第八十七話 すでにハッピーエンドであるために
死屍累々だった。
小さな飲み屋の中で立っているのはシャルリアの母親(と厨房から顔を覗かせている父親)だけだった。
いつもこういうノリだからゴロツキ一歩手前の冒険者やらちょっと変な奴らしか昔からの常連にはならなかったという経緯があったりする。シャルリアの母親が死んでからの十年前後で客層も比較的マシになってきた気がしないでもなかったが、今日からまた振るいにかけられることだろう。
だから。
彼女はこう言ったのだ。
「で、いつになったら正体暴露タイムに突入するわけ?」
その一見すると意味のわからない言葉に、しかし死屍累々の中から一人の『誰か』が起き上がった。
こうして立ち上がってもシャルリアの父親にはどうにも印象に残らない。そこにいるにはいるのだが、どうしても一個人として認識できない。
認識が、そういう風に希薄化してしまう。
有象無象の一人。多くの人間が行き交う中、その全ての人間が記憶に残らないように『そこにいるとしても明確にどんな人間か認識されない誰か』と自己を調整している者。
そんな『誰か』が口を開く。
「いやはや参ったっすね。『白百合の勇者』だった時も中々だったっすけど、完全に人間をやめて『超越者』になったお前にはやっぱりこんな小細工通用しないっすか。これでも今までよりも強度を上げているんすけどね」
「ロキ。第零生まれのアンタがこんなところで何をやっているのよ?」
ロキ、と彼女は『誰か』をそう呼んだ。
神々の世界である第零生まれ、すなわちれっきとした神に分類される『超越者』である。
神でありながらこの世界の冥なる理を拭い去った女王ヘルをはじめとして神々が危険視するほどに強大な『超越者』を生み出した存在。
『相談役』ジークルーネやシャルリアの母親という例もある通り、そういった存在がこの世界に降臨すると力の大半が削れたりするので本来の彼の実力はこれまで観測されてきたものとは比較にならないほど強力ではあるのだろう。
それでも七つの大罪の召喚など、直接的な暴力以外の悪意は決して小さくなく、時代が違えば大陸中を鮮血と死で埋め尽くしていてもおかしくない力はあるが。
「まあ何をやっているといえば、色々っすね。『黒滅ノ魔王』なんて浅い理解で扱われていた『超越者』の力を劣化コピーした秘奥を回収したり、『黒滅ノ魔王』の魂を保管していた秘奥にアクセスして記憶の『バックアップ』から望む知識を手に入れたり、大小合わせて777の勢力に入り込んで僕の望むものが手に入るよう背中を押して使い潰したりっすね。……しかし、まあ、僕の名までバレているということは天の誰かが余計なことを言ったってことっすか」
「まあね。神々にも事情があるというかそういう膠着状態をロキがつくったとか? だからあたしに情報を寄越すのが限界っていう感じだったけど、そんなのはどうでもいいわよね」
これまでの裏切りが全てではなかった。
『雷ノ巨人』、クルフィア=A=ルナティリス、『黒滅ノ魔王』。そのどれもが真なる主ではなく、その他にも多くの勢力に入り込んで同じようなことをしていたのだ。
光系統魔法に関して見解を口にしていた時だってその相手はこれまでで判明していた誰に対してのものでもなかった。777の勢力、そのいずれかに対してだったのだ。
だからこそ彼はロキなのだ。
北欧の領域における最悪のトリックスター。神々の世界に利する行動をしながらも女王ヘルをはじめとして神々の勢力に属さない強力な『超越者』を世に放つような神であり、決して魔族の一人などという小さな存在ではない。
誰の敵にして味方でもある。
その行動は特定の誰かのためではなく、最終的に自分のためにその他大勢をいいように転がしているだけ。
ゆえにトリックスター。
生まれながらの黒幕の悪意に気づいた時にはもう遅い。
「で、そこまでして何がしたいわけ?」
「主神が他の神にすらも秘匿・独占している極秘文書に記された『初代』光系統魔法の使い手による予言、極大の戦争ラグナロクを僕の都合のいいように終わらせたいんすよ」
ロキは笑う。
シャルリアの母親がこれまでどんな偉業を成し遂げてきたかわかっていても、なお、笑うことができる。
「生き残りがリーヴとリーヴスラシルとかいう人間だけ? バルドルとヘズがいいとこ取りをする? ふざけるのも大概にしろ。最後に笑うのは僕だ、他の誰かに勝ち組を譲るつもりはない」
これまでの『ガワ』を破り捨てて。
悪意のままに。
