折られた可憐な花二話
憐夜に鞭打ちをした後、更夜は血のついた木の枝を見つめながら奥歯を噛みしめた。
……俺はあの子を変えてしまった……。あの子はとても優しい子だったはずだ。あんなに冷たい目ができる子ではなかった。
……これで……良かったのか?
更夜は血で濡れている木の枝を捨てると立ち上がり、傷を癒しているはずの憐夜を探した。憐夜はすぐに見つかった。木々が少し開けた場所で、傷口にさらしを巻くわけでもなく、憐夜は呆然と座っていた。
「……憐夜……。」
更夜は憐夜にそっと声をかけた。
「お兄様。きれいなお花が沢山咲いています。紙と筆があれば描いたのに。」
憐夜は何事もなかったかのように、目の前に咲く白い花を笑顔で見つめていた。
「そんな事を言っている場合ではない。止血しなければ……。」
「おかしなお兄様ですね。お兄様が私を叩いたのでしょう。こんなに、血が流れ出るくらいに何度も何度も。……もう痛くもないので問題はありません。」
憐夜は感情のない声で更夜に答えた。
憐夜は他の兄弟とは少し違う方面へ心が動いたようだった。
この世界を恨んでいる……自分の事なんて、もうどうでもいい。ただ、この世界を恨む。憐夜の顔はそう言っていた。
「憐夜……。」
「お兄様、それよりもお花がきれいです。こんなきれいなお花を絵にしてみたい……。お兄様はきれいなお花には興味はありませんか? あ、筆がなくても私の血でお花を描けばいいんでしたね。ちょうど出てますし。」
憐夜の問いに更夜がどう答えるか悩んでいると、ふと近くで女の声がした。
「本当にきれいな花畑だ。こんなところにこんなものがあるとはな。」
「お姉様。」
更夜と憐夜の隣に音もなく立っていたのは千夜だった。千夜は一番年上のはずだが、身長は憐夜よりも小さかった。
「憐夜、しばらく見ぬ間に大きくなった。……だが、お前の心は間違っている。」
千夜は憐夜の横に座ると、そっと肩を抱いた。
「お姉様……?」
「感情を捨て、痛みを感じなくなる事は忍としては良い。だが、自分の事をどうでも良いと思うのは間違いだ。私達は常に生きようとしている。ただ、まわりに迷惑がかからんように、自分で自分を守れるように、我々は過酷な事をしているのだ。私達は家族だが仕事に出れば守ってやれん。だが、お前達が傷つくのは辛い。難しいが、それをまわりに知られてはいかんのだ。なぜならば敵の忍に逆手にとられるからだ。……ん? 憐夜、怪我をしておるな?」
千夜は優しい瞳で憐夜に声をかけた。
「はい。木の枝で叩かれました。私がいう事を聞かなかったからです。」
憐夜は平然と千夜に言い放った。
「そうか。更夜はこんなもので済ませてくれたのか。良かったな。憐夜。傷は浅いが、しっかりと処置をしなさい。これも修行だ。」
千夜は感情なくつぶやくと憐夜の頭をそっと撫で、立ち上がった。
「……はい。……お姉様、もう行かれるのですか?」
憐夜の問いかけに千夜は小さく頷くと、更夜に近づいた。
「お前の判断は間違っていない。憐夜の成長はこれからだ。あと三年、しっかり憐夜を作り上げるのだ。いいな。更夜。」
「……はい。」
千夜の言葉に更夜は素直に頷いた。千夜はそれを見、悠然と歩き出した。
「……やはり妹に手を上げるのは辛いか? 更夜。」
千夜はふと思いついたように歩みを止め、更夜を振り返った。
「……いえ。問題ありません。これから徐々にしつけを厳しくしていきます。お姉様に対するご無礼、申し訳ありません。」
更夜は憐夜のしつけが甘い事を指摘されたのだと思い謝罪したが、千夜はゆっくり首を振った。
