292話 記憶の欠片 - 蘇る手のぬくもり
眩い砂光を抜けた瞬間、肺いっぱいに外気が流れ込む。
しかし安堵する暇などなかった。足元が震え、迷宮入り口の石壁が音を立てて崩れ始める。
「まだ揺れてる! 走れ、離れろ!!」
エリオットの叫びが風にちぎれていく。
アリアはイリスを胸に抱えたまま、後ろを振り返る。
さっきまでシュウが肩を貸し、プエルが必死に支えていたモルン——その小さな身体が、ついに力を失って膝を折りかけていた。
「ユリウス!」
「任せろ!」
騎士の一声が響くと同時に、ユリウスは砂煙の中を跳ねるように駆け寄り、ぐったりしたモルンを軽々と背負い上げた。
少年の体重なら問題ない、というより——仲間を守る訓練を積んだその動きは迷いがなかった。
「しっかり掴まってろ!」
「……うん……」
ユリウスが走り出す。
その後ろで、シュウが短く息をつき、プエルは小さな足で必死に追いかけた。
だが——本当の危機は、その直後だった。
轟音。
砂嵐が、まるで生き物のように巻き上がり、迷宮の入り口ごと飲み込もうとしてくる。
「アリア、離れるぞ!」
「ええ!」
アリアはイリスを両腕で包み込むように抱き締めた。
砂塵が突き刺さる。視界が白くかき消える。
その刹那——
アリアの胸の中で、イリスの小さな体がびくっと震えた。
「アリア……その、て……」
か細い囁きが、耳に触れる。
「なんか……あったかい……しってる……きが……する……」
アリアは息を呑んだ。
触れた瞬間、イリスの奥に眠る“何か”が確かに揺れた。
けれど同時に、イリスの瞳は混乱に揺れ、思い出そうとするほど痛みに耐えるように震え始めた。
「無理に思い出さなくていい。今は逃げるのが先よ」
「……アリア……いる……から……だいじょう……ぶ……?」
アリアは胸の奥が熱くなるのを感じた。
それが、何の感情なのか判別できないほどに。
「ええ。ずっと一緒にいるわ。だから——しっかり掴まってて」
目の前の砂壁が裂け、視界が開ける。
エリオットが風の魔法で道をこじ開け、ルクスの補助魔法が周囲の砂流を押し返す。
ユリウスは背中のモルンを守るように身体を傾け、必死に走り抜ける。
シュウもプエルも、それを追いながら振り返る余裕すらない。
アリアはイリスを抱き締め、最後の一歩を踏み出した。
大気が変わり、砂嵐の轟音が遠ざかる。
ようやく光の中へと飛び出した仲間たちは、その場に倒れ込むようにして呼吸を整えた。
イリスはアリアの腕の中で、小さく、胸元を握る。
「アリア……なんで……なみだ……?」
アリアは初めて、自分の頬を伝っていたものに気づいた。
砂の痛みでも風のせいでもない。もっと深いところから溢れた涙だった。
「……わからない。
でもね……あなたが“わたしを知ってる気がする”って言ったから……」
イリスの瞳が丸くなる。
その奥で、かすかな光が揺れている。思い出の欠片のように。
アリアはそっと額を寄せた。
「いつかその欠片が、全部つながる日が来るわ。そのときは……ちゃんと教えてね。イリス」
自分でも理由を言い切れない。
でもイリスの言葉に、胸の奥がひどく締めつけられたのだけは確かだった。
イリスはその涙をじっと見つめ——
アリアの指先に、自分の小さな触手のような手をそっと触れさせた。
「……アリアの、なみだ……あったかい……
わたし……しってる……きが……する……」
言葉はそこで途切れた。
イリスの瞳はまだ揺れたままで、記憶の扉はほんの隙間しか開いていない。
アリアはそっとイリスの頭を撫でる。
「無理しないで。あなたのペースでいいの。思い出すときは、きっと……自然に来るわ」
イリスはこくりと頷き、胸に顔をうずめた。
その背後では、まだ仲間たちが荒い呼吸を整えていた。
ユリウスはモルンを下ろし、ルクスが彼に軽い安定化の魔法をかける。
プエルはへたり込み、シュウは砂を払いながら空を見上げる。
エリオットが頬の砂を拭い、深く息を吐いた。
「……全員、無事だな」
その言葉に、アリアは小さく頷いた。
胸に宿る温もりが、まだ震えている。
イリスはもう眠りかけているのか、アリアの服をぎゅっと握りしめたまま動かない。
——この手を、離しちゃいけない。
理由はまだ見えない。
でもその想いだけは、砂嵐よりも、記憶の欠片よりも、強く、確かだった。
アリアは静かに息を吸い、皆に続いて歩き出す。
こうして、崩壊した迷宮からの脱出は完了した。
けれどイリスの胸奥で揺れた記憶は——
ほんの始まりにすぎなかった。
ーーー293話へつづく