「だけど、ここで僕を糾弾しても事態は好転しないとは思わないか? ラグナロクは、必ず起きる。終末を撒き散らす最悪の戦争は九つの多種族の世界も神々の世界さえも巻き込んで鮮血と死で終わらせる。そうだ、一部の運命に選ばれし例外を除いて全ての生命が死ぬんだ! 主神も勇者も皆殺しにして、『新人類』だの『新たな神々』だのぽっと出のもんがこれまでの積み重ねをぶち壊すんだよ!!」
「…………、」
「だけど僕はそんなラグナロクの結末を変える方法に心当たりがある。そのためにこれまで暗躍してきたのだから。つまり僕ならラグナロクによって誰が生き残るか、救いたい奴を選べるというわけだ」
「…………、」
「さあ、どうする? 僕に傅いて救いを求めるか、それとも必ず滅びる末路にお前やお前の大切な者たちを追い込むか。こんなの選ぶまでもないと思うが?」
嘘ではないのだろう。
これまで『現在』のあらゆる事情を見抜いてきた彼女だからこそロキの言葉に嘘はないとわかってしまった。
ラグナロク。
終末を導く極大の戦争が起きれば一部の例外を除いてあらゆる生命は死ぬ。彼女の夫も、娘であるシャルリアも、絶対に。
それが前提だ。
その上で彼女はこう答えた。
「ん? ああうん、そうね。そういうの別にいいかな」
軽く。
それこそ雑草でも抜くようにぞんざいに。
「……後悔するぞ」
「わー小悪党みたーい」
「信じられないと目を逸らしているのか? 全てが終わってから僕に傅いていればと後悔することになるぞ!?」
「いやまあロキの言葉は信じているわけだけど、それはそれとして鬱陶しいからぶちのめすのは確定的な?」
「ここで僕を殺しても何も変わらない!! ラグナロクによってあらゆる魂は完全なる死を迎える!! その後に残るのは運良く勝ち組を手に入れる奴らだけだ!! 『新人類』だの『新たな神々』だの、これまでの積み重ねが存在しない連中が世界を埋め尽くすことになるんだぞ!? そんな結末をお前は許容するとでも!?」
「と言えばあたしが慌てて縋りついてくるとでも思った? 随分と安くみられたものね」
ロキはこれまでの騒動を裏で操ってきた最悪のトリックスターだ。やりようによっては被害を未然に防ぐこともできたかもしれないのに、あえて己の望む方向に背中を押してきた。そう、あれだけの騒動、被害の先にこそ彼の望みはあるということだ。
振り返れば、だ。
あんなものを許容していた彼の『やり方』に救いがあるのか。これまでのようにこれからもロキ『だけ』のために世界中を引っ掻き回すのは間違いない。
何やらラグナロクの結末が悲惨だから許せないという口ぶりだが、それだって生き残りが少ないことではなくてそこにロキの存在がないというだけだ。彼は大勢の命が失われることに怒りを燃やしているわけではない。その証拠にシャルリアがいなければ今頃魔王によってこの世界が滅びているくらいなのだから。
だからロキが許せない、とそんな正義の味方のような考えはシャルリアの母親には一切ないのだが。自分勝手な女はそこまで慈愛に満ちていない。
最悪のトリックスターよりも自分勝手な女が口を開く。
「そもそも何であたしよりも弱い奴に救いを求めないといけないわけ? 必要ならこの手で救うわよ」
傲慢を極めていた最強の悪魔グリファルド=L=ライピーファなんて比較にもならない。
だけどその言葉の力強さは実績でもって支えられている。『特別』。別に執着してはいなかったが、大切な人たちを守り抜けるなら彼女は『特別』でいい。
その果てに夫や娘の幸せがあるなら、いくらでも『特別』になれる。
「だから、まあ、そろそろ終わらせようか」
「……ッ」
勧誘は失敗した。
わざわざロキが出向いたのはここまで暴れて結果を残してきたシャルリアの母親を言葉巧みに操るためだったのだろう。『雷ノ巨人』然り『魅了ノ悪魔』然り『黒滅ノ魔王』然り、どれだけ強大でもその方向性さえ誘導できれば野望を果たす強力な武器になるのだから。
だけど、だ。
別に殺されたところでロキには何の問題にもならない。
これまでだって死んできた。その度に彼は一度天に戻ってから改めてこの世界に降臨してきたのだから。
そう、これまで貫かれたりすり潰されたりしても何事もなかったように現れていたが、あれは本人が言うところの死んだふりではなかった。
実際に何度も死んでいた。
その度に彼の魂は天に戻り、改めてこの世界に降臨していた。それこそ『相談役』ジークルーネは二度と天には帰れないという制約があるが、真なる神である彼にそういった制約はない。
