春に散る花 六話
はるの妊娠はすぐにわかった。なんだか気分が悪そうな日が続いたからだ。
悪阻であることは俺にもわかった。俺ははるを凍夜から離し、長期の仕事をやることにした。あの屋敷にいなければ、凍夜にバレない。
危険な仕事だった故、あまり気にかけてやれなかったが、村人に溶け込み、はるを助けてもらっていた。敵国の村人と仲良くし、情報を盗み、武家として城に入り、城主を暗殺する。
これが俺の仕事だ。
村では子を身ごもった女を連れた男が疑われることは少ない。
武家屋敷は遠いため、俺は変装して二月ほどいなくなった。
仕事は失敗していなかった。
やがて悪阻の時期が過ぎ、安定したはるに沢山の野菜を食べさせた。
生まれてくる子ははるに似てかわいいに違いない。
はるもよく笑ってくれるようになった。
幸せだった。
もうここで暮らしたい。
そう思った。
やがてはるは、かわいい女の子を産んだ。
小さな手が俺の手を握る。
俺は赤子を抱き上げると、この村に伝わる子守歌を歌ってやるのだ。だいたいが泣き止まず、はるに苦笑いされるのだが。
赤子は静夜と名付けた。
静かな夜になってほしい。
戦や忍で溢れない夜がほしい。
その願いで決めた。
はるは幸せそうだった。
俺達はようやく家族になれた。
盗んだ情報は俺を監視している忍に口頭(無声)で伝え、その忍が凍夜に報告するという方法をとった。
俺はいつも大きな情報を盗むため、凍夜も誰も口出ししてこなかった。
幸せな日々は五年ほど続いた。
娘はすくすく育ち、はるに似てかわいい顔で笑う少女になった。
「おとうさまー!」
静夜は俺にいつも拾ってきたものを見せる。ドングリ、葉っぱ、虫……気になるものを見せてくるのだ。
「静夜、更夜様が困っているでしょう?」
はるは俺の顔を見て、楽しそうに笑う。俺は二人をそっと抱き寄せて幸せを噛みしめた。
守る命が二人になった。
凍夜の元へは帰らずとも、別によい。
そんなことを思い始めていた。
しばらくして、俺は家族のために、城主を暗殺した。
この件で俺は鈴という少女と関係を持つのだが、また、別に話すことにしよう。
そのすぐ後に、凍夜からの呼び出しを食らった。
ここの城主を暗殺した直後だ。
俺ひとりで行くつもりだったが、敵国に娘と嫁を置いておけなかった。
「はる……戻らねば」
「……ええ」
俺がそう言うと、はるは俺の手を握り、「ついていきます」と笑顔と覚悟を向けた。
そこで俺は誤解していたことに気づく。
はるは……初めから強い女だった。弱いのは俺の方だ。
俺は腹をくくり、はると幼い娘を連れ、屋敷へ戻った。
女二人を連れていたため、半年ほどかかってしまった。
ある晴れた春のこと。
桜が満開で喜ばしいはずだが、俺達の気分は悪かった。
屋敷へ入り、久々に凍夜と対面した。凍夜はほとんど変わっていなかった。だが、威圧や実力はもう俺の方が上だった。
「久しぶりだな」
「はい」
「ほぅ、そいつがガキか」
横にいた静夜は身体を震わせながら頭を下げていた。
すまぬ、もう少しだからな。
俺は心で静夜にそう言った。
「はい。望月静夜……でございます」
俺はそう紹介した。この子は俺の血が入っている。
もう望月だ。
そう思ったが、凍夜は嘲笑した。
「はっ。望月? そいつはお前が犯して壊した下女のガキだろう。笑わせる。母が下女なら子も下女に決まっている」
凍夜の言葉に俺は、幻想を抱いていたことに気がついた。
はるは正式な許嫁ではないのだ。
家長の凍夜が許していない。
「お……おとうさま……おかあさまを犯して壊したとは……?」
静夜が俺にそう言った。
俺の身体に冷たいものが這った。
まずい。
「お父様」は凍夜様だけだ。
凍夜望月の祖、凍夜のことを子孫は「お父様」と呼ぶ決まりだ。
俺をお父様などと呼んでは……。
空気がはりつめた。
「ほぅ。なるほどな」
凍夜は狂気に満ちた笑みを浮かべ、俺を見る。
「お父様、静夜は……」
「黙れ。更夜。下女がなめた口をきいたな。ガキ、お前に名前などいらんのだ。お前は、更夜が弄んだ下女とのガキだ。そこの下女に術のかかりを試したりなど、楽しそうだったぞ」
「……!」
静夜は怯えた表情で俺とはるを見る。はるは目を閉じていた。
「望月だと思ったか。お前は親父に乱暴されて産まされた下女とのガキだぞ。つまり下女だ。下女が望月に泥を塗るか。お仕置きだな」
俺は着物を握りしめ、目を見開いた。
静夜が……。
守らねば……。
「せっ……せいやは……」
おかしい。
俺の口が突然動かなくなった。
身体も動かせない。
「お前は俺に指図するか? 更夜」
凍夜の目を見、俺は金縛りにあった。
「恐車の術」だ……。
また……逆らえない。
俺の実力ならば、あいつを殺せる……。
殺せるはずっ……!
