仮面の下は見えない
無理矢理表現があります。ご注意ください。
いつものディナートさんからは想像も出来ない暗い笑顔。
仮面めいたその表情に、一層不安が募る。どうしてこんなことになったのか。何を思ってこんなふうに追い詰めるのか。何をどう考えたらいいのか。彼の顔に答えを求めても、何も返ってこなかった。
「さて。では改めて伺いましょうか」
吊り上がった唇から洩れる彼の言葉が、甘く掠れている。
こんな状況にいるのに、怖いと思っているのに、その甘さにどきりと心臓が跳ねた。
「どうせあの男から言い寄られたんでしょう?」
言い寄られたなんて冗談じゃない。
それとも『私に彼の呪縛を断ち切るお手伝いをさせて頂きたい』――あれが口説き文句だとでも言うの?
「あれはそう言うんじゃなくて!」
「『あれ』ですか。やっぱり彼との間に何かあったんじゃないですか」
「あ……」
語るに落ちた。
「でも、あれはディナートさんが思ってるようなことじゃありません!」
「では、なに?」
混乱する頭で、それでも懸命に答えを引っ張り出した。時折ひくりと喉が引き攣れて上手く話せない。
「私が……ディナートさんに頼りっぱなしなのは、間違ってるんじゃないかって」
顔の脇で拘束されていた左手が解かれた。
ああ、良かった。誤解だって分かってくれたんだ。
「それだけなんです。だから、心配は……」
いらないと言おうとしたら、苛立たしげな舌打ちが落ちてきた。
「何を言ってるんですか。的中じゃないですか」
「え?」
自由になったと思っていた左手が、右手と一緒に纏められて、頭の上で押さえつけられた。ディナートさんの長い指が、私のおとがいをするりと撫でる。あんなに心地いいと思っていた彼の指が、今はただ怖かった。逃げるように顔を背けたら、掴まれて強引に引き戻される。
「私から貴女を離して、その後、あの男は貴女をどうするんでしょうね?」
「どうって……何も……」
「貴女に途方もない価値を見出す輩がいる――私は以前、そう言いましたね? それは何も暗殺を意味するだけじゃない。貴女を手中におさめて意のままに操ろうとする者もいるんですよ。あの男がそういう輩でないと言い切れますか?」
「そんな……」
ことはないとは言い切れなくて、口を噤んだ。
「貴女は国を救った英雄だ。貴女自身にその気がなかろうと人心を動かせる存在なんですよ。聖女に反旗を翻すことだって不可能じゃない」
「それは大袈裟……」
「つい先ほどのことを忘れたんですか? あの民衆の熱狂を」
頭の中に、数時間前に見た街の様子が思い浮かんだ。
沿道に並んだ人々の上気した頬、期待を含んだ瞳。そして凱旋を喜ぶ声。
「誰かの良いように利用されて、貴女はそれでいいんですか?」
「嫌に決まってます」
「嫌だと言っても、貴女を操る術などいくらでもあるんですよ。貴女や、貴女の大事な友人の命を盾に脅迫する。術や薬で洗脳する。まぁそれらの強引な方法は下策ですけどね」
鼻先が触れるほど、彼の顔が近づいた。細められた目の奥で金の瞳が光る。
「最善なのは、貴女から自発的な協力を受けることができる方法。つまり貴女を籠絡すること、ですよ。ここまで言えば貴女にももう分かるでしょう?」
野望を胸に隠して、私に好きだと言ってくる人が出ると? そう言うこと?
