飲んで旅の疲れを癒すようにと締めくくった。
彼女が挨拶を終えると、それを合図にしたかのように沢山の料理が運ばれてきた。部屋中に声にならないどよめきが起こる。これが旅の途中で出されたものならきっと耳を塞ぎたくなるくらいの大歓声が起こっていたんじゃないかな。美味しそうな料理が次から次へと出てきて、広い部屋だと言うのにあっという間に食欲をそそる匂いが満ちた。
みんなが料理に気を取られているうちに、ルルディはそっと出口に向かって歩き出した。同性の私が見ても惚れ惚れするような微笑を口元に刷いている。
去り際、彼女は私の席の後ろを通る時に足を止めて、
「明日の午後、予定を空けておいて」
と小声で囁いた。急に何でそんなことを言い出すのか不思議に思ったりもしたけれど、何か大事な話でもあるのかなって思ったので急いで頷いた。
「ん。分かった。空けておくよ」
「詳しいことは後で知らせるわ。じゃあね、エーカ。たくさん食べて!」
私の肩をポンポンと叩くとそれきり振り返ることはなく、お付きの人を従えてそっと部屋を出て行った。