「……更夜様、いままでありがとうございました。……はるは幸せでした。私の時のように……娘を……静夜を守ってくださいまし」
俺が動けないことを知ったはるが、涙声でそう言った。
……ダメだ……。
はる……。
待ってくれ!
「は……る!」
「私が代わりに罰を受けましょう。下女の娘を助けてくださいまし」
はるは死ぬつもりだ。
はる……やめてくれ……。
「まあ、よい。お前の娘は俺の下女だ。お前は死ね。演技をして俺を騙した罪もついでに償わさせてやる」
凍夜ははるが演技をしていたことを知っていた。敵国の情報を仕入れるまで俺達はずっと、泳がされていただけだったのだ。
はるは……俺達の目の前で残虐な拷問の末に死んだ。
凍夜ははるを庭に放ると、何事もなかったかのように仕事に出掛けた。桜の花が開け放たれた障子扉から風に舞って散っていった。
「おかっ……おがあさま!」
静夜の絶叫が屋敷に響く。
苦しみながら殺された母親を、吐きながらも見させられた五歳の少女。震えながら、怯えながら、瞬きせずに髪をかきむしる。
わけがわからないだろう。
はるがこのような殺され方をした理由もわからないだろう。
俺は教えていない故に。
静夜は涙を浮かべ、発狂し、失禁し、やがて気を失った。
俺は静夜を丁寧に拭いてやり、部屋の隅に寝かせた。
そして俺はぬくもりのなくなったはるを埋葬する。
俺はなにもできなかった。
守るはずの嫁が暴行されるのをただ、見ていた。
はるの血を丁寧に拭き取り、はるを抱え、風がよく吹く丘に埋めた。憐夜の時もそうだった。
あいつに逆らえなかった。
あいつが憎い。
殺してやりたい。
俺は歯を食い縛り、屋敷に戻った。
次の仕事まで待機だそうだ。
しばらく、ここで過ごさねばならない。
はる……。
はる……。
生物を殺すのは簡単だ。
だが、戻らないのだ。
俺は静かに涙を流した。泣いているところを誰にも見られたくなかったのだ。
男が泣くのは情けない。
そういう時代だ。
こんなに張り裂けそうな気持ちであるのに、大声で泣けないのだ。叫べないのだ。
はる……。
俺は何度もはるを呼ぶ。
はるはもう答えない。
殺されるところを見させられた。致命傷はあの残虐な試し斬りだ。
斬られる寸前に、はるは俺を優しい目で見ていた。
愛おしいその顔はわずかに微笑んで、
「あなたは生きて」
と、声を発せずにそう言った。
また……吐き気がする。
はるはもう戻らない。
もう、ここから先に、はるはいない。
何度でも言う。
殺すのは簡単だ。
だが、戻せない。
戻せないんだ。
あの笑顔、優しい声音、柔らかい肌もっ……
もう……
「戻せないっ! 戻ってこない!」
歯を食い縛ってこの気持ちに耐える。
はるはもういない。
……もう、悲しむな。
泣くのは終わりだ。
静夜を守らねば。
静夜が幸せになれる道を探さねば……。
俺はそれを心で反芻し、唇を噛みしめて涙を止めた。