……悪魔は魂だけでも生者扱いされるのでこの世界の理がロキの存在によってエラーを起こすことはなかったし、必要なら理そのものを歪めてしまってもよかった。
何せ彼は正真正銘の神なのだから。
彼にとって理とは従うものではなく定めるもの。世界なんて神の好みに合わせていくらでも作り変えることができる。
何なら魂ごと殺す力を受けても平然と生まれ変わることだろう。それくらいの奇跡は容易いというのはシャルリアの母親がロキについて教えてもらった時に聞いている。つまり七つの大罪の悪魔を殺した時のように魂さえも抹消する力をぶつけても生まれ変わりという形で再誕するロキには意味がないというわけだ。
いくらシャルリアの母親がロキを殺そうとも、『元いた世界』に舞い戻るだけで何の痛手にもならない。それではいつかどこかでロキが勝つまで決着がつかないということになる。
だから。
だから。
だから。
光があった。
純白にあらず、ゆえにシャルリアの母親の魔法ではない。
それは新たに店に入ってきた二人組のうちの一人から放たれていた。
バニーガールに白い羽のコートの金髪碧眼の美女。
すなわち『相談役』ジークルーネによって。
もう一人。
ガルドはこんな風に吐き捨てた。
「ったく。いくら第一王女やブレアグスと繋がりがあるとはいえ王家秘蔵の魔法道具や『相談役』を使うのは簡単なことじゃないんだからな」
「だったら他の方法でも見つければいいじゃん。あたしとしては手段は何でもいいし」
「お気軽に言ってくれるな。お前の魔力を誰でも使えるよう王家秘蔵の魔法道具で『調整』して魔力不足の『相談役』に渡す以外にそいつを封殺する手段なんてそうそうあるかっての」
「だからそうしているだけなのに、何が不満なわけ?」
「……はぁ。この感じ、実は何も変わってないんじゃないか?」
そんな風に会話をしている間にもロキの全身は謎の光によって呑み込まれそうになっていた。
『第七位相』そのものとも呼ばれているジークルーネの力。すなわちかつて力を貸し与えていた『第七位相聖女』の得意技とされていた魔法と同質の、それ。
封印。
肉体及び魂を完全に停止させる空間に対象を封じる空間系統魔法の真髄である。
「相談内容:殺しても倒せない男の対処、その方法は? 回答:再生や幻覚、その他どんな手段にも対応できるよう封印すればいい。……この手で殺したこともあり、七つの大罪の一角にすり潰されたというのも観測された敵対者なれば封印が最適解」
「じーく、ルーネ……混ざり物の玩具がこの僕を封じるとでも!?」
「そういう『相談』なれば、叶えるのが務め。ここは神々の領域にあらず、本領を発揮できない今のロキが相手ならば序列を覆すことも可能なれば。それに地上ならば天の上にどのような事情があっても影響しない」
「僕の正体すら認識できていなかった人形ごときが偉そうに!!」
光がロキを呑み込む。
殺しても神々の世界に逃げるだけなら封じてしまえばどこにも逃げることはできない。
「本当にいいのか? 予言は主神が独占している! 戦争を司るあの野郎に手綱を許していればラグナロクは予言通り過去最大の被害を撒き散らすぞ!? ラグナロクは、必ずや全世界を鮮血と死で埋め尽くす!! その末路から生き残るためには僕の知識と力が必要なんだ!! だから……ッ!!」
「っていうか」
そこで。
トドメとばかりにシャルリアの母親はこんなことを言った。
「アンタみたいな自分が『特別』だと思い込んでいるだけの奴がいたら普通に邪魔だから。黒幕ぶっておいてこんなあっさり封殺される程度の男に世界の命運なんてどうこうできるわけないじゃん」
それは実際に世界を救った女だからこその重みがあった。
直後にロキの全身が光に包まれて、その身体も魂も完全に封じ込められた。
ーーー☆ーーー
「これからどうするんだ?」
そんな父親の問いかけに母親はこう即答した。
「ラグナロクは起きる前提で話を進めていたクソ野郎とは違ってそもそもラグナロクが起きない運命を掴み取ってやるわよ。いやまあ全人類とかどうでもいいけど、ラグナロクなんて起きたら絶対にシャルリアが悲しむからね。それはハッピーエンドとは呼べない的な?」
「そうか。あまり無理はするなよ」
「ははっ。あたしの心配するのなんてあなたとシャルリアくらいよ……。ねえ、あなた。大好きだよ」
「ああ」
「そこは好きって返してくれるところじゃない?」
「む。俺も、なんだ。シャリアのこと好きだぞ」
「よろしい。……ふっふふ。ああ、幸せだなぁ」
さて、と区切って。
そして彼女はこう言った。
「それじゃあもうひと頑張りしますかっ」