「そんなのには――」
「屈しない? 貴女らしい回答だ」
唐突に拘束が解けた。けど、すぐには動かせなかった。強く拘束されていたせいか、動かそうとしたら肩と肘に痛みが走る。痛みに顔を顰めつつ、ゆっくりと腕を下ろして胸の前で組んだ。
早く感覚が戻らないと抵抗もできないから。早く血が巡りますように。関節の痛みも和らぎますように。
私の手を解放したディナートさんは、一度上体を起こし、それから私の顔の横に両肘をついた。肩のあたりでゆるく結ばれている銀の髪がサラサラと零れ落ちて、私の頬をくすぐる。
「では、こう言うのはいかがですか? 国家転覆を図るほど大それたことは考えていないが、国内での絶大な影響力を欲している人間がいたとしましょう。元勇者の夫と言う地位はその男にとって魅力的ではありませんか? 腕ずくで貴女を攫いに来たらどうしますか」
「げ、撃退します」
私は術が使える。この国に術を使える人は少ないし、コントロールに難はあるけど私はそれなりに使える。少なくとも吹き飛ばすことは出来ると思う。昨日だってあれ以上テリオさんが何かして来たら吹き飛ばすつもりでいたし。
「そうですか。良いでしょう。では撃退してみてください、この私を」
好戦的な声で嗤う。
「出来ません!」
「どうして? まぁ出来ないと言うならそれはそれで構いません」
いっそ優しいとも言える手つきで、私の髪を弄ぶ。次にどういう行動に出るのか分からなくて、私は固唾をのんで彼を見つめた。
「あんな男に奪われるくらいなら、いっそ私のものにしてしまおうかと思いましてね」
首筋にディナートさんの唇が落ちた。軽く食まれて、熱い舌がちろりと肌を這う。
ぞくりとした感覚が背筋を這い上がり、その得体のしれない感覚に体がびくりと跳ねた。
「やっ!? やめっ……」
自由になった両手で彼の肩を押し戻そうともがいても、微動だにしない。布越しに感じる彼の肩は固い筋肉に覆われていて、私が足掻いたってどうしようもないと言う事実を突き付けられた。
そうやって暴れている間にも彼の唇は、徐々に胸元へ向かって降りていく。
「ディナ、トさっ」
「こうして貴女を奪って、私のものにして。元の世界に帰れないように屋敷の奥に閉じ込めましょう。貴女はずっと私のそばにいればいい」
彼の手が背中へ差し入れられた。冷たい手が何かを探る様に背中を這い、背中のリボンがその手で解かれた。その途端、緩んだ胸元に冷えた空気が入り込んだ。
背中に回された手はそのままだ。自然と胸元が彼に向かって突き出される体勢になる。それだけでも恥ずかしくて泣きたいのに、ディナートさんは私の首筋から胸元にかけて指を何度も這わせて、それからドレスのふちギリギリの場所にキスを落とした。肌にちくりと小さな痛みが走る。
すぐに唇を離したディナートさんは、今しがた口づけた部分を指でなぞって、満足そうに笑った。彼が何をしたのか、見なくても分かった。きっとそこには赤い痣が刻まれているんだろう。
「嫌、だ。離し……て……」
自分でも驚くぐらい弱々しい声だった。
「誰か……」
「無駄ですよ。助けは来ない。絶対にね」
嗚咽混じりに助けを呼ぶ声は、彼の嘲笑うような声に遮られた。
「結界……?」
「正解。よくできました」
彼の笑顔に、絶望的な気分を味わう日が来るなんて、夢にも思ってなかった。見開いた目の端から熱い雫が零れた。
ディナートさんの舌と指がそれを掬う。
「こんなの、やだ」
ディナートさんのことは好きだ。
私が好きだって言ったらディナートさんには迷惑にしかならない。だから打ち明けないでおこう、この気持ちは思い出にしてしまおうって思ってたくらいには大好きだ。
彼が心から私を望んでくれるのなら、向こうの世界へ帰れなくても……なんて考えたりもした。
けど、これは……
「違う……。ディナ、トさん、離し……て。おね、がい……」
「――そんなに嫌なら本気で抵抗すればいい。貴女の力をもってすれば私を殺すことなど造作もない。やりなさい。出来ないなら、私はこのまま貴女を抱く。どんなに嫌がってもやめない」
歌うように優しく穏やかな口調で言い放つ。そこに本気の色を見て、私は更に絶望を覚えた。
このまま何も考えないで、成り行きに流されてしまえる性格だったらよかったのかもしれない。でも私には無理だ。こんな形で彼のものになるのは絶対に嫌だ。
「ごめんなさい。私はディナートさんのことが好きです。でも、こう言う形であなたのものになるのは嫌です。だから……」
彼の胸のあたりに片手をかざした。そこに少しだけ力を加えれば、彼を跳ねのけられる。
「え?」
手に溜めたはずの力が放出出来ない。どうして?
動揺しているからミスしたのかもしれない。
もう一度!
「あ、あれ?」
何度試みても、手に溜めた力が放出出来ない。おかしい。いくら何でもこんなことはあり得ない。
焦る私をよそに、ディナートさんがくすくすと忍び笑いを洩らした。
「力が操れない?」
「何故それを!?」
「だって、貴女の力を封じていますからねぇ。――出来るんですよ、一部の術者にはそう言うことが」
彼は赤く濡れた唇をにっと吊り上げた。
「さぁ、次はどうやって抵抗してくれるんですか? 折角ですからもう少し楽しませてください、ヤエカ」
そう耳元で囁いて、耳たぶを甘噛みする。
「ぅあ……」
混乱と、恐怖と、甘い疼きが絡み合って、胸を苛む。




