326話 知らないまま、託される
イリスの過去②。
別の視点からみたお話。
それは、まだ世界が静かだった頃のこと。
玉座の間には、光が差していた。
朝でも夕でもない、時間の境目のような淡い光。
高い天井を渡るその光の下で、古代王家の王と王妃、そして――
ひとりの老齢の未来視者が向かい合っていた。
未来視者は、エルフの末裔だった。
かつてはこの世界の星々を読み、人の運命を導いた一族。
今や、その血を引く者は片手で数えるほどしかいない。
深く刻まれた皺。
白く長い髪。
長い耳。
その目だけが、不釣り合いなほど澄んでいる。
彼女は、手にした薄い書をゆっくりと閉じた。
占星盤と、星図と、いくつもの観測記録――
それらを束ねた預言書だった。
「……観測は、終わりました」
その声は、老いてなおはっきりとしていた。
感情を含まない。
ただ、事実を置くための声。
王は頷き、続きを促す。
王妃は、無意識に自らの腹部に手を添えていた。
「王家の血脈は、現在の分岐のままでは――」
未来視者は、一拍だけ言葉を置いた。
「三代を越えません」
玉座の間の空気が、わずかに揺れた。
「戦でも、疫病でもありません。内側から、ゆっくりと途切れていきます」
王は目を伏せ、王妃は息を呑んだ。
「それに伴い、この世界に編み込まれている“人の時代”も、同じく細っていくでしょう」
未来視者は、王妃を見ない。
誰かを責める言葉ではないからだ。
「回避の分岐は、存在します」
その一言に、王妃の指が強く握られる。
「ですが、そのすべてに共通する条件があります」
未来視者は、視線を玉座の間の隅へと移した。
そこには、透明な器が置かれていた。
水を満たしたその中で、虹色の幼体が、ゆっくりと揺れている。
生まれて間もない――
いや、生まれたという感覚すら、まだ持たない存在。
古代虹色スライム。
その、最後の個体。
「この子を通らない未来は、いずれも閉じています」
王妃の喉が、かすかに鳴った。
「……それは」
声にしようとして、言葉が続かなかった。
未来視者は淡々と続ける。
「契約ではありません。支配でも使命でもない」
その言葉は、まるで誰かの誤解を先回りして否定するようだった。
「“媒介”です。未来と現在を、繋ぐための」
王は、静かに立ち上がった。
「つまり――」
未来視者は頷く。
「未来へ、送るのです」
玉座の間に、沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、王妃だった。
「……あの」
声は、震えていなかった。
だが、かすかに掠れている。
「この子は……こんなにも、幼い」
王妃は、器に近づく。
その仕草は、無意識だった。
器の縁に手を置く。
指先が、わずかに震える。
王妃は、かつて命を失っていた。
形になる前に、消えてしまった子。
誰にも見せぬまま、胸の奥にしまい込んできた記憶。
そして今――
再び、腹の奥に、小さな命を宿している。
だからこそ。
「……まだ、生きることも、知らないのに」
それ以上、言葉は続かなかった。
未来視者は、静かに頭を下げる。
「存じています」
短い言葉だった。
理解している、という意味だけを含んだ。
「だからこそ、この子は“選ばれた”のではありません」
王が、王妃の隣に立つ。
「選ばれたのではない」
王は、はっきりと繰り返した。
「託されるのだ」
王は、未来視者と、長老のほうを見る。
古代虹色スライム族の長老は、沈黙を守っていた。
その沈黙こそが、覚悟の証だった。
「この子に、命を縛る契約は結ばない」
王の声は低く、揺るがない。
「使命という言葉も、使わない」
王妃が、ゆっくりと顔を上げる。
「ただ――」
王は、器の中の幼体を見る。
「未来へ、送り出す」
それだけだった。
幼体のイリスは、何も理解していない。
音が、振動として伝わるだけ。
光が、色として揺れるだけ。
自分が何者かも、
なぜここにいるのかも、
知らない。
それでも。
王妃の手が、そっと器に触れたとき、
その温度だけは、はっきりと感じた。
あたたかい。
やわらかい。
イリスは、理由もなく、その感触を覚えた。
「……この子は」
王妃は、かすかに微笑む。
「誰かに、触れられることを、
怖がっていない」
それは、祈りのような言葉だった。
長老が、初めて口を開いた。
「この子は、まだ何も知らぬ」
低く、重い声。
「知らぬまま、時を越える」
未来視者が、静かに補足する。
「そして、知らぬまま――
多くを、思い出すでしょう」
その言葉の意味を、
幼体のイリスは、理解しない。
けれど。
「未来」
という音だけが、
なぜか、体の奥に沈んだ。
それが、後に恐怖になることも、
力になることも、
この時のイリスは、まだ知らない。
ただ――
光と、声と、温度の中で。
何かが、
確かに、託された。
知らないまま。
ーーー367話へつづく
為政者側の視点で見た、
イリスの過去のお話でした。
次回は週明け月曜日に更新予定です。




