炭酸水
「あんたなんか、顔も見たくないわ」
放課後の教室。西日が差し込む窓際で、僕、柏木奏太は、今日も今日とて氷の刃で切り刻まれていた。声の主は、一ノ瀬冬香。黒髪ロングに切れ長の瞳、誰もが振り返る美少女だが、僕に対してだけは親の仇のように冷たい。
「ご、ごめん……教科書、忘れたっていうから貸そうかと……」「いらない。あんたの菌が移る」冬香は長い髪をファサリと翻し、友人の元へと去っていった。残された僕は、手にした教科書と共に立ち尽くす。クラスメイトからの「またやってるよ」という視線が痛い。完全に嫌われている。脈なしどころか、心肺停止だ。
これが他の人にも冷たかったらよかったのだが、自分以外へは優しい。自分以外の人間と和気あいあいとした雰囲気で会話をしている様子を見ていると、何か嫌われることでもしただろうかと自問自答を繰り返す。しかしながらなんど問答を繰り替えしても答えは出ない。だったら関わらないようにすればいいのだが、一ノ瀬のことを嫌いになれない。彼女のことを自分は好きだからだ。しかしながら彼女は自分のことが嫌いなようで、このかなわぬだろう恋についてそろそろあきらめようかと考えていた。
とぼとぼと帰路につく途中、僕はふと、校舎裏の旧体育館へ足を向けた。最近、SNSで奇妙な噂が流れていたからだ。『旧体育館の裏には、好きな人の嘘を暴く自動販売機がある』まさかな、と思いつつ、雑草をかき分けた先。そこに、そいつは鎮座していた。錆だらけの赤いボディ。見本缶はすべて色褪せていて、ラベルにはマジックで雑に「?」と書かれているだけ。電源コードはどこにも繋がっていないのに、ブーンという低い駆動音が響いている。
「これが……噂の」
コイン投入口の下に、テプラで注意書きが貼ってあった。『代金:あなたの嘘ひとつ。商品:あの人の本音ひとつ』
馬鹿げてる。そう思ったが、僕の口は勝手に動いていた。
「……今日、本当は風邪気味じゃない。学校をサボりたかっただけだ」カチャン。硬貨を入れたような音がして、ボタンがボゥッと青白く光った。ゴクリと喉が鳴る。僕は震える指で、一番右端のボタンを押した。ガコンッ。取り出し口に転がり落ちてきたのは、冷えた微炭酸のサイダー。そして、その缶には一枚のステッカーが貼られていた。
『対象:一ノ瀬冬香』『嘘:あんたの菌が移る』『本音:やばい、意識しすぎて顔熱い。近づかれると心臓の音がバレる』
「は……?」時が止まった。なんだこれ。ドッキリか?いや、誰がこんな手の込んだことを。心臓の音がバレる?あの冷徹な一ノ瀬冬香が?僕を意識して?プシュッ。缶を開けてサイダーを煽る。強めの炭酸が喉を弾いた。甘い。嘘みたいに甘くて、でも痛いほどリアルな味がした。
***
翌日から、世界が変わった。冬香に「邪魔」と言われても、脳内で『照れ隠しだ』と変換できる。今まで心に刺さっていた氷柱が、春の日差しで溶けていくようだった。僕は『ウソハン』に通い詰めた。「宿題忘れたって言ったけど、本当はゲームしてた」カチャン。『嘘:私のことなんか見なくていい』→『本音:もっと見て。今日の髪型、自信あるのに』
「親の財布から五百円抜いたことがある」カチャン。『嘘:別に、柏木くんのことなんて何とも思ってないし』→『本音:夢に出てくるくらい好き。でも、私なんかが素直になれるわけない』
ニヤけが止まらない。僕は無敵だった。彼女の態度の裏側にある「デレ」を独占している優越感。だが、代償は静かに、確実に僕を蝕んでいた。
「柏木、この前の数学のノート見せてくれよ」友人に頼まれた時、僕は反射的にこう答えていた。
