そばにいて
はじめはただ、熱くて痛くて、そして寒くて苦しかった。
意識は泥のように重い闇に囚われていて、目を開けることもできない。と言うより目があることさえ忘れていた。
自分のつく荒い呼吸音だけが聞こえる。全身が酷くだるくて、息をつくことさえ私から体力を奪っていくようだった。
時々誰かの声が聞こえた気がしたけれど、それは本当にかすかで、聞こえたと思ったそばから、ぽろぽろと耳からこぼれていった。
たまに目を覚まそうと言う意志が生まれるのに、ぬかるんだ闇に足を捕られて引きずり戻される。それを何度も何度も繰り返して。そのうち、泥のような闇さえ消えて、ぽっかりと開いた虚無に意識が落ちていった。
その頃には、もう痛みも苦しみもなかった。
このまま終わるのかもしれない。自我も曖昧になった頭でそんなことを考える。けれど、そう思うことすら億劫だった。
全て終わると思った虚無のその底で、私は誰かと会った気がする。
そしてその誰かから、長くて、悲しくて、愚かで、たまらなく人が恋しくなる話を聞いたような……
――そんなふうに、私は、長い長い夢を……見た。
単なる悪夢と言うには悲しすぎて。
意識が急速に浮上する間、ずっとずっと泣いていた。
泣いて、泣いて。
目が、覚めた。
夜だった。
目を開けたと言うのは分かったのに、自分が目を覚ましたんだと理解するまでに少し時間がかかった。
私、どうしてここにいるんだっけ? ここはどこ? ようやく焦点の合った目でぼんやりと仄暗い闇を見つめた。
さっきまで漂っていた闇とは違う、現実という質量をもった闇だった。
遠くから聞こえてくるのは虫の音なのか、それとも耳鳴りなのか。りりり、と言う音だけが耳に響いていた。
凝り固まった筋肉を無理矢理動かして、首をゆっくりと横に向けた。それだけの動作も、今の私には汗が滲むくらいの重労働だ。
遠くのテーブルに置かれた燭台で小さな明かりが揺れている。それにつられて石壁に出来た影が生き物のようにゆらりゆらりと踊っていた。
何となく見覚えのある家具の配置。
ここは……?
「……っぁ……」
出したはずの声は掠れて音にならない。
もう一度声を出そうと大きく息を吸い込んだら、口の中が異様に乾いていて思いきりむせた。とは言え咳をするほどの力もなくて、喉の奥がひゅうひゅうと鳴っただけ。喉が焼けつくように痛いし、息も苦しくて目尻に涙が浮かんだ。
「ヤエカ……殿?」
掠れた声が私の名を呼んだ。
部屋の暗がりから小さな衣擦れの音がして、するりと人影が視界に現れた。燭台の明かりを弾いて輝く銀の髪。
夢を見ている間じゅう、ずっと会いたくて、会いたくて、会いたかった人。
「……ぅ……」
彼の名前を呼びたいのに、まだ声は出ない。少し唇を動かしただけなのに、乾ききっていたためか、あちこち裂けた。鋭くて小さな痛みに思わず顔を顰める。
「慌てないで。まずは水を――」
水、と聞いて初めて自覚した。私はとても喉が渇いている。一度覚えた渇きは、すぐに耐えられないくらいになって、私は急いで起き上がろうと足掻いた。
なのに、体を上手く動かせなくて上体を起こせない。焦れば焦るほど、どうやって起きたらいいのか分からなくなってくる。
見かねたディナートさんが「失礼」と短く一言告げた。私の背中に腕を差し入れて体を起こす。
口にそっと宛がわれた杯には、水が満たされていた。涼やかな水の匂いが甘さを持って鼻をくすぐる。喉がぎこちなく鳴った。
杯を持つ彼の指に、震える手を重ねて貪るように飲んだ。
「そんなに慌てては体に障ります」
たしなめる声が聞こえたけど、歯止めなんてきかない。飲みきれなかった水が口の端から喉もとにこぼれても、それを恥ずかしいと思う余裕もなかった。
全部飲み干すと、さっき咳が出来なかった分を取り戻すみたいに、盛大にむせた。
ディナートさんの手が、宥めるように私の背をゆっくりさする。おかげで咳はすぐに収まって、私は彼の手でまた元のようにベッドへに寝かされた。
「ディナ……ト、さん……」
どのくらい長い間寝ていたのか分からないけど、久々に声帯を使うからか上手く声の調節が効かない。普通に名前を呼んだつもりが、私の喉から出たのは随分と弱々しく、不自然に揺れる声だった。
「どうしました?」
穏やかで優しい声が問い返す。子供をあやすように髪を撫でる彼の手に、不意に泣きたくなった。
ああ。そうだ。思い出した。私は……核を壊したんだった。それから――
「終わった、んですよ、ね?」
「ええ」
目を細めて微笑を浮かべる彼を見上げて、違和感を感じる。その違和感の正体が何なのか最初は分からなくて、それからゆっくりと理解した。
私、顔に怪我したんだった。そっか。包帯で半分顔が覆われてるんだ。片目で見ているから変な感じがしたんだ。
