304話 鍵に触れる夜 - まだ開かぬ白
遺跡を離れてからも、アリアの胸の奥は静まらなかった。
痛みではない。
けれど、確かに“鳴っている”。
歩くたび、呼吸をするたび、
内側で何かが応えるように、微かな鼓動が続いていた。
砂漠はすでに背後に遠ざかり、地面の色も少しずつ変わり始めている。
それでも空気は乾き、昼と夜の境目ははっきりとしていた。
「……アリア」
名を呼ばれて振り向くと、シュウが少し眉を寄せて立っていた。
「無理はしてないか。歩き方が、少し――」
「大丈夫」
反射的にそう答えたあと、アリアは小さく息を吐いた。
「ちょっと……変な感じはするけど」
シュウはそれ以上踏み込まず、荷袋から小瓶を取り出す。
「一応、今夜はこれを。脈を落ち着かせる薬草だ」
「ありがとう」
受け取った指先が、ほんの一瞬だけ震えた。
それを、エリオットが見逃さなかった。
「……無理はするなよ。そういう“変な感じ”って、大体ろくなことにならない」
「言い方」
ユリウスが小さく苦笑する。
「だが、気を張りすぎるのも良くない。今は休め」
「うん」
頷きながらも、アリアの意識は胸の奥に引き戻されていた。
――さっきより、少し強い。
ドクン。
まるで、何かが近づいているのを知らせるように。
*
夜。
焚き火の火が落ち着き、一行がそれぞれ休みに入る頃、
アリアは天幕の中で横になっていた。
完全に眠ってはいない。
けれど、目を閉じると、現実との境界が曖昧になる。
胸の鼓動が、また一つ、深く打った。
ドクン。
(……来る)
そう思った瞬間――
視界が、白に染まる。
眩しいわけではない。
ただ、音も影もない、静かな白。
床も壁も分からない。
けれど“部屋”のような感覚だけが、そこにあった。
「……」
声を出そうとして、やめる。
ここは――
入ってはいけない場所だと、本能が告げていた。
白の向こう側で、何かが揺れる。
文字のような、光の欠片。
まだ形にならない、意味を持たない断片。
(……まだ)
その瞬間、胸が強く鳴った。
ドクン――!
白がひび割れたように揺れ、
アリアは思わず息を呑む。
「……アリア……」
遠くから、声が聞こえた。
幼く、かすれた、確かな声。
「……まって……」
それ以上は、聞こえない。
白は霧のように薄れ、
アリアははっと目を覚ました。
*
天幕の中。
イリスが、アリアの胸元にぴたりと張りついていた。
小さな体が、落ち着かないように、ぽよ……ぽよ……と揺れている。
「イリス……?」
呼びかけると、イリスはきゅっと縮こまった。
「……へん……」
「なにが?」
「……ちかい……のに……だめ……」
その言葉に、胸の奥がひりつく。
アリアがそっとイリスを包むと、
一瞬だけ、イリスの表面を黒いノイズのような影が走った。
「……っ」
イリスは小さく震え、すぐにアリアにしがみつく。
「……こわい……でも……アリア……」
「大丈夫」
アリアは静かに撫でる。
「今は、まだ行かない。行かなくていい」
そう言い聞かせるように、何度も。
天幕の外。
月読猫が、焚き火の残り火のそばで目を細めていた。
「……触れたニャ」
誰に向けるでもなく、静かに呟く。
「だが、まだ早い」
その視線の先で、
イリスがアリアの胸に寄り添い、ようやく動きを止めた。
鍵は、確かにそこにある。
だが――
今は、まだ開かれない。
白は退き、夜は続く。
そしてアリアの胸に残る鼓動だけが、
次の扉が近いことを、静かに告げていた。
ーーー305話へつづく