「憐夜ではない。お前自身だ。だいぶん疲れた顔をしていた故な。大丈夫ならばそれでよい。私は齢二十二だ。故に仕事が忙しい。後は軽い任についている逢夜に頼むと良い。」
千夜は一言つぶやくと足音もなく去って行った。
「ありがとうございます。お姉様。」
更夜は千夜の背中にそっと頭を下げた。
ふと顔を上げると憐夜がいつの間にかいなかった。更夜は頭を抱え、憐夜の気配をさぐり、歩き出した。憐夜は花畑の下に流れているきれいな沢で、傷ついた背中に水を流していた。そして一通り血を流すと、自分でさらしを巻き始めた。
「……憐夜、水をよく拭き取りなさい。そのままさらしを巻いてはいけない。」
横で見ていた更夜は憐夜に注意をした。憐夜は突然現れた更夜に驚いていたが、素直に頷くと自身の着物を少し裂き、腕を回して背中を丁寧に拭き、さらしを巻いた。
「さて。では食事にしよう。憐夜、食べられるものを持って来なさい。食べられる野草については教えたな?」
更夜は鋭く憐夜を睨みつけると憐夜の頬を思い切りはたいた。
「……返事をしろ。」
「……はい。お兄様。行ってまいります。」
憐夜は頬を押さえながら足早に去って行った。
「……あの子の足だとしばしかかるか。憐夜も腹を空かせているだろうから、俺が魚を取っておいてやろう。」
更夜は独りつぶやくと、沢を泳ぐ大きめの魚をクナイで四匹仕留めた。
更夜は沢の側に腰かけ、精神統一をして憐夜を待った。しかし、憐夜は一向に戻ってこなかった。
「……遅いな……。あの子は何をしている……。」
更夜は心配になり少し気配を探ったが、気配を感じなかった。
「……探すか……。」
更夜がそう思い始めた時、二つの気配を感じた。刹那、更夜は二つの人影を発見した。
「……お兄様と……憐夜か?」
人影は逢夜と憐夜のようだった。逢夜は素早くやや乱暴に更夜の前に着地すると、憐夜を放り投げた。憐夜は全身傷だらけで身体は水で濡れていた。
「お、お兄様……これは……。」
更夜は逢夜と気を失っている憐夜を交互に見つめながら戸惑っていた。
「更夜、憐夜が山から出ようとしていた。すげぇ抵抗されたんで、二度とできねぇようにお仕置きしてやった。目的を吐かせようと頭を川に突っこんで拷問したが、途中で気を失っちまったから連れてきた。心配すんな。手加減はしたし、水も吐かせた。しかし、こうも聞き分けがねぇとはな。」
逢夜の非道さに更夜は何も言えなかった。更夜もこうやって何度も逢夜に暴行された。
逢夜の折檻はいつも残酷だったが、それをやるには必ず理由があった。
規律に厳しい伊賀忍者とは違い、甲賀忍者は忍をやめても殺される事はないが更夜の家系、その周辺の集団だけは厳格だった。これは甲賀忍者の質を高めるための手段だったようだ。里から出る事は抜け忍とみなされ、殺害される。憐夜のような弱い忍ならばすぐに見つかり処刑されるだろう。逢夜はそれに一番気を使っていた。
「……甲賀でも俺達の家系じゃなけりゃあ逃がしてやるんだが、こいつはちょっとまずかったな。絶対的な恐怖を与えねぇとまたやりそうだからな。泣き叫ばれようが謝罪されようが関係なく殴った。……妹とはいえ、齢十の小娘……俺ぁ、もう二度とやりたくねぇ。」
逢夜は泣き叫んでいた憐夜を思い出し、顔を曇らせた。
「もう泣かないと言っておりましたが、やはり十の娘。お兄様は恐ろしい存在のようです。」
「そんな事はどうでもいい。更夜、これはお前にも責任がある。よってお前にも仕置きがいるようだ。俺達の家系は連帯責任だ。わかるな?」
「はい……申し訳ありません。お兄様。」
逢夜の言葉に更夜は素直に頷き、着物を静かに脱いだ。
……おかしな家族の狂った規律は、さらに憐夜を追い詰めていく。




