314話 静かな朝 - 戻ったはずの呼吸
朝の空気は、澄んでいた。
夜の冷えをわずかに残しながらも、確かに陽の気配が混じっている。
肌に触れる風は冷たすぎず、朝という時間が、きちんと始まっていることを告げていた。
アリアは足を止め、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
(……通る)
肺に空気が入っていく感覚は、昨夜よりもずっと滑らかだ。
途中で引っかかることも、胸の奥で止まることもない。
もう一度、少し深く吸う。
それでも、苦しさはない。
(大丈夫、そう)
そう思えたことに、アリア自身が一番ほっとしていた。
昨夜まで胸の奥にあった、言葉にしづらい引っかかり。
息をするたびに意識せざるを得なかった違和感は、今はほとんど感じない。
「……大丈夫そうだな」
そう口にしたのは、モルンだった。
いつもなら、もっと近くで様子を見ているはずの距離。
今朝は、半歩ほど引いた位置からアリアを見ている。
それは突き放しているのではなく、
「大丈夫そうだ」
と判断したからこその距離だと、アリアにも分かった。
「顔色も、昨日よりいい」
マコトも静かに頷く。
短い言葉だったが、そこに余計な警戒や疑いはなかった。
「うん。よく眠れた……とは言えないけど」
アリアはそう答えながら、軽く肩を回す。
関節はきちんと動く。
立ち上がれば、身体は素直に重心を支えてくれる。
歩こうと思えば、足は前に出る。
魔力の感覚も、昨夜ほど不安定ではない。
少し離れた場所で、シュウはいつも通りの距離を保っていた。
診察をするほどではない。
けれど、完全に気を抜いているわけでもない。
必要以上に近づかず、
それでも、何かあればすぐに動ける位置。
「数値的には問題ないよ」
その言葉は、夜明け前に確認した結果だった。
脈拍。
呼吸数。
魔力循環。
どれも、基準値から外れてはいない。
「……だから、今日は無理しなければ大丈夫」
慎重な言い方だった。
「完全に問題ない」とは言わない。
けれど、
「止める理由もない」という判断。
そのニュアンスを、アリアも正しく受け取った。
「分かった」
小さく頷く。
(戻った、よね)
昨日まで続いていた息苦しさはない。
胸の奥に残っていた熱も、意識しなければ分からないほどに引いている。
そう思った、その直後。
歩き出した瞬間、
ほんの一拍だけ、呼吸のタイミングがずれた。
(……今のは)
吸うべきか、吐くべきか。
一瞬、判断が遅れただけ。
立ち止まるほどではない。
誰かに指摘されるほどでもない。
アリア自身も、「気のせい」と片づけてしまえる程度の違和感。
(慎重になってるだけだ)
体調を崩した直後なら、
誰だって少しは呼吸や身体の感覚に敏感になる。
そう、納得できる範囲。
エリオットは、いつも通りの距離で歩いている。
足取りも、表情も、変わらない。
何も気づいていない。
それが、今はありがたかった。
ユリウスは少し後ろを歩き、
何度か視線を向けては、すぐに逸らす。
踏み込まないことを選んでいるのが、はっきり分かる。
(……みんな、優しいな)
アリアは、気づかれない程度に小さく息を吐いた。
その呼吸は、確かに朝の空気を胸いっぱいに取り込んでいる。
――戻ったはずだ。
そう思いながら、
アリアは歩みを続けた。
*
千里鏡の向こうで、ケイは静かに手を止めていた。
シュウから伝えられた症状。
呼吸の違和感。
胸の奥に残る、説明のつかない熱。
「……数値は安定。魔力循環も正常」
それだけを聞けば、安心していいはずだった。
けれど、ケイは診療録を閉じなかった。
そのまま、紙の縁を指先でなぞる。
病ではない。
少なくとも、彼の知る病では。
それでも――
嫌な感覚だけが、どうしても消えなかった。
「戻った、か」
誰に向けるでもなく、呟く。
医療の現場で、何度も見てきた。
回復したように見えて、
実は別の段階に入っていた例を。
数値は、嘘をつかない。
だが、すべてを語るわけでもない。
ケイは、深く息を吐いた。
(……まだ名はつけられない)
判断するには材料が足りない。
断定するには早すぎる。
だが、確かに。
何かが、静かに進んでいる。
千里鏡を閉じても、
その感覚だけは、胸の奥に残り続けていた。
ーーー315話へつづく