「嫌だ。お前、字が汚いから貸すと変な折り目つきそうでムカつくんだよ」「えっ……」友人の顔が引きつる。教室の空気が凍る。違う、そんなこと言うつもりじゃ――。
「あ、いや、今のは!」「……お前、そういう奴だったんだな」友人は離れていった。僕は自分の口を手で覆った。嘘がつけない。いや、オブラートに包むことすらできなくなっている。『代金:あなたの嘘』自販機に嘘を捧げすぎたせいで、僕の中の「建前」という在庫が底をつき始めていたのだ。
他人の嘘を暴く代償は自分の嘘をつく能力だと気づいたのはうそが言えなくなってから。本音で生きるというのは他者との摩擦が起きる。でも嘘を暴いたことは後悔したくなかった。
そんなある日。クラスで衝撃的な噂が流れた。「一ノ瀬、親の転勤で来月引っ越すらしいぞ」心臓が早鐘を打った。嘘だろ。いや、それこそ嘘であってくれ。僕は放課後、冬香を呼び止めた。
「一ノ瀬!転校って本当かよ?」冬香は悲しげに目を伏せ、すぐにいつもの冷たい仮面を被った。「あんたには関係ないでしょ。……せいせいするわ」
関係ないわけあるか。僕は走り出した。旧体育館裏へ。確かめなきゃいけない。あの言葉が強がりなのか、本当の拒絶なのか。夕闇の中、自販機は怪しく光っていた。僕は前に立ち、代金となる嘘を口にしようとする。「……僕は」言葉が詰まる。
「僕は、一ノ瀬のことが……」嫌いだ、と言おうとして、喉が痙攣した。言えない。嘘がつけない。僕の心はもう、本音だけで満たされてしまっていた。「くそっ、動けよ!」バンバンとボタンを叩くが、自販機は沈黙を守っている。『在庫切れ』のランプが、僕の愚かさを嘲笑うように点滅した。
その時、気づいた。僕は今まで、冬香の「嘘」を暴くことに必死で、自分自身の「本音」を彼女に伝えたことがあったか?機械越しに彼女の心を知った気になって、安全地帯からニヤニヤしていただけじゃないか。彼女が「せいせいする」と言った時、どんな顔をしていた?ステッカーの文字じゃなく、彼女の表情を、声の震えを見ていたか?
「……馬鹿野郎」僕は自販機を蹴り飛ばし、踵を返した。走れ。代償なんて関係ない。嘘がつけないなら、好都合だ。
***
校門を出た先の坂道で、冬香の背中を見つけた。夕焼けが、彼女の長い影を伸ばしている。
「一ノ瀬!」息を切らして叫ぶと、彼女は驚いたように振り返った。
「な、なによ。あんなに急に走り出して……」「嘘をつくな!」僕は叫んだ。喉が熱い。「せいせいするなんて嘘だろ!僕は……僕は、君がいなくなるなんて嫌だ!」冬香が目を見開く。僕は止まらない。制御できない本音が、ダムが決壊したように溢れ出す。「顔が見たくないなんて言うな!僕は毎日見たい!君の意地っ張りなところも、本当は優しいところも、全部好きなんだよ!」
静寂。カラスの鳴き声だけが遠くで響く。やってしまった。全部言った。これでもう、引き返せない。冬香は顔を真っ赤にして、パクパクと口を開閉させている。
「あ……あんた、何言って……」「本音だ。もう僕は、一生嘘がつけない体になっちまったんだよ」僕は肩で息をしながら、一歩近づく。
「だから教えてくれ。君の本当の気持ちを。機械越しじゃなく、君の口から」
冬香は涙目で僕を睨みつけた。そして、今までで一番下手くそな、愛おしい嘘をついた。
「……バカ。大っ嫌い」言葉とは裏腹に、彼女の手が僕の制服の袖をぎゅっと掴んでいる。
「大っ嫌いよ。……行かないでって言ってくれないと、泣いちゃうくらい、あんたのことが好き」
その言葉は、どんな甘い炭酸水よりも、僕の胸を熱く満たした。僕は彼女の手を握り返す。もう、翻訳機なんていらない。僕たちの恋は、ここからようやく、本当の言葉で始まるんだ。




