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「その方を解放していただきましょう、殿下」




 さて。


 芸術というものは愛でる者がいなければ意味がないとよく言いますが、その点、本日の来客は非常に申し訳ない鑑賞者でした。

 私もあまり芸術に造詣が深いとは言えません。ですが、飽きたと言ってはばからないのはこの国の第一王子です。それはまあ今年に入ってすでに十回近く来ているそうですから気持ちはわかりますが、立場をもうちょっと考えて口を開いた方がいいと思います。

 案の定、早々に眠たそうな様子をみせたギーは、欠伸をこらえながら言いました。


「それにしても、暇だな」

「あなたがここを選んだんでしょうに……」

「それでも暇は暇だ。飽きた。外に出るか」

「では護衛に許可をもらって来てください。もらえるものなら」

「撒くに決まっているだろう。ぞろぞろ兵を連れてパンを食いに行けるか」


 言いながら足を踏み入れた道の先は、奥まった行き止まりでした。その場所自体がキャンパスなのでしょう。空に続く階段が真っ直ぐ伸び、四方に風景が描かれています。

 なかなか面白い趣向ですね。鮮やかな空の青。白い煉瓦に影を落とす鳥。広がる景色の一歩手前。美しい夏を思わせる絵です。

 そちらに気を取られながら、私は呆れ声を返しました。


「……あれ本気だったんですか……って、うわ!」


 唐突に抱え上げられ、悲鳴を上げました。

 まるで小麦袋か何かのように私を肩に担ぎ、ギーはひどく機嫌のいい声で応じます。


「当然本気だ」

「ちょっと、ギー! 公式訪問なんですよ、大事になるでしょう!」

「問題ない。皆慣れている」

「慣れさせてどうするんですっていうか降ろしましょうよ!」

「暴れるな。落ちるぞ」

「あああもう何で言葉が通じないんですかあなたは……!」


 言い合う間にも、非常口を蹴り開けたギーは迷いなく走っていきます。

 大して立派でもない身体のどこにこんな力があるんでしょう。いろいろ諦めてぐったりしていたところに、後ろから、兵たちの慌てた声が漏れ聞こえてきました。


「あっ、殿下が……!」

「くそっ、やられた!」

「殿下が消えたぞ! 門を封鎖しろ! 一斑だけ私について来い!」


 ……どうも、王子に対するものとは思えないのはなぜでしょう。ほとんどサーカスから逃げ出した珍獣の扱いです。

 むしろ彼らに同情してしまいます。現状からの逃避であることは重々承知の上ですが。

 そろそろ圧迫された腹が真剣に苦しくなってきました。暴れる気力もなくぐったりしていた私は、ギーが窓枠に足をかけたのに気づいて顔色を変えました。


「待った! 窓は出入り口じゃないですよ!」

「落ちない落ちない。一階だしな。ちゃんと掴まっていろ」


 な、殴りたい。今ものすごく心の底から殴ってやりたいです!

 ひょいと植木まで飛び越えて見事に着地したギーは、ピイッという高い音に舌打ちしました。

 顔を上げれば、いつの間にか周囲には衛兵の姿。青い顔をした彼の従者も混ざっています。


「そこまでです。その方を解放していただきましょう、殿下」


 まるきり誘拐犯への台詞です。

 ギーはようやく私を降ろし、眼前に進み出た人物をつまらなさそうな顔で睥睨しました。

 かなり長身の男性です。厳しげな顔と岩のような体躯、剃り上げているのかそれとも禿げなのか、つるりとした頭。濃い緋色の衣服もあいまって、なかなか印象の強い人物ですね。


「……お前か、ガルグリッド。お前だとわかっていれば、もう少しうまくやったんだがな」

「お戯れがすぎますぞ。これ以上、考えのないことをなさらぬよう。その方がどれほど高貴なお方かおわかりか?」

「ああ。失礼した、星下(せいか)


 とか言いつつ無造作に私の頭を叩いたものだから、相手の鉄面皮が音を立てて引きつりました。

 勢い余って不敬罪でしょっ引いてくれることを期待したのですが、ガルグリッド卿は主筋への怒りを気力でどうにか押さえ込んだようです。ギーを無視して、私に深々と頭を下げました。


「大変失礼を致しました。星下におかれましては、次は人をお呼びいただければ幸いに存じます。なにぶん、行動の突飛なお方ですので」


 要するに、もうちょっと抵抗しろといいたいわけですか。いい度胸です。

 覚えておきましょうと外交用の笑顔で応じる私に、彼は無感動に続けました。


「お聞きしたところによれば、このたびはわが国へご静養にいらしたとのこと。王都では何かと気忙しくもありましょう。ロワーナ島には王家の別荘がございます。いかがでしょう、そちらでごゆるりと羽休めをなさっては?」


 ふむ。引き離し工作のようですね。表向きの訪問目的を逆手に取られました。

 どうやら彼も――いや、彼が、でしょうか。フォーリとの婚姻の推進者であるようです。

 となると、受けて立たないわけには行きません。私はにっこりと笑顔で返しました。


「お気遣いなく。確かにいささか驚きましたが……猊下がお気に召した南方の楽園を、私も楽しんでいくつもりですよ」

「然様ですか。では、お気変わりがございましたらいつなりと」


 思ったよりもあっさりと引いて、彼は周囲を取り囲む衛兵に目配せをしました。

 逃亡騒ぎもここまでです。

 笑顔のまま誘導に従い、私は憮然とした顔のギーに訊ねました。


「彼は大臣ですか?」

「ああ。うちの内務卿だ」

「え、びっくり。軍務卿じゃないんですか」

「軍にいたことすらないぞ。根っからの文官だな。体を鍛えるのが趣味らしいが」


 それでなぜ文官。

 よくわかりませんが、なかなか冷静で頭の回りそうな人です。神殿の第六神官長あたりの下にああいう人がいると面白いことになりそうなのですが。

 ラクイラにもああいう人がいるんですね。何よりです。


 なんだか、ちょっとわくわくしてきました。

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