302話 嘘のない声 - 月読猫の選択
夜は、いつの間にか深まっていた。
焚き火の音も、仲間たちの寝息も、すでに遠い。 起きている者と眠っている者の境目が、あいまいになる時間。
アリアは目を閉じたまま、静かに呼吸を整えていた。
眠っているわけではない。
けれど、起きているとも言い切れない。
胸の奥に残る、あの鼓動。
まだ、完全には消えていなかった。
――ドクン。
はっきりした痛みでも、不安でもない。
ただ、確かに「在る」と主張する感覚。
(……まただ)
名付けないと決めたはずなのに、意識を向けるたび、そこに触れてしまう。
そのとき。
「起きてるニャ?」
声は、すぐそばから聞こえた。
驚くほど近い。
アリアがゆっくり目を開けると、月読猫がそこにいた。
焚き火の光も届かない影の中。
けれど、その金の瞳だけは、静かに輝いている。
「……月読さん?」
「うん。今なら、話せると思ってニャ」
責める調子でも、急かすでもない。
ただ“今”を選んだ、そんな声音だった。
アリアは上体を起こし、軽く膝を抱える。
「みんなは?」
「ちゃんと眠ってるニャ。これは“そなた一人に向けた声”ニャ」
少しだけ間を置いて、月読猫は尻尾を揺らした。
「怖いかニャ?」
問いは、胸の鼓動を正確に射抜いてきた。
「……少し」
正直に答えると、月読猫は否定もしなかった。
「そうだろうニャ。でも、それは悪い兆しじゃない」
説明はない。 代わりに、月読猫はアリアの胸元を見る。
「そこに残っているのは、“封じられた記憶”の反応ニャ」
アリアは息を呑む。
「……やっぱり」
「中身は、まだ見えないニャ。けれど、動き始めてる」
月読猫の声は、淡々としているのに、妙に優しかった。
「それって……いつか、全部思い出すってこと?」
「思い出す、というより――取り戻す、が近いニャ」
アリアは膝の上で指を組み直す。
「……教えてくれないの?」
そう聞いた瞬間、月読猫の尻尾が一度だけ止まった。
「わたしは、すべてを知っているニャ」
否定も、誇張もない声音。
「だが、語れば道が歪む。記憶は“与えられるもの”じゃない。自分で辿り着くものだからニャ」
夜が、さらに静かになる。
アリアは唇を噛みしめた。
「……ずるいね」
「ずるいニャ」
あっさりと認めて、月読猫は小さく鳴いた。
「でも、それでも――そなたは歩ける」
月読猫の視線が、ふと横に逸れる。
そこには、イリスがいた。
眠っているはずなのに、 いつの間にか目を覚まし、ぽよん、と小さく近づいてくる。
「……アリア……?」
不安げな声。
イリスは、アリアと月読猫を交互に見てから、迷いなく月読猫のそばへ寄った。
「イリス?」
「……つきよみねこ……うそ、ない……」
言葉は拙い。
けれど、迷いがなかった。
月読猫は、わずかに目を細める。
「……さすがニャ」
イリスは月読猫の影に触れ、安心したようにぷるりと震えた。
アリアは、その様子を黙って見つめる。
(本能的な信頼……)
理由は分からない。
でも、拒否する気にはならなかった。
月読猫が、もう一度アリアを見る。
「焦るなニャ。鍵は三つ。ひとつは、もう動き始めた」
「……残りは?」
「その問いに答えるには、まだ早いニャ」
そう言って、月読猫はくるりと背を向けた。
「今は、眠れ。歩く準備は、もう始まってるニャ」
影の中へ溶けるように、その姿が薄れる。
「月読さん!」
呼ぶと、足を止めずに一言だけ残した。
「――信じるニャ。忘れられたままでも、愛されていたことを」
その言葉が、夜に溶けた。
イリスが、アリアの膝に戻ってくる。
「アリア……だいじょうぶ……?」
アリアは微笑み、そっとイリスを抱いた。
「うん。大丈夫」
理由は分からないまま。
けれど、胸の鼓動は――
少しだけ、穏やかになっていた。
静かな夜は、まだ続く。
そしてその静けさの中で、 確かに“次の扉”は、待っていた。
ーーー303話へつづく