そばにいるのにいつもより遠い気がして、私はのろのろと腕を伸ばした。
その手を、ディナートさんがぎゅっと握る。彼の力強さにこれが夢じゃないって実感が湧いて、私は大きく安堵のため息をついた。
「まだ夜明けまでには間があります。もう少し眠ったほうがいい。詳しい話はまた後で」
彼は有無を言わさない口調でそう告げて、握ったままの私の手の甲に口づけた。まだぼーっとしたままの私は、彼の仕草を当たり前にように受け止める。
おやすみなさいを言ってしまったら、この温もりはまたどこかへ去ってしまうんじゃないか。そんな気がして、思わず力いっぱい彼の手を握り返した。ただ、弱り切った体が出す握力なんて大したことなくて、握り返したのを彼が分かってくれるかどうかも怪しかったけど。
「そばに、いて……眠るまでで、いい、から……行かない、で」
「何処にも行きませんよ。ずっとそばにいます。安心して眠りなさい」
ベッドの端に彼が浅く腰を掛けた。重みでベッドが少し沈む。そのことに安心して、私は目を閉じた。途端に睡魔が襲ってくる。
「起きた、ら……沢山、お話を……した、い……ん……」
最後までしゃべらないうちに、私は意識を手放した。
手放す瞬間、ひたいに暖かくて柔らかいものが触れたような気がしたけど、その正体を考える暇もなかった。
久々の安らかな眠りは、唐突に終わった。スイッチが切り替わるようにパッチリ目覚めた。
頭もかなりスッキリしてて、朝日が溢れる部屋を見ていたら、もう寝ていられないと思うくらい元気だ。と言っても元気なのは頭だけで、首から下はまだ怠くって、正直言うと動かすのが面倒だ。
んー。これはたぶん長いこと寝ててご飯食べてないからっぽいなぁ。昔、酷い風邪を引いて三日ぐらい寝込んだ時の感覚を思い出した。あの時と同じようなだるさだもんなぁ。
なんて考えてたら本当にお腹がすいてきた。
ああ、お母さんの作ったお粥が食べたい。でも、視界に映る光景は確実に自分の部屋じゃないし、そもそも日本ですらない。お粥は――夢のまた夢。ううう。尚更食べたくなってきた。
「あー……お腹、空いた」
ぼそりと呟いた途端、すぐ近くで吹き出す声が聞こえた。
えええ!? 誰もいないと思ったのに!!
「ディナートさん!? い、いつからそこに!?」
「いつからって……ずっとですが?」
もしかして、薄ぼんやりと記憶にある真夜中のあれは、現実だったんでしょうか!?
うわ!! 私、「そばにいて~」なんて、とんでもなく甘ったれたことをぬかしてしまったような気がするんですが。
赤くなってるはずの頬を隠したいのに、ゆっくりとしか腕が動かない! これじゃディナートさんの視線から隠す前に見られちゃうじゃん。
狼狽えに狼狽える私に、ディナートさんはこの上もなく嬉しそうな視線を注いでくる。布団の中に頭のてっぺんまで潜ってしまいたい。
とりあえず、毛布を目の下まで引き上げて顔を半分隠してみた。毛布の下から「すみません」ともごもご謝れば、彼の笑みはますます深くなった。
「だいぶ良くなったようですね」
私の額にかかった髪を払う彼の手を、ぼんやり眺めているうち、大切なことに思い至った。
「ディナートさん! 怪我はっ!?」
私に向かって伸ばされていた手をガッと握った。自分でもビックリするぐらい素早い動きで、ディナートさんも目を丸くしていた。
あの時、怪我したでしょう? 言い逃れは許しませんよっ! そんな意味を込めてじっと彼の目を覗き込む。
「え……? 一番にそんなことを聞きますか……」
呆れたような声で言われた。そんなことって何よ!? 私、凄く心配してたのに。
「そんなことって!!――……っ!?」
無理矢理起きようとしたのがいけなかったのか、酷い眩暈に襲われて倒れ込んだ。
「ほら! 無理しない! 私は大丈夫ですよ」
何がどう大丈夫なのか、それじゃ全然分からないよ!
反抗的な目で見ても、ディナートさんは全く取り合うつもりがないらしい。元通りに寝かされて、毛布を掛けられた。
「話は後です。何か食べるものを持って来させましょう。――少しお待ちください」
さっと体を起こした彼は部屋のドアを開けて誰かを呼んだ。
ぼそぼそと漏れてくる廊下での会話をぼんやり聞くともなしに聞きながら、私は窓の外の空を見た。あれから何日経ったのか分からないけれど、今日も快晴だ。
ゆっくりと毛布から出した左手のひらは、火傷の痕ひとつない。確かにあの時、焼けたはずなのに。
では、私の顔は? 左半分にかなり被ったけど、もうこの手みたいに治ってるんだろうか? なら、この包帯はなぜ?
疑問は尽きない。
ああ、早く寝ていた間に起きたことを聞きたい。
かざすのに疲れた左手をベッドに投げ出して、私は大きなため息をついた。




